第5話

「……桜、時間ですよ」

 横から投げられた言葉に、桜ははっとした。梅を茫然と見つめていた視線を動かし、時計を見る。既に朝の会議の時間となっていた。桜は慌てた素振りを出さないように取り繕いながら、慎重に立ち上がった。そして部屋に声を響かせる。

「……おはようございます。本日欠員の者はおりません。『ラビット』の動向がきな臭いため、本日はそちらにも注力していきましょう。午後は朱宮さまの会談もありますので、護衛に向かう者は準備をお願いします」

 椛は自身がいた痕跡を全て消してここを去った。桜もまるで最初から彼女が存在していなかったかのように、彼女に触れることなく連絡事項を続けた。

「また、本日はわたくしは新人への説明と戦闘訓練を主に担当する形となります。朱宮さまの会談時は同行する予定ですが、それ以外は抗争現場におりませんので予めご了承ください」

 周知が必要な事柄を端的に述べ、桜は「連絡事項のある方はいらっしゃいますか」と部屋を見渡した。一人の少女の手があがる。

「あの、本日の『イサ工業』との武器の取引なのですが。実は値段交渉をしまして、当初の予定から一割ほど値引きをして買い付けることに成功したんです。ですが、その際交渉した者が本日はおらず……」

「値段交渉……?」

 桜は眉根を寄せた。そんな話、きいていない。本日いない者というのは、暗に椛のことを指しているに違いなかった。彼女はどうやら担当でもない武器の取引に口を出していたらしい。しかし、結果値引き交渉に成功しているのは流石である。

「……前任者は引き継ぎを終えていると思いますが」

 椛はきちんと引き継ぎをしていった。そこは抜かりないはずだ。

「値段交渉は彼女の正式な担当ではなかったので……。相手が足元を見て値段を吊り上げようとするので困っていたら、助け船を出してくれたんです。書類で誓約を交わす暇もなかったため『イサ工業』側が反故にする可能性も高いですが、こちらはどのように対処致しましょう?」

「……揉め事になるくらいなら、一割くらい払うべきでしょう。さして痛手でもありませんし、本来払うはずだった額に戻っただけですから」

 『イサ工業』は『レッド』設立当初から取引をしている小規模組織だ。新規の取引ルートを開拓するまでは、なるべく穏便な関係を心掛けていたい。しかし足元を見てくるのなら、脅しを掛けるか、切ることも考えなくてはならないようだ。

「承知致しました。では、武器の予算に修正を……」

「……ちょ、ちょっと待って!」

 張り上げた上擦った声が乱入した。声の方を見れば、短くなった毛先を揺らして梅が身を乗り出していた。

「それ……あたしが同席する」

「……え?」

 桜は思わず呆けてしまった。

「梅がですか?」

(交渉事は一番苦手な分野でしょうに)

「そ……そう。任せて」

 しかし梅は一歩も引かなかった。隠すもののなくなった瞳は、やる気に満ちて真っ直ぐと桜を見つめていた。

「……」

「大丈夫だよ、桜。あたし……ちゃんと結果を残すから」

 梅は気丈にそう言って、小さく口角を上げて見せた。桜を安心させるように浮かべた、強気なものだった。……この梅の言い方は、それこそ椛がいつもしていたやり方だ。未来に確実性なんてないのに、「自分なら出来る」と豪語してみせるのだ。そして優秀な椛は、いつも言ったことを現実にしてみせていた。

「……」

 ……梅は、椛になろうとしている。まるで、いなくなった椛の穴を埋めるかのように。

「わかり……ました」

 ここまで言われては断る理由もなく、桜は渋りながらも頷いた。梅と椛は何もかもが違っていて、梅にとって椛は憧れでもあったはずだった。彼女がいなくなってしまった今、自身のなりたかった姿に少しでも近づこうとしたのだろうか。それとも彼女の心の中で大きい存在だった椛が組織から消え、同じ気持ちであろう皆を少しでも励まそうとしたのだろうか。彼女の心の内はわからないが、彼女は確実に『変わろう』としていることが窺えた。それが良い事なのか悪い事なのか、桜には判断がつかなかった。

