第11話
屋上を囲む柵の前、あの時と同じ場所に立ち、桜は暗くなった空を見上げた。薄っすらと見える、銀色の天体。今は見上げる影は一つだけだ。
「あの日、月を見ていたのは……」
ポツリと呟いた真面目な声は、風に流されていった。切り揃えられた黒髪と、紅色のグラデーションが広がる薄手のスカートが、ふわふわと靡く。桜は俯いて、自身の立つ床へと視線を下げた。その顔に、暗く影が差す。
あの日、林檎は姿を消す前、捕虜の拷問と解体を行っていた。『レッド』の組織員を含め何人もの人間を脅して臓器を持って来させている組織があり、地下の牢屋に入れていた人物はその組織の末端の人間だった。『レッド』はその組織に手を焼いており、お灸を据えても改めるどころか益々度を越すばかりの状況だった。その組織員への拷問を自ら行うと言う林檎へ、桜はそのような汚れ仕事は他の者にさせましょうと進言した。長自ら行うような任務ではないのは明らかだった。しかし林檎は首を横に振り、汚れ仕事こそ長がやらねばなりません、と厳かに言った。有無を言わせない圧を感じ、桜は地下へと向かう背中を黙って見送ることしか出来なかった。
たまかがリーダーの席に座った今だからこそ思う。林檎が本当に目指していた世界は、たまかの望む世界に近いものだったのではないかと。たまかなら理想とする世界を実現できると信じたからこそ、林檎は自らの命を懸けてたまかを長に据えたはずだ。たまかの理想とする世界は、誰も傷つかない世界。もし林檎が心の奥底でそのような世界を望んでいたのだとしたら。捕虜の拷問も、殺害も、それを細切れに解体することも。全て、彼女にとって言いようのない苦痛だったのではないだろうか。
(……だから、一人で気持ちを整理していたのだろうか)
誰よりも彼女の傍にいたはずなのに、彼女が死んでから気が付くことばかりだ。自分は彼女のことを、本当に何も知らなかった。その事実ばかりが、重くのしかかる。
(……朱宮さまに、会いたい)
もう会えないとわかっていても、それでも彼女に会いたかった。沢山、言いたいことがあった。書類仕事が手に着かない体たらくを叱って欲しかった。彼女の苦痛を何も理解していなかったことを謝りたかった。彼女のように組織を導く術を教えて欲しかった。彼女の完璧な振舞いと完璧な策がこの組織には必要だった。……いや、違う。本当は、ただ傍にいてくれるだけでいい。鈴のようなあの声を聞きたい。あの愛らしい顔に浮かべる微笑みが見たい。ただ、それだけでいいのに。それはもう、叶わない。
「う……」
頬を一筋の涙が伝って、屋上の床へと落ちて行った。それが合図だったように、大粒の雫が次々と零れだす。
「うっ……だ、駄目だ。朱宮さまに任命された次期リーダーが、こんな姿を……っ」
腕で必死に目元を拭うが、溢れ出す涙は止まらなかった。やがて口から嗚咽が漏れ、桜はその場にしゃがみ込んだ。大粒の涙が頬を伝っては、床に零れて行った。もう止まらなかった。
「朱宮さま……、朱宮さま……っ」
しゃくり上げながら、必死に縋るようにその名を呼んだ。ぼやける視界の向こうに、待ち人の足が映り込むのではないかと期待してしまった。涙声でも名を呼べば、いつものように澄んだ声が返ってくるのではないかと願ってしまった。鼻を啜れば、暖かなマントが身体を包むのではないかと夢見てしまった。いくら涙が溢れて零れ落ちても、恋焦がれる光景は現実にはならなかった。
「朱宮さま……っ、お会いしたいです……っ」
駄目だ。こんな姿を、あのお方に見せるわけにはいかないのに。たまかの率いる『レッド』で、しっかり補佐をする姿を見せないといけないのに。貴女の任命は正しかったと、そう証明したいのに。そう思えば思う程、涙がどんどんと溢れていく。
「わたくしは……貴女がいないと……っ」
その先は、嗚咽に掻き消された。桜は一人きりの屋上で、堰を切ったように泣き続けた。その姿を、薄っすらとした輪郭の月が、柔らかな光とともに見つめていた。
***
屋上で一頻り泣いた桜は、その後我に返ったように見回りを再開させた。どう考えても泣いている場合ではなかった。早く見回りを終え、書類の確認を終えなければならない。でないと、どんどんと予定時刻をオーバーしていってしまう。
