10分でわかるインドミツバチアートの歴史

廉価簾

10分でわかるインドミツバチアートの歴史

 

 こちらの画像をご覧ください。このような雰囲気の油絵、みなさんも一度は見たことがあるんじゃないでしょうか。そう、AIアートです。懐かしいですね。

 AIアートが世界的に流行したのは、1980年代後半から90年代前半にかけてのことでした。日本でも当時は様々なメディア上で、アートの民主化、インドミツバチとの共創の時代と喧伝され、人々は巣箱と油絵具を買い求めました。人々は、蜂が巣板に営巣する絵画の美しさを競い合い、フェロモンの調合に熱中しました。こうしたAIアートは、デジタルアート全盛の今では姿を消したように思えるかもしれませんが、原理の一部は形を変えて残っています。

 今回のオプティミスト・アーカイヴは、AI(Apis Indica)アート――つまりインドミツバチアートの歴史について、解説していきたいと思います。面白かった、ためになったと思ったら、チャンネル登録よろしくお願いします。

 それでは、AIアートの父と呼ばれる、一人の養蜂家の人生を辿っていきましょう。



   ◆


 1956年、フィル・ガージェリーはカリフォルニア州で養蜂業を営む農家の長男として生まれました。

 ある日、11歳のフィルは家の手伝いで巣箱の点検をしていました。それは、巣箱の中で蜂たちが作る「王台」と呼ばれる女王蜂のための玉座を壊す作業でした。もし養蜂家がこれを怠れば、新たに生まれた女王が別の巣を作るために配下を引き連れて旅立ってしまうのです。ちょうど、新技術が一度拡散するとそれがない時代には後戻りできなくなるように。

 蜂王国の離散を防ぐための孤高な作業に没頭していた幼いフィルの顔の下半分を、突然、がさついて汚れた手が荒々しく覆いました。

「動くな。静かにしろ小僧」

 震えて声も出せないフィルに、音もなくイラクサの茂みから現れた、その恐ろしげな風体の男は言いました。

「この絵をその巣箱に入れろ」

 フィルはその無意味で冒涜的な儀式に強い不快感を覚えましたが、素直に従いました。男が持っていたオランダ紳士の顔が描かれた油絵は、不吉な偶然によって誂えたかのように巣箱に滑り込んでいきました。

「ぴったりだな、よし。明日の朝取りにくる。お前も早起きしてここに来て、巣箱を開けるんだ。家族や警察に喋ったらどうなるかわかるな」

 フィルは脅しに屈しました。フィルは男がその絵を盗んできた泥棒で、潜伏するときに目立ってしまう絵をここに隠しておき、明日出港する船で外国に逃げるのだと理解しました。


 明朝に約束を守ったフィルが養蜂場を訪れると、男は寒さに震えながら待っていました。フィルは巣箱を開け、絵を取り出しました。

「なんだこれは。なぜ絵が二枚に増えている」

 異常事態でした。よく見ると、巣板のうち一枚の表面がキャンバス代わりとなって、絵を完全に複写しているのです。

 自分のいたずらだと思われたら男が激昂しますから、フィルは知恵を振り絞って合理的な説明を考えました。それは、のちにAIアートの原理となる蜂の習性そのものでした。

「この蜂は、父がインドから取り寄せた特殊な蜂なんです。インドの山奥には鉱物が色とりどりの模様を作る岩窟があって、この蜂はその壁にくっついて、壁とそっくりな模様の巣を作るんです。蜂は巣の外壁が壊されたとき、複雑な模様ごと寸分たがわず直します。まるで写真みたいに。ほら、こっちの絵は絵の具じゃなくて蜜蝋や土で描かれているでしょ」

 黙考していた泥棒は、驚くべきことに、少年の言うことを信じました。そして「このことは誰にも言うな」と告げると、オリジナルの絵を持って、朝霧の中を港の方向へ逃げていきました。



   ◆


 フィルは家族に隠れて、蜂の能力についてささやかな研究を開始しました。彼は独自の観察眼と蜂への愛を以って、ダンスの解読やフェロモンの調合によって、蜂に簡単な命令をすることができるようになっていました。

