第10話

 そこに颯爽と現れたのが、林檎だった。当時『レッド』はまだ公に活動をしていなかったため、その紅色の制服を見るのは初めてだった。立て籠もった組織の者の見回り、もしくは囲っている組織の者の突撃かと警戒したが、彼女は桜のもとへ来ても銃を取り出すことはしなかった。ならば幼い姿から自身と同じく巻き込まれた被害者かとも思ったが、彼女は全く怯えた様子がなく、それどころか桜へと小さな手を差し伸べた。困惑していると、彼女は小さな声で言った。「ここから出ませんか」、と。二人は店を抜け出し、音を立てないようにしながら階段へと向かった。しかし武装した組織の者がうろついていて、廊下を通ることが出来なかった。それを見た林檎は自前の銃を瞬時に分解し始め、廊下の端にわざとらしく置いた。しばらく潜んでいると、組織の者は分解された銃を見つけ、その場で組み立て始めた。ツァイガルニク効果だ、と桜は思った。彼女が組み立てに夢中になっている隙に、二人は廊下を抜けて階段へと足を踏み入れた。踊り場には、埃だらけの古びた窓が付いていた。正面の広い窓からは下で囲う者達が垣根を作っているのが一望でき、横の窓からは隣の建物と外付けの非常階段が見えていた。横の窓をよく見ると穴が空いており、亀裂の中心には炙ったような跡があった。どうやら林檎はここから窓を焼き破って侵入してきたらしかった。熱伝導率が低いことによる熱応力だ、と桜は思った。林檎が窓を開けると、隣接した建物の非常階段の手摺りが視界に飛び込んできた。一昔前なら建築基準法の外壁後退の規制に抵触していそうな程、非常に近かった。流石に手が届く程ではないが、なんとかすれば飛び移れそうな距離だ。林檎は桜の耳元へ顔を近づけ、小声で窓から脱出するように言った。言われるがまま桜は窓に足を掛けたが、下を見下ろして思わず凍り付いた。隔てる物のない、四階から見下ろす地上の景色。遠く広がるコンクリートも、豆のように見える室外機も、下から吹き付ける風も、まるで自分が真っ逆さまに落ちる姿を待っているかのように錯覚した。目の前の光景に、恐怖が全身を駆け巡る。足が竦んだまま固まっていると、後ろから怒鳴り声が飛んできた。立て籠もっている組織の者に見つかったようだった。窓に上ったままパニックになった桜の傍で、林檎は素早くホルスターから拳銃を取り出した。分解した銃の他に、もう一挺持っていたらしい。彼女は微塵も動揺を見せないまま、相手へ向けて引き金を引いた。銃声が二発鳴り響く。林檎の方が早かったらしく、銃を持っていた相手の腕から血が吹き出した。その僅か後に、林檎を逸れた銃弾が奥の壁にめり込んだ。林檎は再び銃を構え、止めを刺す——と思いきや、彼女は敵を見据えたまま、踊り場の正面の窓へと発砲した。銃声とガラスの割れる高い音が響いたあと、外が俄かに騒がしくなったのが聞こえてきた。敵ははっとしたように、窓の外へと顔を向けた。同時に割れた窓の向こうから、目にも留まらぬ速さで何かが入ってきた。それは敵の頭を撃ち抜き、彼女は血をまき散らしてその場に倒れた。どうやら囲っていた組織の者が狙撃したらしい。林檎は手榴弾を取り出してピンを外し、階段の奥へと投げつけた。「今!」というソプラノの声に反応する余裕もなく、爆風が巻き起こって桜の身体が窓枠から浮いた。見えない手に押されるように、桜の身体は建物から押し出された。無我夢中で迫り来る非常階段に手を伸ばし、手摺りの中へと雪崩れ込む。桜は鉄骨へ全身を打ち付けた。痛む身体を慌てて起こすと、桜はもといた建物を振り返った。窓からは濛々と煙が立ち昇っていた。赤い服の少女の姿は見当たらなかった。立ち込める煙の中に向けて、外から数発銃弾が撃ち込まれる。建物を囲っている組織が、再び狙撃したようだった。桜は顔を真っ青にして、倒れた体勢のまま呆然とそれを眺めていた。赤い服の少女は、自分を助けて犠牲になってしまったのだと思った。カン、という高い音が近くからして、桜は我に返った。建物から脱出した桜に気が付いて、囲んでいた組織が撃ち殺そうとしているらしい。