「……」

 桜はなんとも言えない表情で梅を見つめた。その瞳は、憂いを滲ませていたのだった。




 朝の連絡事項の共有が終わり、少女達は各々自分の任務を遂行するため散っていった。人が疎らになった部屋で、桜は自席に座り書類を整理していた。机の上に並べた紙には、顔写真と共に写っている人物についての簡略化した情報が記されている。

(今回の新人は五人、か……)

 桜は五枚の紙を見渡した。記載された内容を、頭に叩き込んでいく。『レッド』が『ブルー』や『ラビット』に公に敵対するようになってから、『レッド』に志願してくる者の数はどんどんと増えていた。恐らく数日後にはまた、まとまった人数の新顔が増えているだろう。『ブルー』や『ラビット』を殲滅するにあたって、人数が多くなればそれだけ戦略の幅が広がる。そのため喜ばしいことではあるのだが、如何せん桜の手が回らなくなりそうなのも事実だった。新人への説明や戦闘指南は、全て桜が担当している。しかし桜の主な役目は抗争相手を分析し、策を企て、現場で指揮を執ること。つまり抗争時のリーダー的な役目が本来の責務だ。他にも個人的なポリシーで、林檎が他の組織に赴く際は護衛のためになるべく同行するようにしている。さらに情報の取得と精査、組織員の管理、事務作業。それらの合間を縫って、新しく入ってきた者達へ組織に入るにあたっての手ほどきを行わなくてはならない。彼女達だけではなく、数日前に組織に加わった者達についても、まだまだ教えなければならないことは山ほどある。今はまだ平気だが、この調子で組織に加わる者の人数が増えていくようなら、ある程度任務の進め方を変える必要が出て来るだろう。

(しかし新人への教育は大事だからな……あまり他の者に任せたくもない)

 桜は組織に入ったばかりの者への対応こそ、彼女達を有能にするか無能にするかの分かれ目になると考えていた。技能的な意味でも、モチベーション的な意味でも、組織への忠誠的な意味でも。まるでアンカリングバイアスのように、良くも悪くも最初の頃の印象がその後の全てを左右することが多い。そのため初期に与える情報や対応は慎重になるべきで、だからこそ桜がその役目につくべきだと考えていた。それに桜にとっても、策を練る時にメンバーについての情報があればあるほどその駒の能力を最大限に活かすことが出来る。戦場で指揮を執る人間の顔を事前に知っていた方が新人も連携が取りやすいだろうし、新人研修で交流があることは双方にとってプラスになっているはずだ。

 部屋が俄かに騒がしくなった。残っていた数名の少女達が、一斉に朝の挨拶を述べて頭を下げる。桜も書類から顔を上げると、扉の方から向かってくる小柄な姿が視界に飛び込んできた。頭の両脇に作った髪の輪を揺らし、『レッド』の制服である薄いふんわりとしたスカートを優雅に靡かせていた。艶やかな内巻きの紅髪に彩られた小顔には、人形のような愛らしくも完璧な微笑みが浮かんでいる。

「朱宮さま」

 桜は上擦った声をあげ、勢い良く椅子から立ち上がった。すぐさま深くお辞儀をする。

「おはようございます」

 林檎は真っ直ぐと桜の席までやってきて、足を止めた。微笑んだまま、鈴のような声を響かせる。

「おはようございます」

 桜は真面目な声で挨拶を返し、上体を戻した。林檎は差し込んだ朝日に照らされ、真っ直ぐと桜を見上げていた。机越しに並んで対峙すると、小柄な桜よりもさらに小さな背丈であることがよくわかる。今日も麗しいな、と桜は内心で密かに呟いた。

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