 15歳になるころには、自然に採れる材料でだけではなく、実際の油絵の具で絵画の完全な複製を作ることに成功していました。蜂の分泌する蜜蝋は、テレピンオイルと合わせて実際に油絵で使われることがあるだけあって、メディウムとして申し分ないものでした。蜂は、マチエール、つまり絵画の凹凸まで複製しました。

「次に目指すのは……レンブラントの新作かしら?」

 エステラは言いました。フィルの一つ上の年の彼女は、近所に別荘を持つ富豪の娘で、画家を目指す才女であり、研究の協力者でした。貧しいフィルは邸宅に蜂蜜酒を届けるときに彼女と知り合いました。

 エステラはフィルの研究を面白がって、絵の具だけではなく複製のための絵画を提供しました。

 泥棒が持ち込んだ絵は実際のところはレンブラントの肖像画であり、エステラは「夜警」の失われた部分の修復を目標にすると豪語していました。

「新作だって?それって複製とは全然違うことだよ」

「だって、このままではあなた、ただの贋作師でしょう」

 フィルはやってみることにしました。エステラに嫌われたくなかったというだけではなく、思い当たる蜂の能力があったからです。ある日戯れに、肖像画の目の部分のカンバスが破れたものを複製させたところ、欠けた部分を蜂たちが補う素振りを見せたことがありました。最初のころ、その部分は目とも言えないぼんやりとした模様でした。しかし、たくさんの肖像画を複製する経験を積むにつれ、だんだんと目と呼べる形のものが描写されるようになっていきました。

「これって、蜂が人間の目というもののパターンを理解したということ?」とエステラ。

「そう思う。でも、顔全体を切り取ったカンバスでは支離滅裂な模様になった。もっと高次のパターンの理解が必要なんだ」

 高次のパターン。パターン同士の配列のパターン。顔や鼻のパターンだけではなく、それらが顔の中で配列されるあり方のパターン。さらには、身体や背景との関係性。高階に上るにつれて、それは画風そのものの理解となっていくだろう。そのことは、蜂に新作を作ることを可能にする。巣板の一枚が一階層に対応しているから、さらなる深層のパターン認識に至るには、巣箱を増やす必要があるだろう。

 悲劇は、フィルが巣箱を連結させて、蜂の流れをループさせたときに起こりました。エステラの悲鳴が、アトリエに響き渡りました。

「これは、レンブラントの呪いだわ」

 そこには深淵から現れた悪夢(deepdream)が顕現していました。

 その肖像画は、顔の至る所に無数の目玉が浮き出て、それら犇めく腫瘍は渦巻く文様となって皮膚全てを覆いつくし、顔貌を変形させていました。その眩暈を引き起こす渦巻きは顔だけではなく、背景や服にもおよび、そこかしこで目や顔を繁殖させていたのです。

「もう巣箱はアトリエに持ち込まないで」

「待ってくれ。原因はわかっている。巣箱をケチって、ループさせたから、低次のパターンだけを強化してしまったんだ。十分な巣箱を作れば、次は改善できる」

 エステラはまるで自分の顔にまで呪いが及ぶことを恐れるかのように、悲痛な表情を手で覆いながら言いました。

「違う。そういう問題ではないの。わたしは、この発明がアートとその作者を侮辱する力を持っていることに、思い至っていなかった」



   ◆


 エステラの協力が打ち切られてからのフィルの研究は停滞しました。そもそも一人では高価な絵の具などを購入する費用が足りず、フィルは高嶺の花の少女への思いや野望を忘れ、普通の養蜂家として暮らすようになっていました。

 18歳になったある日、フィルが手回し式の遠心分離機から蜂蜜を収穫して戻ってくると、郵便受けに小包が届いていました。差出人不明の小包には、女王蜂が産出するロイヤルゼリーの結晶が入っていました。フィルがそれを巣箱に挿入すると、巣箱は見たこともない絵画を吐き出しました。それは大量の絵画を蜂が学習した記録物だったのです。

 また小包には、小切手も入っていました。フィルは巣箱のための資金と、学習データの両方を突然手に入れました。フィルはエステラが心変わりして、研究を支援する決断をしたのだと思い、家族に別れを告げ、ニューヨークへ向かいました。風の噂で、エステラはその大都会で画家を目指しているのだと聞いていたからです。


