『俺達のグレートなキャンプ189 (腐った牛乳のせいで下痢気味だが)カヌレ作ろう』
海山純平
第189話 (腐った牛乳のせいで下痢気味だが)カヌレ作ろう
俺達のグレートなキャンプ189(腐った牛乳のせいで下痢気味だが)カヌレ作ろう
「よっしゃあ...今回のキャンプも...グレート、に...」
石川の声が震えていた。
午前十時。長野県の山間にあるキャンプ場。秋晴れの爽やかな空の下、テントを張り終えたばかりの石川は、しかし爽やかとは程遠い状態だった。顔面は蒼白で、額からは冷や汗がダラダラと流れ落ちている。唇は血の気が失せて紫がかっており、目の下には濃いクマができていた。そして何より、その立ち姿が異様だった。両膝を内側に絞り込み、腰を微妙に曲げて、まるで何かを必死に堪えているような姿勢。
「石川...?お前、大丈夫?顔色やばいんだけど...」
富山が心配そうに近づく。石川の異変は明らかだった。いつもなら朝からハイテンションで飛び跳ねているのに、今日はまるで幽霊のようだ。
「だ、大丈夫...へーき、へーき...」
石川は引きつった笑顔を作るが、その額からは止まらない冷や汗。シャツの背中部分が既にびっしょりと濡れている。
「全然大丈夫そうに見えないですよ!?石川さん、どこか痛いんですか!?」
千葉も慌てて駆け寄る。石川の体が小刻みに震えていた。
「い、いや...ちょっと...お腹の調子が...」
石川がそう言った瞬間、彼の腹からグルルルルルルゥゥゥゥ...という不吉な音が響いた。それは人間の体から発せられる音とは思えないほど大きく、そして禍々しかった。まるで地の底から何かが這い上がってくるような、そんな音。
「うわああああ!今の音何!?地鳴り!?」
千葉が飛び上がる。
「石川の腹だよ!!つーか石川、マジで大丈夫!?病院行く!?」
富山が石川の腕を掴もうとするが、石川は首を横に振った。その動きもどこかぎこちない。
「だ、大丈夫...これから...グレートなキャンプ、するから...」
「いや、グレートどころじゃないでしょ!病人じゃん!」
「ち、違う...俺は...やる...今回のキャンプは...」
石川は震える手でクーラーボックスを指差した。その手の震えは尋常ではなく、まるでパーキンソン病患者のようだった。
「か、カヌレ...作る...」
「カヌレ?」
富山と千葉が顔を見合わせる。
「そう...フランスの高級菓子...カヌレ...外はカリッと、中はモチッと...あの黒くて可愛いやつ...これを、キャンプで作る...グレート、だろ...?」
石川の声は途切れ途切れで、まるで臨終の言葉のようだった。
富山は石川の様子を見て、一旦冷静になることにした。確かに顔色は最悪だが、カヌレ作りという提案自体は...まあ、石川にしては比較的まともだ。いつもの「逆さまでテント泊」とか「目隠し焚き火」とかに比べれば、むしろ真っ当なキャンプアクティビティと言えるかもしれない。
「まあ...カヌレ作りか。それなら...いいけど...」
富山は少し安心した。今回は普通のキャンプになりそうだ。石川の体調不良は心配だが、お菓子作りくらいなら座ってできる。無理はさせないようにしよう。
「よっしゃあ!じゃあ準備するぜ...!」
石川は気合を入れるように声を出すが、その声は震えていた。彼はクーラーボックスからダッチオーブンを取り出す。その動作は異様にゆっくりで、まるでスローモーション映像を見ているようだった。
「材料は...卵、砂糖、薄力粉、牛乳、バター、バニラエッセンス、ラム酒...全部揃えてきた...」
石川が一つ一つ材料を並べていく。その手は相変わらず震えており、卵のパックを落としそうになる。千葉が慌てて支える。
「石川さん、本当に大丈夫ですか?手伝いますよ!」
「あ、ああ...頼む...」
三人はテーブルの前に座った。いや、石川だけは座るというより「崩れ落ちる」ように椅子に身を預けた。彼の顔は死人のように青白く、目だけがギラギラと異様な光を放っていた。
「じゃあ、まずは卵黄と砂糖を混ぜて...」
富山がレシピを確認しながら作業を始める。千葉が卵を割り、富山が砂糖を計量する。石川は...ただ座っているだけだった。時折、お腹を押さえてうめき声を上げる。
グルルルルルゥゥゥゥゥ...