五階、四階、三階、二階、一階。どこも異常はなかった。途中で組織のメンバーに会うことがなかったのは、せめてもの救いだった。目の腫れや赤みが引いてきた頃、桜は本館から個人寮の建物へと移った。上階は見回りを省いているため、残すは個人寮の一階にある、共用スペースのみだった。桜は個人寮の廊下を進んでいき、見えてきた扉を開けた。中は真っ暗だった。スイッチを押して照明を付ける。並んだ開き扉、換気扇、シンク、水切り籠、コンロ、冷蔵庫、電子レンジ、電気ケトル、食器棚、引き出し。明かりのついた狭い部屋を見渡していく。ここは、共用キッチンだった。
「異常なし」
桜は小さく呟いた。いつもの真面目な声色だった。
「……」
確認を終えた桜はぼうっと突っ立ったまま、すぐに出て行こうとはしなかった。その視線は、隅の観音開きの扉へと向けられた。桜は横に並ぶ小さな扉へそろそろと近づき、その場にしゃがんだ。取っ手へと手を伸ばし、扉を手前へと開く。中にはフライパンと、ボウルが重ねて置かれていた。
「……なくなってる」
当たり前といえば当たり前だ。食品なのだし、そもそも注意したのは桜自身なのだから。それでもなぜか、そこに薄い四角形の箱の姿がないことがひどく寂しく思えた。桜は重い瞼の奥の瞳を悲しみに染め、棚の奥の何もない暗闇をじっと見つめ続けていた。
***
それは、組織員のほとんどが帰った後のことだった。窓の外には闇が広がり、星が瞬いていた。桜はその日の作業を切り上げ、林檎の書斎へと向かっていた。帰り間際の長への報告は、毎日欠かさずに行っている日課だった。書斎の前へ辿り着き、一呼吸置いてからアンティーク調の扉をノックする。中から「どうぞ」という鈴のような柔らかな声が響いた。
「失礼いたします。桜です。定例報告に参りました」
中に声を掛けてから、扉を開けた。部屋へと入り、優しく閉める。扉から手を離し、室内へと改めて振り返る——と、デスクの奥にいると思っていた人形のような顔が近くに現れて、桜の心臓は跳ね上がった。こちらを見つめる大きな瞳。長い睫毛、絹のような肌、柔らかな頬。目が奪われる。
「しゅ——」
名前を呼ぶのを遮るように、桜の唇に何か硬いものがあてがわれた。冷たさがじんわりと広がる。そして唇に当てられていた塊は、細い指によって桜の口の中へと押し込められた。
「ふふ。——共犯」
林檎は目を細めて笑みを浮かべた。悪戯っぽい、初めて見るような笑い方だった。途端に桜の心臓が早打ち始める。桜の口へ伸ばされていた指先が唇に僅かに当たり、柔らかな感触を残して離れていった。舌の上に転がってきた固形物は、温かさに溶けていくにつれて甘みを広げた。毒の類ではなさそうだ。林檎は全組織員のアレルギーを把握しているため、事故もない。使えない部下を切り捨てようとしているにしては、言葉と表情がそぐわない。以上のことから、食べて問題ないだろう。桜は恐る恐る舌を動かして味わった。なめらかな口溶け、カカオとミルクの濃厚な味。風味豊かで、深みのある繊細な甘さ。……とても美味しい。溶けてしまうのが勿体ないと思う程の、絶品のチョコレートだった。
桜は嚥下し終えると、口の中の余韻に名残惜しさを感じながら口を開いた。
「……これは?」
長に向かって、困惑を隠せないまま尋ねる。林檎は悪戯っぽく猫のように目を細め、愉し気に口角を上げてその一部始終を見つめていた。
「梅が隠していたチョコレートです」
「……梅が?」
奥に置かれたエグゼクティブデスクの上を見れば、そこには蓋のあいた四角形の薄い箱が置かれていた。そこそこ大きい。中には細かく仕切りがなされていて、いくつものチョコレートが収まっていた。一口サイズの塊はどれも艶やかで、一つ一つに上品な模様が施されている。見た目だけでも、スーパーで買うチョコとは一味違うことが伝わってきた。
「共用キッチンの最下段、左隅の棚の中に隠してありました。……隠し事をするのは構いませんが、このように程度の低い隠し方をするのは『レッド』の一員としてどうかと思います」
林檎は嘆かわしいとばかりに僅かに顔を顰めた。冷めた視線を追い駆け、桜は再度奥のチョコレートの箱へと視線を移した。
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黄昏の追憶 小屋隅 南斎 @nekoiro_0112
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