第2話
静かな部屋に、コンコンコン、と扉を叩く音が響いた。桜は背もたれから上体を起こし、姿勢を正した。
「……どうぞ」
訪ねて来る人物には心当たりがあった。扉が開き、『レッド』の赤い制服に身を包んだ少女が部屋へと入ってくる。予想通りの顔だった。
「報告します」
彼女は決まってこの時間に、桜へ報告をしにやってくる。時間を指定したのは、桜だ。……丁度、たまかの帰った後の時間。
「二名、組織から抜け出した者が出ました。両者とも新リーダーの方針に賛同出来ないと周囲に漏らしていたことからして、離反は確実のようです。いかがいたしましょうか」
彼女には組織のメンバーを監視し、組織から離反した者を特定して一早く報告する役目を任せている。勿論他の『レッド』のメンバーには明かさず、秘密裏にである。そしてそれはたまかも例外ではない。彼女の耳に入らないよう、桜は今の時間を選んで密かに報告をさせていた。
「毎日毎日、よくもまあ飽きもせずに同じことが繰り返されますね。突然の方針転換ですから、そういう者が出ることも致し方ないことではありますが」
「……」
「たまかさんを指名したのが朱宮さまだということを、愚かにも忘れているのでしょう。全く……『レッド』の名に泥を塗る、浅慮な者達です」
桜の小言に、『レッド』のメンバーはただ黙って耳を傾けているばかりだった。答えを待つ鋭い視線を浴びながら、桜は一度口を閉じた。……次の言葉を口にする時、毎回口の中が渇いた心地になる。その重みに心の奥が圧し潰されそうになって、チリと痛みが走る。それを無かったことにするように、桜は口を開いた。毅然とした態度で、語気を強くする。
「いつも通り、殺しなさい。一刻も早く見つけ出して、情報が他に漏れていないことを確認してください」
「……承知しました」
『レッド』の少女は一礼すると、すぐに部屋を後にした。扉が閉まる音が空虚に木霊する。桜はまるで大規模な抗争を終えた帰り道の如く、どっと疲弊した顔で閉まった扉を眺めることしか出来なかった。
たまかが長となって、彼女は傷つく人を無くすことを目指して舵を切り出した。鼎立する敵対組織『ブルー』や『ラビット』の壊滅を掲げていた『レッド』は、一転して二つの組織へ死傷者の出るような攻撃を仕掛けることをしなくなった。中小規模の組織を潰すこともなくなり、『レッド』へ攻めて来る組織を返り討ちではなく話し合いで解決するようになった。その成果は着実に数字に表れ、ついには『レッド』の死人がゼロになる日まで出るようになった。今までの抗争ばかりの日々からは考えられなかったことだ。たまかはそれを見て心から喜んでいたし、桜も仲間の無用な死を避けられることは非常に嬉しかった。仲間が死ぬところなど、当然見たくはない。その思いも喜びも、桜の本心だ。しかしその一方で、桜は毎日足抜けした組織員達の始末を命じている。それも、誰も死なせないことを目指している新しい長に隠れてだ。『レッド』の死人がゼロだとされている日も、本当は裏では死人は出ていた。桜の命によって。
「……」
桜は重いため息を漏らした。これは正しいことなのかという迷いと葛藤が生まれ、心を蝕んでいく。同時に何も知らないたまかへの罪悪感も心の中で芽を出し始める。しかし全てを飲み込み、桜は扉から漸く目を逸らした。『レッド』は知識を武器にし、知力で戦う組織だ。そのため『レッド』にとって情報は生命線となる。『レッド』から離反した者は、『レッド』にとって情報がいかに重要か、その身を以って知っている。彼女達は離反してまず初めに、他の組織へ『レッド』の情報を売ろうとするだろう。実行されたが最後、情報で戦っている『レッド』は圧倒的に不利な状況に陥ってしまう。しかも一度流出してしまった情報は、もう取り返しがつかない。つまり情報が渡るのを未然に防ぐことこそが、何よりも肝要なのだ。もし離反した者の流した情報が致命的な痛手となって、『レッド』が壊滅させられるようなことになってしまったら。『レッド』を築き上げてきた林檎に、合わせる顔がない。故に最悪の事態を避け『レッド』を守るためには、リスク管理を徹底し、離反した者を一人残らず抹殺するしかない。離反した者の頭から『レッド』の情報を確実に消す手段など、殺す以外には存在しないのだから。
