黄昏の追憶
小屋隅 南斎
第1話
「では、お先に失礼します。お疲れ様です」
まるで末端の構成員のような丁寧なお辞儀をした後、たまかは小さな顔に笑みを浮かべた。本日のタスクを熟し終えた、解放感に満ちた表情だった。
「はい、お疲れ様でした」
桜(サクラ)は目を通していた書類から顔をあげた。重い瞼の奥で、自身の組織の長を瞳に映す。たまかは桜の真面目な顔から、机の上に積まれた書類へと視線を下げた。
「……サクラさんも、あまり無理なさらないでくださいね」
「……」
桜は目の前に積まれた書類を一瞥した後、表情を変えずに再びたまかを見上げた。
「仕事量に問題はありません。本日は『ラビット』の暴動を沈静化するために出ていたので、その分遅れが生じただけです。次の会談までには片づけておきますので、ご安心を」
真面目な声で成された説明に納得したのかは定かではないが、たまかは頷いてみせた。不安がっている様子はないことからして、桜の腕を信頼しているのだろう。
「では、また明日」
たまかはにこやかな笑みを残し、桜の机から離れていった。桜は視線だけで彼女の背中を見送った。彼女は決まって毎日、帰り際に桜のもとへ挨拶をしに来る。桜の抱えている任務の進捗具合を確かめるためでもなく、くだらない叱責をするためでもなく、本当にただ挨拶だけして帰る。長としての威厳の欠片もない笑みを毎日眺めながら、ある意味でたまからしいな、とも桜は思っていた。変にリーダーぶらずに、自然体のままで居続ける。これは意外と難しいことだ。それに彼女は臨時の長なのだから、変な確執を生まないこの姿が正解なのだろう。彼女が長になって少し経ったが、帰りの挨拶だけに留まらず、彼女の振舞いに変わったところは見られなかった。権力に溺れる気配も、心が折れる様子もなかった。やはり彼女が長に采配されたのは、正しかったのだろうと思う。彼女を任命した人の顔を脳裏に描き、桜は悲しそうに瞳を細めた。
部屋には静寂が流れていた。ここは幹部の中でもさらに選ばれた者のために割り当てられた執務スペースだが、今は桜の姿しかなかった。残りの机の持ち主達は、既に個人寮の建物に帰っている。というのも、明日は週に一度の休戦日のため、桜が早めに帰らせた。たまかが長になって、三組織の長による三者会談が定例化し、その成果の一つとして休戦日が設けられた。どの組織も抗争を仕掛けないと決められた日。今までの三組織の関係を思えば、信じられない程の劇的な変化である。休戦日は『ブルー』や『ラビット』に襲撃される心配をあまりせずに、中小規模の組織の動向を探ることに集中出来る。仕事を中断せざるを得ないような邪魔も入りにくい。比較的余裕が出来るこのような時にこそ、なるべく組織員を休ませ、来たるべき時のために英気を養っておくべきだ。そのような思いから桜は他の二人を早々に帰した。そして桜自身も、こういう時にこそ休養したり知識を身につけたりするべきだろう……と、思っている。いるの、だが。
「……」
目の前に積まれた書類の山を見て、桜は思わずため息を漏らした。顔をあげて、壁に掛けられた時計へと視線を移す。時計の針は十八時半を指していた。たまかは毎日決まってこの時間に帰る。長にしては随分と早い時間だが、桜を始めとして『レッド』の組織員はそれについては何も言わない。気合や熱意を重視する『ブルー』と違い、『レッド』は下手な根性論を嫌う。会社時代で言う残業のような、遅い時間までタスクに取り組むことを美徳だとは思わない。むしろ決められた時間内にタスクを終えられないのは要領の悪さを露呈させているようなものだ。そのためたまかのこの時間での帰宅は、『レッド』のメンバーからは好意的に捉えられていた。本人がそれを認識しているのかは、桜にはわからないが。
「十八時半……」
桜はポツリと現在時刻を口にし、そして再度、目の前に積まれた書類を見下ろした。
「予定では、十七時までには終わるはずだったんだがな……」
ほろ苦い笑みを淡く浮かべ、桜は自嘲気味にそう呟いた。たまかに言った『ラビット』の暴動の鎮圧も嘘ではないが、そのような予想外の事態も込みの上で、十七時までには終わらせる予定だった。それなのに、現時点でもう一時間半もオーバーしている。にも拘らず、机に積まれた書類はまるで一晩降り積もった雪のように厚みを作っていた。
(最近……こんなことばかりだ)
桜は机に両肘を乗せると、両手を組んだ。その上に頭を預け、項垂れる。無情に時を刻み続ける時計の針の音が、静かな部屋に響いていた。
たまかが長の席に座った、新生『レッド』。『レッド』の方針はガラリと変わり、そして今まで経験のない人間が組織の指揮を執ることになった。その分、組織でナンバーツー、さらに次期リーダーが内定している桜が尽力しなければならないのは明白だ。他組織への牽制も必要だし、長が代わった隙をついて攻めて来る敵に対抗する必要もある。協力関係にあった組織への説明も必要だし、方針の急転換による内部の反乱にも気を配らなければならない。『レッド』の内部や抗争事情について、たまかへの説明も必要だ。そしてたまかからの命を卒なくこなし、彼女が短い任期の間に成し遂げようとしていることを全力でサポートする必要もある。つまりは、桜の踏ん張りどころがまさに今だ。『レッド』は創設者を失い、大きな柱を無くしてしまった状態だ。ここで桜が頑張らなければ、『レッド』の未来はどうなるかわからない。……そう、頭では分かっているのだが。