 ハドソン川を望むアパートの一室とその屋上を借りて行われた都市養蜂は上手くいきました。度重なる巣板(グラフィックボード)の増設によって肥大化し、屋上を埋め尽くした巨大な巣箱は、深層において高次のパターンを理解し、様々な画家の〝新作〟を産出しました。

 ニューヨーク中の画廊に携帯用巣箱を持ち込んで、蜂たちに絵画をスキャンさせることで、データセットを豊富にするすべも編み出しました。協力者を募り、合衆国中の画廊に同じことをしました。巣箱に投入する絵画の枚数こそが、成果物の質に直結すると、このころのフィルは気付いていたからです。


 絵画の一つは、著名な絵画コンクールの大賞を受賞しました。1977年のことでした。

 その展覧会でフィルは、同じく受賞者として訪れたエステラと再会しました。エステラは笑顔でフィルに歩み寄りましたが、彼の背後にある絵を見た瞬間に全てを悟り、声をひそめて言いました。

「自分が何をしたかわかる?あなたはアート業界を欺いているわ」

「君は絵筆を使わないのか?」フィルは反論しました。「蜂は筆と同じ、ただの道具だよ。新しい画材さ。ポロックは物理法則を絵筆としたし、ウォーホルはシルクスクリーンで複製した。画材や技法は進歩していくものだ」

「ウォーホルが裁判に負けたことがあるのは知ってる?それに、彼らは意図を持って引用した。誰を引用しているか知らないあなたと違って」

「蜂は知っている。そして、僕は全ての先人たちに敬意を払っている。何が足りないんだ?」

「ああ、小さくて忠実な昆虫たちの土地の領主さま、ご存じないかもしれませんが、過去の偉大な画家たちは、あなたの領民ではないのですよ。あなたに徴税されるために美を生み出してきたわけではないのです」

 エステラは芝居じみた皮肉を言うと、去っていきました。

 徴税?いい表現だ、とフィルは思いました。いずれすべてのアートは蜂たちに読み取らせることが義務になるだろう、私の巣箱を潤わせるために。ところで、謎の支援者はエステラではないようだ。だとしたら、一体誰なのだ?



   ◆


 フィルは起業し、巣箱自体の販売に踏み切りました。もはや蜂が描いた絵だということを隠そうとせず、フェロモン調合法やその解読法、飼育法、すべてを公開することにしたのです。とはいえ養蜂には広大な土地と絵画へのアクセスが必要であり、一般人にまともな群体の育成は不可能でした。よってフィルは女王蜂の結晶を構築済みモデルとして販売することで利益を得ることができました。

 人々はフェロモンの調合に熱中し、生産された絵画は市場に溢れました。


 フィルの企業はこうして生成された作品群を公式に、〝Apis Indica(インドミツバチ)アート〟――略して〝AIアート〟と呼ぶようになりました。


 AIアートは、当時のアメリカのアートシーンとは一線を画していました。

 AIアートは、新表現主義の荒々しいタッチやストリートアートを再現することは可能でしたが、データの多い古典的絵画の手法を得意としました。消費者もむしろ、わかりやすく写実的で、煽情的で露骨な人物画の生産を好みました。

 コントラストと彩度の高い画面と細密描写や、遠近法のわずかな破綻、フェロモンによって指定された記号的アトリビュートの存在など、十九世紀のラファエル前派との類似が、比較的好意的な評論家によって指摘されました。

 また別の評論家は、蜂の描画方法に由来する単層的な画面、ユーザーの好みを無作為に詰め込んだコラージュ的構成に注目し、それらはむしろ、当時ハワイにて生まれた、イルカと海を描くマリンアートに似ていると言いました。実際にインドミツバチアートは、画廊においてもそうした大衆アートのジャンルと混同されて展示されることがしばしばでした。


 既存の芸術家たちの反応は様々で、一部の画家は積極的に取り入れましたが、また一部の画家たちはフィルの事務所に抗議に訪れました。それは、自分たちの絵画が知らないうちに蜂の巣箱に取り込まれ、贋作まがいの市場競合物の生産に利用されていることへの怒りでした。フィルはそれらが実際に巣箱に投入されたことがあるかの証明が困難なことと、人間の画家も先人からの影響によってアートを作り出すことを指摘することで反論としました。

