第4話
桜は視線を椛の席から別の席へと移した。その席の主はまだ現れていないようで、椅子は机の下に綺麗に仕舞われたままだった。桜はその表情に憂いを滲ませ、僅かに眉を下げた。
梅は『レッド』のメンバーの一人だ。桜が組織に入ってからあまり間を置かずして、彼女も組織に入ってきた。そのため立場としては桜の部下ではあるが、ほとんど同期のような気持ちもあった。彼女はひどく人見知りで、内向的な性格だった。目を合わせることを苦手としていて、人から話しかけられることを極端に恐れていた。この組織で彼女と一番親しいのは恐らく桜だが、そんな桜に対しても彼女は任務以外でほとんど話をしなかった。しかし、お互いにそれでいいと思っていた。梅は銃の扱いに長けていて、狙撃が非常に上手かった。彼女は抗争の場できちんと力を発揮していた。だから、それだけで充分だった。『ブルー』のような仲良しこよしなど、戦いでは微塵も役に立たない。彼女が有能である、その事実だけが全てだ。彼女は人付き合いは酷く苦手だが、桜の指示に背いたりすることはなく、また抗争絡みで意見を求められればきちんと答えてくれていた。桜も梅が話すことが苦手だと知っているため、彼女が話しやすいよう工夫したり根気強く返事を待ったりした。そうして抗争時の連携に支障をきたさない程度のコミュニケーションを維持していたところ、それが梅にとっては心地良く感じたらしい。組織に入った頃は一言会話することさえ難しかった彼女が、気付けば桜には変に怯えずに話せるようになっていた。何度も同じ現場で戦いを経験したのもあり、ある種の絆が芽生えていたのだろう。そしてそれは梅だけではなく、桜にとっても同じだった。抗争を繰り返す度、桜や梅と同じ時期に組織に入った少女達は、一人、また一人と命を落としていた。気付けばいつも桜の傍にいるのは梅となっていた。さらに彼女程の銃の腕を持っているのは他に林檎ぐらいであり、抗争現場における彼女の能力への信頼も大きかった。こうして自然と共に過ごすようになっていたが、同時に桜は内心で彼女のことを少し心配していた。彼女は人が苦手すぎて、未だに組織に馴染めていないように見えた。それが原因で戦場での連携ミスや心理的要因の不手際が発生し、戦況に大きく響くような状況になってしまったら。そんな未来を想像して不安になっていたが、有効な手立てがあるわけでもなかった。
そんな梅を変えたのは、椛だった。当時学生だった椛は「組織に入れて欲しい」と本拠地に一人押しかけてきて、林檎の手によって鉄砲弾の役割を与えられ、敷地内に留め置かれていた。そしてこれまた林檎の計らいで『ブルー』が襲撃してきたのを、桜、椛、梅が力を合わせて凌いだのだった。その際桜は怪我を負ったところを二人に助けられたのだが、その二人でいた時に何かあったようで——桜が会った時、梅は何だか吹っ切れたような、一皮むけたような表情をしていた。人を怖がったり周りに怯えたりせず、ただ、毅然とした態度で真っ直ぐと前を向いていた。人の目を見るのが苦手だった梅が、じっと桜の目を見て淡々と戦況の報告をしていた。その目には、何か覚悟を決めたような強い意志が滲んでいた。あんな梅の表情を見たのは初めてだった。何があったかは知らないが、その日を境に梅は必要以上に人を怖がらなくなった。というより何か使命感に駆られるように、一心に組織の活動に取り組むようになったと言った方が正しい。前髪に隠れいつも下を向いていた双眸が、希望を持って前を向くようになった。いつも傍で見続けていた桜だからこそ、彼女の変化がよくわかった。彼女が変わったのは、きっと椛のお陰なのだと思う。それから梅は椛とよく一緒にいるようになった。二人で何やら大量のノートを読み漁っているようだったが、桜は詳しくきくつもりもなかったため遠くからただ二人を見守っていた。桜以外にも心を許せる相手を見つけたのだろうと思うと、なんだかほっとした。椛は年下の面倒見が良いようだったし、きっと相性も良かったのだろう。梅は自分が変わるきっかけであり、また梅とは正反対の明るく社交的な性格の椛に心底懐いているようで、椛の姿を見つけると梅から駆け寄るまでになっていた。
