命日
安槻由宇
命日
浅瀬に寄せては返す波のような眠りを、耳を
しかし、今日はどういうわけか母は来なかった。
ベッドの上で上体を起こし、部屋の一点のシミを見つめながら緩慢な頭が冴えるのを待つ。身体の奥の方から猛烈な寒気を感じた。ひざ元の羽毛布団をたくし上げて肩まで羽織るようにするが、寒さは収まらない。いやな予感がしてカーテンを開ける。結露した
白い
——いつからだろうか。
私が雪を嫌いになったのは。
幼いころはそうでは無かった事を覚えている。毎年、家族で行くスキー旅行を楽しみにしていた。しかし、いつからか雪の日は身体が重く気持ちが沈むようになった。思えば家族でのスキー旅行もしばらくは行っていない。最後に行ったのは私が中学生の時だっただろうか。……思い出せない。そういう記憶や思い出を雪が覆い隠してしまう気がする。だからだろうか。
——私は雪が嫌いだった。
「はぁ……」
沈むように吐いたため息が硝子を再び曇らせる。
私は窓辺を離れて、勉強机の上に置かれた携帯電話を手に取り手癖のように開いた。デジタル文字で今日の日付が表示される。
二〇一八年一月二十五日、土曜日。午前八時三十五分。
SNSを漁り、私は一つのネット記事に目を留めた。
“二十四日午後六時ごろ、家族から「娘が戻らない」と一一〇番通報があり、約三十分後に現場へ到着した県警が捜索を開始するも、同日、現場周辺は強風と降雪でヘリを飛ばすことが出来ず捜索は難航、午後八時ごろ、捜索隊は二次被害の危険性を鑑みて捜索を一時中断。翌朝、天候の回復を待ち捜索を再開する予定であるという。”
携帯電話の電源を落としてベッドに投げ捨てた。
土曜日だというのに今日は講義があるから私は大学に向かわなければいけない。土曜の講義はただでさえ損をしている気分になるのに、加えてこの雪ではどうにも雨雲のように重たい憂鬱が胸中に巣くって離れない。
リビングへ降りると、休日にも関わらず家族は皆出かけていた。いつもは先に起きて新聞を読んでいる父も、朝食の支度をする母も、テレビの前で眠そうにしている弟の姿も無かった。こういうことは珍しい。
仕方なく朝食は自分で用意した。
台所でやかんを火にかけ、お湯が沸くまでの間にシャワーを浴びた。浴室から出ると、やかんが甲高い音を立てているのが聞こえる。いつも思うことだけれど、やかんが鳴る音を聞くと、どことなく不安な気持ちになる。火事防止のために敢えて人が不安になる様な音が出るように設計されているということは当然理解しているけれど、何かもっと人間の奥底の方に訴えかけられているように感じてしまうのだ。
——お前はもっと大事なことを忘れていないか?
いや、考え過ぎだ。きっと珍しく無人の家の物寂しさが余計にそう感じさせているだけだ。
余念を振り払うようにコンロの火を消す。
やかんの熱湯でコーヒーを淹れ、戸棚から食パンを二枚取り出しオーブンに入れてタイマーをセットする。冷蔵庫を物色すると賞味期限の近い卵がいくつかあったので、二つ使って目玉焼きを作った。焼けたトーストと目玉焼きを皿にのせてテーブルへ置くと、どもう緑色が足りない気がしたのでサニーレタスを洗って目玉焼きに添える。両手を合わせて「いただきます」。
私の両手が柏手を打つのと同時に、部屋の隅の方で何かが壊れる微かな音が聞こえた気がしたが、きっとそれも気のせいだ。
“○○県○○町の○○山にある○○スキー場にて、二十四日午後六時ごろ、遭難事故が発生。県警○○署は二十日の晩から捜索を開始するも、強風と降雪により捜索は難航。本日二十五日早朝より捜索を再開する予定も、天候の回復が遅れ未だ再開の目途は立たず……。”
テーブルの端に投げ出された新聞には先ほどネットで見たものと同じ事件の記事が載っていた。新聞を片手に朝食を取っていると、まもなく家を出る時間になった。
玄関で自分の固いブーツを取り出して足を入れる。扉を開ける時ふと振り返ると、薄暗い廊下の端に影が差し込んでいるのが嫌に印象深く目に付いた。
何かを忘れている気がする。今日は何か大事な日ではなかっただろうか?