また石川の腹から不吉な音が響く。今度は先ほどより長く、そして音階が上下に揺れ動いた。まるでクジラの鳴き声のようだった。
「石川...お前、本当に...」
「だ、大丈夫...続けて...」
石川は額の汗を拭う。その汗の量は尋常ではなく、まるで滝のように流れ落ちていた。シャツは既に全体が濡れており、搾れば水が出そうなほどだ。
富山と千葉は顔を見合わせたが、とりあえず作業を続けることにした。
「次は薄力粉をふるって...」
富山が粉をふるい始める。白い粉が舞い上がり、秋の日差しに照らされてキラキラと輝いた。穏やかな時間が流れる...はずだった。
グルルルルゥゥゥゥゥ...ギュルルルルルル...ゴポゴポゴポ...
石川の腹から次々と音が発せられる。それはもはや音楽のようだった。いや、音楽というよりは、何かの警報音に近い。
「ちょ、石川!その音、さっきより種類増えてない!?」
千葉が指摘する。
「き、気のせいだ...続けて、くれ...」
石川の顔が一瞬歪む。彼は必死に何かを堪えていた。その姿は痛々しいほどで、見ているこちらまで苦しくなる。
富山は不安になってきた。いくらなんでも様子がおかしすぎる。そして...何かが引っかかる。石川がこんなに体調不良なのに、なぜわざわざカヌレなんか作ろうとするのか。いつもなら「体調悪いから今回はキャンセル」と言うはずだ。それなのに...
「なあ、石川」
富山が真剣な顔で石川を見る。
「正直に言え。何があった?」
「な、何って...」
「いや、絶対何かあるでしょ。お前、普段なら体調悪かったらキャンプ自体延期するタイプじゃん。それなのに今回は無理してでもやろうとしてる。しかもカヌレって...お前にしては地味すぎるし」
富山の指摘は鋭かった。長年の付き合いで培われた洞察力だ。
石川は観念したように、深く息を吐いた。その息からは何か酸っぱい臭いがした。
「...実は、な」
石川がゆっくりと口を開く。
「昨日の夜...キャンプ前のテンション上げようと思って...冷蔵庫の牛乳飲んだんだよ...」
「うん、それで?」
「そしたら...なんか味が変だったんだ...でも、まだイケると思って...」
「まさか...」
富山の顔が青くなる。
「全部...飲んじまった...一リットル...」
「はああああああ!?」
富山と千葉が同時に叫ぶ。隣のサイトのファミリーがこちらを見た。
「んで、飲んだ後にパック見たら...賞味期限が...三週間前だった...」
「三週間!?バカ!?バカなの!?」
富山が石川の肩を掴んで揺さぶる。石川の体がグラグラと揺れた。
「いや、でも...もったいないじゃん...捨てるの...」
「もったいないとかのレベルじゃねえよ!それ完全に腐ってるよ!つーか今の症状、完全に食中毒じゃん!」
「し、食中毒...いや、そこまでは...」
グルルルルゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ...ゴボゴボゴボゴボ...ギュルルルルルルル...
石川の腹が三重奏を奏でる。それはまるでオーケストラのようだった。
「いや、完全に食中毒!!病院行こう!今すぐ!」
富山が立ち上がる。
「ま、待て!まだ...まだ大丈夫だから...」
石川が富山の腕を掴む。その手は冷たく、力も弱々しかった。
「カヌレ...作りたいんだ...せっかく...準備したから...」
「いや、何その謎の執念!別にカヌレなんか今作らなくても!」
「でも...俺...楽しみにしてたんだ...キャンプで...お菓子作り...」
石川の目が潤んでいた。それは涙なのか、それとも苦痛による生理的な反応なのか分からないが、とにかく彼の目は潤んでいた。
千葉は二人のやり取りを見て、ニコッと笑った。
「富山さん、石川さん、やりたいって言ってますよ。手伝いましょうよ」
「千葉!お前もか!」
「だって、どんなキャンプも一緒にやれば楽しくなるって!僕のモットーですから!」
千葉の目はキラキラと輝いていた。純粋無垢な笑顔。富山はその笑顔を見て、ああもうダメだと悟った。
「...分かったよ。でも、石川が限界来たらすぐ病院行くからな」
「お、おう...」
石川が力なく頷く。
「じゃあ、続き。薄力粉をふるって...温めた牛乳を少しずつ加えて...」
富山が作業を再開する。石川は相変わらずテーブルに突っ伏していた。彼の呼吸は浅く速く、まるでマラソン後のようだった。
「次は濾して...冷蔵庫で一晩寝かせる...って、あれ?一晩?」
富山がレシピを見て首を傾げる。
「あ、ああ...それは...昨日の夜、腐った牛乳飲む前に...仕込んでおいた...クーラーボックスに...入ってる...」
石川が震える手でクーラーボックスを指差す。