非常階段の踏板に当たって事なきを得たようだった。桜は慌てて非常階段を昇り、近くのドアから建物へと入った。そのまま廊下を駆け抜け、階段を見つけて身を潜めた。頭の中は赤い服の少女のことばかりだった。窓にあった侵入の痕跡からして、彼女はわざわざ桜を助けに来てくれたのだろう。見ず知らずなのになぜ、と戸惑うと同時に、助けに来てくれた彼女が殺されるのに何も出来なかった罪悪感が心に渦巻いた。彼女は恐らく死んでいるが、それでも万が一に賭けて今から助けに行くべきだろうか。しかし外にも中にも武装した人間が山ほどいる。丸腰の人間が行ったところで、殺されに行くようなものだ。せっかく助けてもらった命なのだから、このまま逃げるべきなのだろうか。いろいろな思考が浮かんでは消えていった。桜は慎重に階段を降りてみたが、敵が追ってきている様子はなかった。一階まで辿り着くと、俯いたまま玄関の扉を潜った。桜が顔をあげた時、そこには大量の人間が倒れていた。辺りは血の海だった。転がるライフル、拳銃、ナイフ。爆弾も無造作に置かれたままだ。茫然としていると、突然組織が立て籠もっていた建物が横で爆発した。轟音とともに、黒煙をあげてビルが崩れていく。砂埃が舞い、建材らしきものが飛んできて道路に転がった。焦げ臭い匂いと砂塵が辺りに満ちる。視界が晴れてきた時、桜は漸く気がついた。重なるように倒れる人間達、その中央に、背を向けて立っている少女が一人いた。彼女は赤い服を着ていた。手榴弾の余波を受けたらしく、その服は煤けて破れている。横で建物が崩れ落ちる中、少女は動じることなく静かに桜へと振り返った。広がる紅色の艶やかな髪、その中の小さな顔、煤のついた柔らかな頬、二重の大きな瞳。その双眸は、建物から出てきた桜をじっと見つめていた。横の建物から炎が上がり始めたが、少女は全く動じる事なく桜を見つめたままだった。桜もまた、少女に目を奪われたまま呆然と突っ立ったままだった。逸らされることのない瞳は強く暗い輝きが宿っていて、何事にも冷静な佇まいからは知性と強かさを感じられた。桜を助けてくれた少女。彼女は、死んでいなかった。これは後から知ったことだが、林檎は桜のいた痕跡を敵対組織の人間の侵入の痕跡だと偽り、排除したと言って建物の中にいた組織に取り入っていた。林檎が策を授けると、彼女達は囲んでいた組織の人間を次々に殺していった。勝利が近づいた時、彼女達は隣の建物から出てきた少女に気が付いた。目撃者を殺そうと発砲した瞬間、反応が起きて大きな爆発が起こった——中の組織の人間ごと。つまり、林檎の一人勝ちだった。死体に囲まれて立つ林檎を見つめながら、全てこの少女の筋書き通りだったのだと桜は漸く気付いた。呆ける顔は、実に間抜けな表情をしていたことだろう。しかしその時、桜は思ったのだ。彼女についていきたい、と。


 彼女は出会った時から『抗争社会を導く存在』だった。そのため彼女が『普通の女の子』であるところを、桜は想像したことがなかった。もし彼女が桜と同じような、本を読むことが好きな大人しい女の子だったのだとしたら。二人で読んだ本を語り合ったりするような世界線もあったのだろうか。それはなんだか、夢のように素敵なことに思えた。

 冷たい風が桜の肌を撫で、桜はマントの襟元をさらに掻き合わせた。可憐な香りがより強くなる。大好きな香りに包まれながら、そろそろ戻って任務の準備をしなければと頭の隅で現実に戻る。並ぶ柵と夜景に背を向けようとして、桜は最後にもう一度だけ、夜空を見上げた。銀色に輝く丸い天体が、静かに浮かんでいた。漆黒の中に輝く澄んだ光はコントラストが強調され映えていて、月の模様さえも芸術のように見えた。月はその視線を欲しいがままに出来ていいな、と桜はぼんやりと思った。桜は瞳を伏せると、月に背を向けた。寒空の下屋上を去る桜の背中を、月は黙って見下ろしていた。




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