「……」
項垂れたまま、桜は微動だにしなかった。最近、何をするにしても身が入らない自覚があった。書類を読んでいても、内容が頭に入らずに目が滑るばかり。敵との抗争現場でも、上の空で相手の動向を見落としてしまう。以前は休む時間も惜しんで抗争に関する知識を身につけるようにしていたが、今は図書室に赴く気すら湧かない。……原因は、わかっている。この心にぽっかり穴の空いたような、大きな大きな喪失感だ。
「……朱宮さま……」
俯いた下で、今は亡き人の名前を縋るように呼んでしまった。もちろん、返す者はいない。
『レッド』の創立者にして前リーダー、朱宮林檎(シュミヤリンゴ)。今まで桜が頑張って来られたのは、偏に彼女のためだった。極限状態での戦闘訓練も休みを潰して戦術指南の本を読み耽ることも、林檎の力になると思えば苦にも思わなかった。自分の努力が全て林檎が国を掌握することに繋がっていると思えば、無限にやる気が湧いた。彼女の満足する姿が見たい、彼女が心から笑っている姿が見たい。その思いが、どんな時でも桜を突き動かしてきた。桜にとって林檎は、憧れで、尊敬する対象で、導いてくれるリーダーで、頼りになる全知全能の策略家で、支えるべき年少者で、——そしていかなる時も傍にいたい、大好きな人だった。彼女がいれば、他に何も必要なかった。少しでも彼女のために、自分が出来ることをしたい。桜は一秒足りとも疎かにせず努力を続け、力をつけていった。自分の行いで少しでも林檎が満足すれば、それが桜にとっての褒美であり、更なる努力の足掛かりとなった。少しでも彼女の力になりたい。あわよくば、彼女に認めてもらいたい。そしていずれは、彼女の隣に立つに相応しい人になりたい。その思いが、桜を今の地位へと押し上げたのだ。
しかし、林檎は死んでしまった。現リーダーであるたまかを守るため、彼女は凶弾に倒れた。今でも信じられない。信じたくない。あの朱宮さまのことだから、きっとこれにも何かからくりがあったのだろうと、桜は薄々気が付いていた。恐らく、たまかを『レッド』のリーダーに仕立て上げるために、自分の命を使って強迫をしたのだろう。たまかは林檎が殺されたことにより、『レッド』のリーダーの席に座らざるを得なくなった。結果として財団に追われていたたまかは命を繋ぎ、そして三大組織『レッド』の長として三組織の関係性を変え始めた。全て林檎の思惑通りなのだろう。だけど、と思う。たまかを『レッド』のリーダーとすることは、果たして林檎の命を使う程の価値があったことなのだろうか。自身の命を投げ打つ程に、『レッド』のリーダーの座はたまかにしか譲れないと確信していたのだろうか。桜では——いけなかったのだろうか。
桜は項垂れていた頭をあげた。考え事で時間を浪費している場合ではないと、内心で自身を叱責する。姿勢を正し、机に置かれた書類に目を走らせ始めた。書類には、協力関係にある組織の最近の動向の調査結果が記されている。長が代わり、組織の在り方も大きく変わった『レッド』。この機会に協力関係を切ろうとしたり、一転して攻めようとしたりする組織も出てくるだろう。それらの兆候は、組織の動きを見ていれば自ずと気付くことが出来る。そのためには組織の動向を探り、細かく情報を得ることが非常に大事になってくる。しかし頭では理解していても、文字の洪水はやはり桜の頭からするすると零れていった。……例えこの組織の反逆に気付いて防げたとして、林檎のあの完璧な微笑みを見ることはもう叶わないのだ。彼女の喜ぶ姿は、もう二度と見られない。彼女は、死んでしまったのだから。それなら——この紙切れに、一体何の価値がある?
「……」
(いや、わかっている……『レッド』は彼女の作った組織。朱宮さまの遺した『レッド』を守り抜いて大きくすることこそ、彼女に報いることが出来る唯一のこと……)
思考を頭から追い出すように、桜は小さく首を横へ振った。『レッド』を衰退させ他の組織に壊滅させられてしまうことこそ、林檎への冒涜行為であり、最も避けねばならない事態だ。桜は気を引き締め、再び書類へと目を走らせた。しかし二、三行程読んだ辺りで、桜はため息を漏らした。椅子の背もたれへと、諦めたように背中を預ける。
(……くそ。頭では分かっているんだがな……)
気持ちがついていかない、とはこのことを言うのだろうか。弛んでいるな、と桜は自嘲した。せっかく林檎に次期リーダーに指名してもらったというのに、こんな醜態を晒しているようでは世話が無い。……そう、あの林檎が認めてくれたのだ。彼女の期待に応えるために、もっと頑張らねばならないのに。そう思う程、彼女が既にこの世を去っている事実が頭に過って、桜の心はどんどんと暗澹として深く沈んでいった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。