第7話

「桜」

 鈴のような声で名前を呼ばれ、顔をあげる。林檎は上品な微笑みを浮かべたまま、大きな瞳を優しく細めた。

「梅が新人との接し方で苦悩しているようでしたら、それとなく手を差し伸べて頂けませんか。新人と梅の関係が悪化した場合、新人の離反の危険、梅の抗争への参加意欲の低下など、デメリットがあることも事実です。優秀な狙撃手を失うことも未来ある新人を自分達の手で殺すことも、組織にとって良い事とは言えません。桜には手間となってしまうかと思いますが……」

「お、お任せください……!」

 桜は林檎の言葉を遮るように、食い気味に請け負った。

「組織へのデメリットを防ぐという目的もありますが……正直なところを申しますと、梅のことが心配なのです。陰から見守って、必要な時にサポートいたします」

 梅の成功体験を積む、と言っていたことから、恐らく林檎は桜にあまり介入し過ぎて欲しくないのだろう。あくまでも梅が困ったときにだけ、そっと寄り添うことを望んでいる。それはもどかしさも伴うだろうが……きっと必要なことなのだ。

「はい、よろしくお願いいたします」

 桜の言葉に、林檎は安堵したように微笑んだ。

「桜になら安心して任せられます」

(……!)

 胸がとくんと高鳴った。緩みそうになった口元を慌てて引き締める。梅と親しい人間だから、という意味で言ったのだろうと頭では冷静に考えられるのに、まるで憧れの人に認められたように錯覚して、心の中は言い様のない嬉しさで今にもはち切れんばかりだった。

 話は終わったとばかりに、林檎は扉の方へと踵を返した。彼女は桜の何倍ものタスクを抱えている、時間を無駄には出来ないのだろう。そのまま部屋を後にしようと二、三歩進んだところで、その細い足は不意に歩みを止めた。小さな頭は、再度桜を振り返った。

「本日の西田との会談ですが……」

 今日は他組織との会談の予定が入っている。桜も同行予定である。その件について、何か伝えておくことがあったらしい。

「交渉が決裂した場合、ほぼ間違いなく相手は『ブルー』につきます。ですので、決裂した時点で向こうの頭を殺します。小規模組織ですので、その後はその場で皆殺しに。……そのように、準備をお願いします」

「承知しました」

 感情の浮かばない顔、淡々とした声に頷きを返す。そして、やる気に満ちた表情を林檎へと向けた。

「朱宮さまのお手を煩わせはしません。全てお任せください」

 胸を張って安心させるように言うと、林檎は内巻きの毛先を揺らして首を横へと振った。

「……そうではありません。先方の長へはわたしが対処致します。抵抗から身を守ってください、という意味です」

「しゅ、朱宮さまが出るまでもありません」

「……桜は、自身の長の腕前を信用していないのですか」

 その細められた眼差しは長の威厳に溢れ、淡々とした中に畏怖の念を抱かせる冷たさがあった。桜はびくりと身体を震わせ、それから力無く首を横へと振った。

「いえ……」

「ならば手出しは無用です。ただその後乱闘になる可能性はありますので、武器の手入れを怠らぬよう」

 そう言い残し、林檎は桜へ背を向けて再び歩み出した。小さな長はそのまま扉を出て、部屋を去っていった。

「……」

 桜は突っ立ったまま、消えた林檎の後ろ姿を惜しむように扉を見つめ続けていた。

(いつになったら……朱宮さまはわたくしを頼って下さるのだろう……)

 ……まだまだ信頼するに足らないということなのだろう。当たり前だ、林檎に比べれば桜はあまりにも未熟だ。頭脳も、戦闘技量も、振舞いも、何もかも。俯いた下で、桜は不甲斐なさから両手を力強く握り締めた。彼女は桜が同行していても、桜に任せずに自ら手を下そうとする傾向がある。未熟な桜が息の根を止めるより、自分で殺した方が確実だからだろうと桜は考えていた。彼女が返り血を浴びて汚れるところを、桜はただ傍で見ている事しか出来ない。桜はその度に胸を痛め、無力さに打ちひしがれた。全て自分に任せて欲しい。そのためにもっと頼れる存在にならなければ。何度も強く心に誓うのだが、まだ実現する日は遠いようだった。