駄目だ。思い出せない。
雪の降る中、駅までの道を歩く。軽く積もった雪道の上を私のブーツが踏みしめる。振り返ると私の通った後には溶けた雪が泥水となり一筋の黒い線を作っていた。
街はやけに静まり返っていた。その静けさは寝静まっているのとはなにか違くて、喪に服しているような、そんな静けさに感じた。きっと、家の近所の斎場で葬式が行われているのを見かけたせいだろう。
雪の日の葬式なんて……。何だかとても虚しい気持ちになる。
今日は駅も閑散としていた。いつもは通勤中のサラリーマンや学生で込み合うプラットホームも、地下鉄の車内も物静かで寒々しい。数少ない乗客の顔は皆ロウで固めた人形のように白く無機質で、何処か作り物めいていた。
車窓から地下鉄構内の蛍光灯を無限にも思えるほど見送っていると、このままずっと目的地にたどり着けないまま、この車内に閉じ込められてしまうのではないかという妄想に駆られる。怖くなって、私は車窓から目を離し車内の天井から吊るされたカラフルな広告や電光掲示板に視線を移した。
“○○スキー場にて昨日二十四日、遭難事故が発生。現在県警の捜索隊は強風と降雪により捜索を中断しており、現場近辺のホテルにて天候の回復まで待機中である。また、遭難者の両親が即時の捜索再開を県警に嘆願し、捜索隊の待機するホテルへ押しかける事態が発生。現在は県警の説得により事態は収束している模様。”
またあの記事だ……。
最寄りの駅から大学までは歩いて五分ほどの距離になるけれど、今日は雪のせいか十分ほど掛けてその道を歩いた。いつもであれば同じように大学へ向かう学生達の流れが出来ているはずだが、途中、それらしき人には誰も出会わなかった。いくら今日が土曜日で雪が降っているからといって、大学前の道に学生が一人もいないのは異常なことだ。
……何処かおかしい。
おかしいと言えば、今日は朝から何処かいつもとは違った感じがしていた。日常と少し位相がズレている様なチリっとした感覚が後ろ髪の辺りに纏うのだ。それにずっと私は何かを忘れている気がする。
校門前の急坂を登り切って辿り着いた構内にもやはり人の姿は無かった。
無人の構内に立ち並ぶ背の高い校舎群は昨年の改修工事を経て、古臭いゴシック様式の旧校舎から、全面硝子張りで近未来的な新校舎へと改築されている。それがいまは雪の中に
あれ……。
さっきも同じようなことを考えなかっただろうか。
一つの足跡も無いまっさらな雪の道を進む。道の左右に聳える校舎を覗くと奥に薄暗い廊下が見える。廊下は影に沈み、掲示板に張り出されたポスターに映るモデルの女性が不気味に笑っていた。ずっと眺めていると視界がどんどん狭くなっていく。まるで意識が吸い込まれていくかのように……。
——ドサッ。
急に音がして振り返ると、道端の生垣に植えられた
やっぱり、おかしい。
おかしいのは私か。或いは——。
いや、もしかしたら……。
ふと思い立って、小走りで講堂前の掲示板を見に行くと、予想通り全講義休講の案内が張り出されていた。
「はぁ……」
安堵と徒労感が混じった白いため息が漏れる。
構内が無人だった原因が判明し安堵する反面。ただでさえ憂鬱な雪の日に、わざわざ大学まで出てきてのに無駄足になってしまったことには堪えた。
その後も私は所在なく構内をぶらぶら歩いた。
何故そうしたのか理由は自分でも分からない。雪の日の外出をただの無駄足にしたくなかったのか、或いは雪化粧を纏った校舎の美しさに誘われたのか。何だかそのまま帰る気になれなくて、とにかく目的もなく歩いていた。
講堂前の広場の傍には大学創設者の立像が立っていた。彼は目の前にある凍りついた噴水を見つめて沈黙している。その立像を横目に法学部の校舎の脇を抜けると、三方を硝子張りの校舎に囲われた中庭のような一角がある。一面の芝生の上にベンチがいくつか置かれており、普段であれば賑わいを見せる人気のスポットなのだが、当然いまは無人だ。
普段あまり立ち入る機会が無いため気がつかなかったが、いくつか並ぶステンレス製のベンチの中で一つだけ古びた木製のベンチが置かれていた。昨年の改修工事で構内全体が新しくなった中でそのベンチだけが取り残されたように異様に古い。その木製のベンチは、一面白に染まった視界の中にあってあきらかに異端だった。それは絵画に付いた一点の汚れのようで、自然と目を惹く。
私がその木製のベンチに近づこうとして一歩を踏みだすと、まるでそれが引き金だとでも言うかのように、その木製のベンチはガシャンと音を立て崩れた。普通に考えれば経年劣化と雪の重みによる崩壊。しかし、その崩壊の仕方はまるでガラス細工を硬いもので叩いて壊したかのように見えた。そしてそんな音が聞こえた気がした。