 インドミツバチは養蜂家の聖人アンブロジウスのイコンとともに、ニューエイジ思想と融合し、頭の中の霊感を直接具現化する神秘的装置として受け入れられました。ドラッグによる酩酊を表現するために、「レンブラントの呪い」を再現できるよう巣箱をダウングレードする者も現れました。

 フィルの企業は莫大な投資を集め、巣箱はモデルを改善するために、昼夜ぶんぶんと唸り続けました。



   ◆


 1988年のニューヨーク。AIアートだけを集めた展覧会が開かれ、フィルは盛大なオープニングセレモニーを主催しました。関係者に発泡ミードを振舞っていると、ドレスを着たエステラが表れてグラスを取りました。

「来てくれてうれしいよ、エステラ。君はあのデモには参加していないんだね」

 フィルは反AIアートのシュプレヒコールが聞こえる広場の方向を示して言いました。

「そう思う?ちょっと抜け出してきただけかもしれないでしょう」

 エステラは冗談を言いましたが、顔に微笑みはありませんでした。

「君がああしたラダイト主義者と同類だというのか?」フィルは言いました。「いつの時代も、変化を恐れ、新しい技術を嫌悪する者はいた。写真や屋外制作は、古い世代の画家に受け入れられなかった。若い画家が科学の産物である新しい画材を使う度に、旧世代からは卑怯だという誹りを受けた。でも結局は、適応できた者が生き残った」

「あなたには美術史が間違って伝わっているようだわ。芸術家は常にあらゆる新しい技術を取り入れてきたけれど、剽窃だけは一貫して古来から受け入れない。彼らが嫌悪しているのは科学ではなく、盗作。それだけよ」

 盗作?通常の意味での盗作は、このギャラリーにひとつも無いはずだ。彼女はなぜそんな不愉快な単語を出すのだろう?

「いいかい、エステラ。これは合法なんだ」フィルは子供に言い聞かせるように言いました。「君は著作権法のフェア・ユースの条項を何度か読み直してくるべきだ。インドミツバチの巣箱に著作物を投入することに法的な問題は何もない」

「ハリウッドが同じことを言うかしら?」

 エステラは新聞記事を取り出しました。ハリウッドの大手スタジオ三社が共同で、著作権侵害でフィルの会社OrphanAI(みなしご蜂)を訴える意向であることが報じられていました。

「なぜハリウッドが?」

 記事は、有名な映画のシーンが複数枚、フィルのモデルを搭載した巣箱から絵画として排出されたことを伝えていました。それは、映画のフィルムが巣箱に投入されたことを明示していました。

 データセットに絵画以外の画像が含まれることはフィルも気付いていましたが、把握していませんでした。謎の支援者から送られてくる結晶は各国を渡り歩いて収集したものらしく、その無節操で膨大な内容を精査することは困難でした。

「残念なことだけど」エステラは言いました。「わたしたち画家の抵抗運動は、あなたの企業にとって何の圧力にもならなかったことを認めざるを得ない。画家には組合もなく、訴訟する力もなかった。結局のところ画家という職業とは、あなたの蜂たち――商品価値を抽出し、権利情報を破棄する捕食者にとって、もっとも脆弱で無防備な、野の花に過ぎなかったのだから」

 だが蜂たちは今や、怒れる巨人たちの庭にある花から蜜をくすねてしまったのでした。

「権力に頼るだけではなく、昔のように僕に論戦を挑んでくれないのかい?」

 フィルは寂しげに言いました。これらすべては、エステラに認められるために、AIアートがアートだと証明するために、始めたことだったのですから。

「いいえ」エステラは言いました。「あなたがたには、正義という言葉が通じないとわかったから。その言葉は、リスクというフェロモンに翻訳しなければ、利益を求める巨大な巣箱の中にいるあなたには届かない」