 扉の開く音が聞こえてきて、林檎が戻ってきたのかと弾かれたように顔をあげた。扉の前に立っていたのは、椛の髪型をした梅だった。……まだ見慣れない。

「桜! どうしたの?」

 梅は自席の前で突っ立ったままの桜を見て、不思議そうな顔をした。不自然に張り上げられた声。前髪で隠れていない梅の双眸と目が合うのは、なんだか奇妙な感覚だった。

「いえ……」

 桜は小さく首を振った。それから、先程の林檎との会話を思い出す。

「そんなことより……梅、少し話があります」

「えっ? な、なに……?」

 梅はまるで悪い事がばれたように身体を縮めた。警戒する視線に、久しぶりに素の状態の梅を見たような気がした。

「その……」

 桜は一瞬口ごもった。しかし決まったことである。梅の顔を窺いながらも、桜はいつもの真面目な顔で口を開いた。

「貴女に……新人を一名、担当してもらうことになりました」

「え、新人……!?」

 梅は予想だにしていなかったらしく、あんぐりと口を開けた。髪型を変えたこととか、積極的に人と話をするようになったこととか、その辺のことを言われるとでも思っていたのだろうか。目を見開いたまま固まっていた顔は、やがてぱあっと明るく晴れた。

「う……うん! わかった! 頑張るよ……!」

(あれ……嫌がるかと思ったけれど……)

 予想とは違う反応に、桜は内心戸惑った。それから、梅が朝から椛のような振舞いをしていたことを思い出した。

「……梅。わたくしにくらい、正直な気持ちを伝えていいのですよ」

「え?」

 やる気を示すように胸の前で結んだ両手をそのままに、梅は呆けた声で訊き返した。

「無理して請け負い過ぎて、自滅されては困りますから。辛い時は、口にしてくれた方が助かります」

「辛い……? えっと、ううん。辛くないよ」

 梅は短くなった髪先を揺らし、首を横へ振った。

「椛がいなくなって寂しくはあるけど、任務だから仕方ないし。それに新人も、椛ならきっと自分から担当するって手を挙げると思う。あたしにしてくれたみたいに、きっと……導こうとすると思う……」

 その優し気な目は、何か大事な記憶を思い起こしているかのようだった。

「だから、あたしもね……そうならなきゃって思うんだ。それで救われる人が、必ずいるから……。あたしも椛のようになれるのなら、それを辛いとは、思わない……」

 梅は椛に憧れ、彼女になろうとしている。しかし、梅と椛は正反対だ。椛に梅のような狙撃が出来ないことと同じで、梅にも椛のような振舞いをすることは難しいだろう。どんなに憧れても、どんなになりたいと願っても、相手が卓越し過ぎているが故に叶わないことはある。それを、桜は誰よりもよく知っている。

「……」

 椛のようになろうと無理をする彼女を、ここで止めてあげるのが優しさなのだと思う。しかし、『レッド』という組織に情など不要だ。梅が新人を担当することを長が望んでいるのなら、それに従うまで。

「そうですか。では、新人のことは任せますね」

「うん。が、頑張るよ……!」

 梅は本来の彼女らしく控えめに意気込んだ。林檎の見立ては正しかったらしく、彼女はやる気に満ち溢れていた。不安や恐怖をすべて飲み込み、自分の苦手分野へ懸命に飛び込もうとしているようだ。その瞳の輝きは、生半可な挫折では失われることはなさそうだった。あるいは、もしかしたら。桜の出来ないことを、彼女なら成し遂げるのかもしれない。

「……もし何か困ったことがあった時は、遠慮なく相談してくださいね」

 梅は部下兼同期のような存在で、決して友達のような生温い関係ではない。そのためこれは、梅が失敗した際に組織に齎されるデメリットを避けるために放った言葉だ。しかし同時に、自然と桜の口をついて出た言葉でもあった。なんだかんだ付き合いも長くなってきて、彼女が抱え込みやすい性格であることも知っていた。それに残り少なくなってしまった同期の悲しむ顔など、見たくはない。感情に流されるなど、『レッド』のメンバーとして相応しくはないのだろう。しかしこれは林檎の望む形でもある。だからそう、自分は長の命令に従っているだけなのだ。

「今まで新人を担当してきたのはわたくしですから、一日の長はあるはずです」

「うん。ありがとう、桜」

 梅は嬉しそうに笑みを浮かべた。桜はそこで初めて、彼女の笑い方が少し変わったことに気が付いた。今までのぎこちなく顎を引いた不気味な笑い方から、相手に僅かに身を乗り出し、まるで相手の笑みも誘うかのような明るい笑みに変わっていた。この笑い方は、少し椛に似ていると思った。

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