富山が中を確認すると、確かに容器に入った生地があった。完璧に寝かされている。
「へえ、準備いいじゃん」
「だろ...?俺、やる時は...やる男、だから...」
石川がドヤ顔をするが、その顔は相変わらず蒼白で説得力がない。
「じゃあ、型に流して焼くだけだな。よし、ダッチオーブン準備して...」
富山がダッチオーブンを持ち上げようとした瞬間。
「うっ...」
石川が突然立ち上がった。その動きは電光石火で、さっきまでの弱々しさはどこへやら。
「ど、どした!?」
「ト、トイレ...!」
石川が腹を押さえて駆け出す。その走り方は独特で、両膝を内側に絞り込んだまま、小刻みにステップを踏むような走り方。まるでペンギンのようだった。
「あ、あそこトイレ!石川さん、あっち!」
千葉が慌ててトイレの方向を指差す。
石川はそちらへ向かって全力疾走...というより全力ペンギン走りを見せた。しかし。
「あああああ!人入ってる!!」
トイレのドアには「使用中」の表示。石川の顔が絶望に染まる。
「ど、どうする!?」
千葉が慌てる。
「管理棟!管理棟にもトイレあるから!」
富山が叫ぶ。
石川は方向転換して管理棟へ向かう。その距離、約百メートル。地獄のマラソンが始まった。
「石川ァァァ!がんばれええええ!」
千葉が応援する。
石川は必死にペンギン走りで進む。途中、小石につまずきそうになるが、なんとか持ちこたえる。その姿は必死で、そして滑稽だった。
三十秒後。石川は管理棟のトイレに駆け込んだ。ドアが勢いよく閉まる音が遠くまで響いた。
「...間に合ったっぽいな」
富山がホッと息をつく。
「よかったです...」
千葉も安堵の表情。
二人は石川が戻ってくるまで、カヌレの型に油を塗って準備を進めることにした。
十五分後。
「...遅くない?」
富山が時計を見る。
「そうですね...大丈夫でしょうか...」
千葉も心配そうに管理棟の方を見る。
さらに十分後。
「おせえええ!何してんだアイツ!」
富山が立ち上がる。
その時、遠くから石川の姿が見えた。しかし、その歩き方は来る時よりもさらにぎこちなかった。まるでロボットのように。いや、ロボット以下だ。錆びついたブリキのロボットのように、一歩一歩が不自然だった。
「石川さああああん!大丈夫ですかああああ!」
千葉が手を振る。
石川が戻ってきた。その顔は...先ほどよりもさらに青白く、しかしどこか達成感に満ちていた。まるでエベレストを登頂した登山家のような表情。
「す、すまん...長くなった...」
「大丈夫だった?」
「あ、ああ...なんとか...地獄だった...」
石川が椅子に崩れ落ちる。
「もう帰ろう?な?無理しなくていいから」
富山が優しく言う。
「い、いや...まだだ...カヌレ...完成させる...」
石川の目に再び光が灯る。謎の執念だった。
「よっしゃ、じゃあ焼くぞ!ダッチオーブンに炭入れて...」
富山が炭に火をつけ始める。千葉が型に生地を流し込む。石川は...相変わらず座っているだけだが、その目は真剣だった。
「カヌレはな...高温で一気に焼くのがコツなんだ...外側をカリッと、中をモチッと...」
石川が震える声で説明する。
「お前、いつの間にそんな知識を...」
「昨日...ネットで...調べた...」
石川の額から再び汗が流れ落ちる。
炭の準備ができ、ダッチオーブンの底に炭を敷き、その上に型を並べた。蓋をして、上にも炭を置く。
「よし、これで約三十分...」
富山が時計を見る。
その三十分間が、地獄の時間だった。
石川は五分おきに腹を押さえてうめき声を上げた。
グルルルルゥゥゥ...ギュルルル...ゴボゴボ...
「うっ...」
「石川!?」
「だ、大丈夫...まだ、イケる...」
十分後。
グルルルルゥゥゥゥゥ...ゴボゴボゴボ...ギュルルルルルルル...
「うおっ...」
石川が突然立ち上がる。
「ま、またトイレ!?」
「い、行ってくる!」
石川が再びペンギン走りで駆け出す。今度はキャンプ場のトイレが空いていた。彼は光の速さで駆け込んだ。
五分後、戻ってきた石川はさらに顔色が悪くなっていた。もはや青白いを通り越して、緑がかっていた。
「石川...お前、本当に...」
「だ、大丈夫...あと、十五分...」
石川が時計を見る。その目は焦点が合っていないようだった。
千葉は心配しながらも、ダッチオーブンの様子を確認する。
「いい匂いしてきましたよ!」
確かに、甘く香ばしい匂いが漂ってきた。カヌレが焼けている証拠だ。
「よし...あと少し...」
石川が拳を握る。その手は震えていたが、意志の強さを感じさせた。
しかし。
グルルルルゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ...