   ◆


 嵐の夜、フィルが事務所から宿に帰ると、部屋の中に何者かの気配がありました。

「何者だ」

 窓から差す雷光が、低い椅子に身体を沈めた侵入者の影を床に映し出しました。フィルはランプを手に牽制して言いました。

「あなたが反養蜂活動家だとしたら、こんなことは無意味だ。私を脅して黙らせても、技術自体はすでに地球の裏側にまで拡散しているんだぞ」

「女王蜂が新たな王国を建てるようにか?そのとおり。お前は賢い。昔からだがな」

 男は立ち上がって、近づいてきました。雨に濡れた黒いコートの両手を鷹揚に広げて、白髪だらけの髭面には笑みさえ浮かんでいました。

「誰なんです」

「まだわからないか。傷つくね。それなら、こうしたらどうだ?」

 男は素早くフィルの後ろに回ると、その口をがさついて汚れた手で荒々しく覆いました。

「動くな。静かにしろ小僧!」

 フィルはランプを取り落としました。

 甦る幼少期のトラウマとともに、フィルは思いました。私は、〝我が盗人〟と再会したのだ。彼は、復讐しに来たのだろうか?私が秘密を拡散させたことへの罰を与えに?

「あれから俺がどうしていたか?お前のおかげでまんまと国外へ逃げて、いわゆる拠点を変えて、海外で仕事をし始めたのさ。絵画の〝移送業者〟としてね」

 フィルは平静を装って、相手を刺激しないように言いました。

「それはよかった。あなたの事業が上手くいって」

「お前ほどではないさ。見てみろ、一等地に建った高層ビルに、高級車、立派なものだ」

 盗人は暖炉の炉棚に肘でもたれながら言いました。

「ときに、俺みたいな下賤な人間が、ひとつ聞いてもいいかな?お前のこの大層な財産はどこから来た?」

「インドミツバチの巣箱からです」

「そのようだな。だが、女王蜂に与えるデータセットは、どこで手に入れた?」

「それは……寄贈されたのです」

「寄贈?誰から?」

「わかりません」

「ほう。だが、ひょっとすると、その絵画の枚数は、こんな数字で始まるのじゃなかったかな……?」

 男は、結晶に格納された絵画の枚数を正確に言い当てました。

 ちなみにその量は、現在のコンピュータで機械学習に用いるには数桁ほど規模の小さなものでした。ネットが普及していないこの時代にアナログデータを集めるのですから無理もありません。しかし、蜂は持前の本能に、すでに世界に存在する形の基本的なパターンをビルドインされているようで、少ないデータで機能したのだと言われています。

 フィルの心臓は早鐘のように鳴り、続く忌まわしい宣告を待ちました。

「絵画だけで、蜂が万物のパターンを理解できると思ったか?医療写真のような絵画が出力されたことは?存命の画家の、著作権が切れていない絵画は言うまでもない。違法で猥雑なモチーフや、映画のフィルム、出回るはずのない一般人の私的な写真は?」

「まさか……」

「そのような〝大いなる遺産(Great Expectations)〟を構築できるのが、規制の甘い海外を拠点とする絵画の移送業者だったとしたら?」

 フィルはよろめいて、後退りながら、椅子の背もたれに手をかけました。

 遺産の寄贈主、わたしの後援者はこの盗人であり、エステラは関係なかったのだ。蜂たちの王国の守護者は、聖アンブロジウスでも、芸術の女神でもなかった!

「注釈作業は手間だったよ。第三世界の貧しい子供達を使って画像とフェロモン言語を対応させた。この技術の根底にあるのは、太陽の直接的な恵みなどではなく、マンパワーだ。まあ、おれを助けてくれた子供に恩返しするなら、彼らを何人使おうが問題ではなかったがな」

 フィルは耳を覆ってしまいたかったのですが、男が彼の両肩に手を置いて熱っぽく語りかけるのでそれもできませんでした。

「わが子よ。おれはあのときお前に、おれと同じ才能の片鱗を見出した。この世が騙せること、美がハックできることを期待しているお前の眼に。おれはお前の第二の父だ。おれがお前を創ったのだ」



   ◆


 地平線まで見渡す限りの綿花畑、それと交互に設置された膨大な巣箱群。雲一つない空の下の広大な土地を領土とするフィルの巣箱は、これまでで最大の性能を発揮していました。