桜は直接手を下すわけではない。しかし殺すことを命じる時、その言葉の重みに心が圧し潰されそうになる。たった一言口にするだけなのに、人の命を奪う責任が深く突き刺さったように、声が震えそうになる。
(朱宮さまは……いつもこのような気持ちでいたのだろうか)
彼女の立場に立って、漸く思い至る彼女の心の内。林檎に誰かの殺害を頼まれたことは一度や二度ではないが、その時桜は任務を全うすることにしか気持ちが向いていなかった。林檎の言う事に間違いはないと知っていたからだ。彼女の駒となって動く時は、林檎のことを信じてさえいればそれだけでよかった。不要な感情に心が支配されることもなく、ただ任務を完遂することだけを考えて動いていた。しかしいざ自分が林檎の立場に立つと、押し潰されそうな程の感情に思考が乱されてしまう。一人殺す度に、本当にこれが正しいのかという迷いが心に渦巻く。元仲間の命を奪うことを決めたのは、他の誰でもない自分なのだ。自分は林檎のように完璧ではないのに、新しい長に告げることもせず、独断で『レッド』の進もうとしている道を逆進している。知っている顔の命が、ひっそりと自分の指示で消されていく。実際に手を下していた時より命じる立場の今の方が、鋭い刃で心を抉られたような強烈な痛みを感じた。自分は本当に正しいのか。犠牲を出した分に見合う組織の利益をきちんと出せるのか。万が一指示の結果が失敗に向かっていた場合、命という損失をどう取り戻すのか。辛さや苦しみから逃れようと考えれば考える程、『責任』が心を締め付け重くのしかかる。
(やはり、自分は未熟だな……)
林檎は全ての責任を背負い、その重さを誰よりも自覚していた。どのようになろうとも全ての結果を受け止める、揺るぎない覚悟を持っていた。その上で組織員達の心が乱されないよう毅然とした態度を取り続け、そして常に最善の道を歩み続けていた。桜には、林檎のようには出来はしない。
(もし朱宮さまが、わたくしと同じような思いを抱いていたとしたのなら……わたくしは、気付いて支えるべきだったのに)
彼女はいつも自分が正しいと言わんばかりに振舞っていた。実際、彼女はいつも正しかった。しかしその胸中は、一体どのようなものだったのだろう。もし彼女が幼いリーダーとして、内心に不安を抱いていたのだとしたら。誰にも打ち明けられず、一人静かに打ちひしがれていたのだとしたら。それを支えてあげられたのは、きっと自分だけだったはずなのに。
「……ああ、また考え事に耽ってしまった……」
広げたままの書類を見下ろし、桜は苦い顔をした。時計を見れば、そろそろ十九時になろうとしていた。終了予定時刻をどんどんとオーバーしていく。焦りとともに再び書類へと目を通すが、やはりどうしても頭に入ってこなかった。
……今は、大事な時期なのに。自分がしっかりして、新しいリーダーを支えなくてはいけないのに。
「……」
桜は無意識にため息を漏らした。誰でもいいから、誰かと話がしたいと思った。この喪失感を少しでも埋め合わせれば、気持ちが晴れるかもしれないと思った。しかし、心中を話せるような相手はいなかった。たまかには、次期リーダーや彼女の右腕として不安を抱かせるわけにはいかない。灯や茜は、部下にあたるため情けないところを見せるわけにはいかない。……朱宮さまも同じ気持ちだったのだろうか、と桜はふと思った。常に孤独に苛まれ、周りに吐露することは許されないと思っていたのだろうか。
「……はあ。駄目だな」
気付けば考え事をしてしまっている。桜は書類と睨めっこするのを諦め、顔をあげた。
「気分転換、しよう」
桜は気持ちを切り変えるように呟くと、椅子から腰をあげた。このまま机に張り付いていても、書類の確認が進むことはないだろう。ならばいっそのこと少し休憩を挟んで、落ち着いた後にタスクに取り組んだ方がいい。ストレスコーピングのメンタルヘルスへの有効性は、とっくの昔に証明されている。
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