また石川の腹が鳴る。今度はこれまでで一番長く、そして大きな音だった。
「うっ...!」
石川の顔が歪む。
「石川!」
「だ、大丈夫...あと、十分...」
石川は必死に堪えていた。その姿は壮絶で、まるで何かと戦う戦士のようだった。
五分後。
石川は椅子の上でモゾモゾと動き始めた。落ち着きがない。いや、落ち着けない。
「石川?」
「...大丈夫...まだ、イケる...」
石川の声は震えていた。
そして、運命の時。
「よし、そろそろ焼けたかな!」
富山がダッチオーブンの蓋を開ける。
瞬間、素晴らしい光景が広がった。
黒く艶やかに焼き上がったカヌレが、型の中で輝いていた。外側はカリッと焦げ目がついて、完璧な仕上がりだ。
「うわあああ!すごい!本当にカヌレだ!」
千葉が感動の声を上げる。
「お、おお...」
富山も驚いていた。まさかキャンプ場で、ダッチオーブンで、こんなに上手くカヌレが焼けるとは。
「や、やった...完成、だ...」
石川がよろよろと立ち上がる。そして、型からカヌレを取り出そうとした瞬間。
グルルルルゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥ...ゴボゴボゴボゴボゴボ...ギュルルルルルルルルルルル...
石川の腹から、これまでで最も禍々しい音が響いた。それはもはや人間の体から発せられる音ではなかった。何か別の生き物が、彼の腹の中で暴れているような音。
「あ、あああああ...」
石川の顔が蒼白を通り越して、透明になったかのようだった。
「石川!!」
「や、やった...完成...させた...カヌレ...」
石川はそう言って、カヌレを一つ手に取った。そして。
ガクッ。
石川の体が崩れ落ちた。しかし、その手にはしっかりとカヌレが握られていた。
「石川ァァァァァ!!」
富山と千葉が駆け寄る。
「し、石川さん!大丈夫ですか!」
「う、うう...カヌレ...完成...グレート...だろ...?」
石川が力なく笑う。その顔は満足感に満ちていた。まるで全てを成し遂げた人の顔。
「グレートじゃねえよ!救急車!救急車呼ぶ!」
富山が慌てて携帯を取り出す。
「ま、待て...その前に...一口...食べさせて、くれ...」
石川が震える手でカヌレを口に運ぶ。
パリッ。
外側の焦げた部分が軽快な音を立てる。そして、中のモチモチした部分。石川の顔に、本当に幸せそうな笑顔が浮かんだ。
「...うまい...最高、だ...これぞ、グレートな、キャンプ...」
そう言って、石川は意識を失った。
三十分後。
救急車がキャンプ場に到着した。サイレンの音が山間に響き渡る。救急隊員が石川をストレッチャーに乗せて運んでいく。
「食中毒ですね。すぐに病院で処置します」
救急隊員が富山と千葉に言う。
「あの、重症ですか...?」
千葉が心配そうに聞く。
「大丈夫ですよ。点滴と薬で回復するでしょう。ただ、三週間も賞味期限切れた牛乳を飲むなんて...」
救急隊員が呆れた顔をする。
「すみません...友達がバカで...」
富山が頭を下げる。
救急車が去っていく。富山と千葉はテーブルに残されたカヌレを見た。
「...食べる?」
富山が千葉に聞く。
「食べましょう。石川さんが命懸けで作ったんですから」
二人はカヌレを一つずつ手に取った。
パリッ。モチッ。
「...美味い」
「美味しいですね」
二人は静かにカヌレを味わった。それは確かに、完璧なカヌレだった。
その夜、富山は病院で点滴を受けている石川に写真を送った。完成したカヌレの写真。
すぐに石川から返信が来た。
「グレートだっただろ!?次は何作る!?」
富山は深いため息をついて、スマホの画面を閉じた。
そして、こう返信した。
「次は普通のキャンプにしよう。な?」
しかし、その返信に対する石川の答えは。
「じゃあ次は『逆立ちしながらクレームブリュレ作り』で!」
富山はスマホを放り投げた。
「もうやだああああああ!!」
彼女の叫びが、秋の夜空に響き渡った。
おしまい。
翌週、石川は無事に退院し、次のキャンプの準備を始めたという。富山は本気で参加を断ろうとしたが、千葉の「どんなキャンプも一緒にやれば楽しいですよ!」という言葉に負けて、結局参加することにした。
俺達のグレートなキャンプは、まだまだ続く。
『俺達のグレートなキャンプ189 (腐った牛乳のせいで下痢気味だが)カヌレ作ろう』 海山純平 @umiyama117
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