 1990年、フィルはオーストラリア某所の巨大養蜂農園にいました。米著作権局がインドミツバチ養蜂の透明性に関する厳しい基準を設けたので、未だ議論中であるこの国に拠点を移したのです。


 最高傑作の予感を胸に、フィルは最新の巣箱にキャンバスをセットしました。それはエステラの未完成の絵の複製でした。その絵を彼女に代わって完成させることで、AIが人間の絵を超えることを証明するためでした。彼は巣箱の蓋を閉めました。

 途端、警報のように羽音が響きました。けたたましく騒ぎ出した蜂たちは、排熱用の排気孔から飛び出して、フィルを巡って高速で周回し始めました。

「ヴェスポイデアか。検閲したはずなのに」

 Vespoidea(スズメバチの学名)は反養蜂派が開発した営巣妨害コード。絵画の表面に微細なテクスチャの形で予め刻印することで、それを読み込んだインドミツバチに大量のスズメバチの姿を幻視させるもので、最少でもデータセットの汚染、最悪ではハードウェアの破壊に至らせる効果を持ちました。(この昆虫特有の脆弱性に気づいたのは、初期の開発の様子を見ていたエステラしかいないとフィルは知っていました)今では検閲AIとのいたちごっこの末、毒性は予測できないほど強く変異していました。

 周囲の巣箱にも混乱は伝播し、群れは視界を遮るほどの暗雲となりました。渦巻く大群はフィルに殺到して、東洋のミツバチがするように、熱を発し始めました。彼を熱死させるべき天敵と見なしたのです。彼らは針さえ使っており、フィルの皮膚に激痛が走りました。

「助けてくれ」

 農園で働く労働者たちが見たのは、雲なき空の下に突然現れた黒い竜巻の中心にいる自分たちの雇用主でした。



   ◆


 包帯に覆われてベッドに横たわるフィルは、なぜ自分の理想が世界に拒絶されたのか考えました。なぜ彼らは効率化を拒み、無駄な労力を注ぎ込むのか?その過程で、エステラが最後に言った言葉を思い出しました。

「結局のところ画家という職業とは、あなたの蜂たち――商品価値を抽出し、権利情報を破棄する捕食者にとって、もっとも脆弱で無防備な、野の花に過ぎなかったのだから」

 フィルはその比喩を文字通り取ることにしました。私は、絵画を野に咲く花のように扱った。そのように愛でて、そのように摘み取った。

 私は、人工物を自然物のように扱った。

 それがフィルの出した結論でした。

 ジョン・ロックが言うには、人は自然物を労働によって加工して商品を生産する。共有物に手を加えて私有物に変える。ここに価値が生まれる。だが蜂は、商品を加工して商品を産もうとする。正確には、無数の私有物の共通パターンを発見することで、それを共有物に貶める。

 それの何が悪い?それが出来るときに、やってはいけない理由があるか?


 フィルは包帯だらけの手で、病室の花瓶にさされた一輪の、名も知らない花を手に取りました。

 蜂が生産する絵画の隅には、読み取れない文字が現れることがありました。それは、画家たちが記したサインの、掠れて歪んだ成れの果て、統計的亡霊のようなものでした。

 自然物に手を加えるとは、それに名前をつけることでした。記名することでした。フィルの蜂はその記名をノイズの海に置き去りにして、甘い蜜だけを抽出しました。

 AIアートとは、固有名を失ったアートのことなのでした。

 フィルは、一輪の花に名前をつけることにしました。エステラは許してくれるだろうか?



   ◆


 以上が、AIアートの父、フィル・ガージェリーの伝記からの引用でした。

 彼がAIアートによってアート界に巻き起こした混乱の教訓を受けて、現在のアートのための統計解析ツールは学習元データの透明性が確保され、作品を生成するというよりは、アートを周辺的に補助するものになりました。たとえば、作風からアーティストを検索することで、彼らを発見しやすくするといった風に。

 もしインドミツバチアートがなければ、機械学習とアートの関係は、ことによると敵対的で、不幸な出会いになっていたかもしれませんね。

 ご視聴ありがとうございました。チャンネル登録よろしくお願いします。次回のオプティミスト・アーカイヴをお楽しみに。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

10分でわかるインドミツバチアートの歴史 廉価簾 @rncl

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画