(椛がいなくなって、梅はひどく悲しんでいるだろうな)
彼女の青白い顔、クマのひどい目、色素の薄くなった長いボサボサの髪、そしてやせ細った骨の浮いた身体を思い起こす。これがきっかけで彼女の不健康さに拍車が掛かってしまったらと一抹の不安が過った。部下のメンタルケアも役目の一つだ、今日はなるべく梅に話し掛けるようにしようと、桜は内心で密かに算段を付けた。
それと同時に、視界の隅で勢い良く扉が開いた。『レッド』の足首まであるふんわりとした薄手のスカートが、紅のグラデーションを広げて顔を出す。脚の細いシルエットは、梅のものだ。桜は顔を上げ、視線を向けた。昨日椛に別れを告げた時の悲しさの滲んだ梅の顔を思い起こし、どう声を掛けようかと頭の中で勘案しながら。
「おはよう……っ!」
若干掠れた高い声。大きな声を出し慣れていないのがよく伝わってくる声だった。
「……え」
桜は扉へ顔を向けた状態で固まった。扉を開けて立っていた少女は、桜が見慣れた姿ではなかった。双眸を覆い隠す程長かった前髪はバッサリと切られ、その二つの瞳が珍しく露になっていた。ボサボサに伸びていた後ろ髪も大胆に切られ、後ろで編み込まれてハーフアップにされていた。見覚えのある髪型。……そう、椛と同じ髪型だった。いつも猫背な彼女の背中は、今ばかりはぴんと伸びていた。普段の控えめな小声の挨拶が嘘のような、部屋の全員へ向けて気さくに掲げられた細い掌。……背丈こそ違えど、まるで椛が立っているように錯覚した。しかし椛とは異なり、その笑顔はぎこちなかった。精一杯上げた口角が、ピクピクと震えていた。
「……あ、おはよう、ございます……」
桜は我に返り、たどたどしく挨拶を返した。気付けば部屋に集まった少女達の視線は、扉に立つ少女へと一様に集まっていた。……静寂。
「えへへ……、きょ、今日も頑張っていこうね、みんな!」
梅は部屋の中へなんとか笑顔を振り撒き、明るい声でそう言った。若干上擦り、裏返っていた。そのまま梅はとてとてと自身の席へ向かった。緊張していたのか、その足取りは不自然に速かった。縺れそうになる細い脚を動かして、梅は自席まで来ると、椅子へと座った。一瞬笑顔が途切れ、泣きそうな顔になったのを桜は見逃さなかった。……大分無理をしているようだ。
「梅さん、髪、バッサリと切ったのですね」
「髪質も良くなっていませんか?」
固まっていた周りの少女達も漸く落ち着いてきたらしく、一斉に声を掛けだした。梅は一度ビクリと大きく肩を跳ねたが、なんとかすぐに笑顔を貼り付けた。
「う……うん、そう! き、気分、で……!」
梅は努めて明るい声でそう言った。会話が苦手なはずの梅は、続けて「いろいろ試してみようと思ってるんだ。良かったら、どんなコンディショナー使ってるか教えて? 高いのは、無理だけど……」と話しかけてきた少女へつっかえながら話を振った。その間も、彼女は見たことのないような満面の笑みを貼り付けていた。同時に、頬の筋肉が僅かに痙攣していた。周りの少女達に囲まれて話をする姿は、まるで。
(……椛……)
桜はその様子を、あんぐりと口を開けて眺めるしか出来なかった。彼女は内気で大人しくて、会話が大の苦手なはずなのに。泳ぎそうになる視線をその度に必死に相手に合わせ、震える口元をなんとか誤魔化し、上擦った明るい声を無理に張り上げて。腰の辺りまで伸びていた髪先は、今は彼女の肩を柔らかく擽っている。椛はいつも『レッド』のメンバーの少女達に話を振って、笑顔を咲かせていた。彼女の明るい声は室内に響いて、人を元気にする力があった。まるでその光景をなぞるかのように梅は振舞っていた。目を合わせることさえ難しかった、彼女が。
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