私はなんだか恐ろしいものを見た気になって、逃げ出すようにその場を後にした。
それからしばらく構内を歩いていると、
校舎の中は暖房が効いていて温かかったけれど、やはり人の姿は見かけなかった。講義が休講でも職員はいるものだと思っていたけれど、学生部も進路相談室ももぬけの殻で時計の進む音だけが異様に大きく響いていた。無人の廊下と煌々と光る蛍光灯の明かりが妙にアンマッチで、まるで世界の裏側に来てしまったかのような感覚に囚われる。その後もしばらく歩き回っていたが、目的を見失った私の足は無人の構内をさまよい、気がつけば自然と大学付属の図書館へ向かっていた。
大学図書館の入り口にある入館ゲートはかろうじて作動しており、私は在学生だと認証され無事入館することが出来た。けれども、やはりカウンターに職員の姿は無く、それは資料の閲覧スペースや他の場所も同様だった。
私は本を探すというより、人を探すような気持で書架の間を練り歩いた。図書館を奥に進み、階を下るほどに、書架の書物はカラフルな背表紙の文庫や雑誌から、黒々とした装丁の文学全集やおどろおどろしい本の化け物のような物に変わっていった。
——大学図書館は地下に続いている。
下層に行くほど水底に沈むような息苦しさが全身に絡みつき、それとは反対に、書物たちは自由に動きまわる。
「こんにちは」
————。
ハッとして、顔を上げ、深層に沈んでいた意識を表層へ浮かびあがらせる。
人がいた。
それも見知った顔だった。
「
彼女はフフッと妖しく微笑んで言った。
「どうしたの? そんなに怯えた顔をして。まるで幽霊でも見たみたい」
「ああ、うんうん違うの、ちょっと考え事をしていて……」
「そう? それはいい事ね」
「うん、そうだね」
いつの間にか、最下層の地下五階まで降りてきていた。
彼女は安槻さん。確か、下の名前は
友人という訳では無いけれど、ちょっとした知り合いだ。互いの学部や学年も知らなければ、いつ出会ったのかすら忘れてしまったけれど、彼女とはいつもこの図書館で遭遇する。まるでここに住み着いているのかと思うほど、いつも彼女はここにいる。
「外はずいぶんと降っているみたいね」
彼女は地下五階の天井を見て言った。
つられて天井を見上げると、吸い込まれるような高さに灰色の天井が広がっていた。
図書館の天井はこんなに高かっただろうか。
私は少し不安な気持ちになった。
「だんだん雪も強くなっているわ。今日はもう全講義休講になったみたいだけど、もしかして安槻さんも知らないで登校しちゃったの?」
彼女は首を振って言う。
「いいえ、知っているわ」
「そうなんだ……」
であれば、彼女はわざわざ講義も無い日に何をしに来たのだろうか。
彼女は書架の奥に設けられた簡易的な閲覧席に様々な書物を積み重ねて座っていた。それは大判な図説のような資料から、文庫サイズの本、そして新聞紙までにも至る。
何か調べものでもしていたのだろうか……。
私は少し気になって、近づいて彼女の傍らに積まれた書物を覗いて見た。
そして七年前の新聞のバックナンバー。
民法?
なぜ七年前?
何か過去の事件を調べていたのだろうか。
あるいは、彼女は法学部だったのかもしれない。
しかし、いま彼女が手に持っている大判の図説のような書物は……。
「気になる?」
のぞき込むようにして私の眼を見る彼女の灰色の瞳に思わずぎょっとした。
「えっと、少し」
はい、とあっけなく手渡された大判の書物はずしんと重く、開かれた頁には左右一面に絵画が印刷されていた。
崩れ行く世界の中心で一人の少女が泣いている。いや、これは助けを求めているのだろうか。少女が天に伸ばす手は、肘の辺りから先が崩れて無くなっており、空中を藻掻く足も膝から先が消えていた。世界は地と空が割れている。割れた空の先、虚空の中にもう一人の少女がいる。あれは天使だ。世界の中心の少女は天使に助けを求め手を伸ばしているのだ。そして天使は、笑っている。残酷な笑みを浮かべ楽しんでいる。
絵画の右上に小さく『命日』と書かれているのを見つけた。絵の題名だろうか。
それは見た事の無い絵だったけれど、なんだか懐かしく、なんだか悲しく、なんだか恐ろしく、そして不気味だった。気が付くと手に持っていたその書物の重さが一層増したように感じ、私はすぐにその書物を彼女に返した。
「もういいのかしら」
「ええ……」
彼女は書物を受け取って開かれた頁をなぞるように撫でた。そして恍惚とした表情でその絵を見つめていた。その横顔から見える笑みは、何処か……。
似ている?
誰に?
「ねえ、何か忘れているんじゃない?」
————。
私の思考を遮るように彼女の声が重く響いた。
「何かって……」
「大切なこと」
——大切なものを雪が覆い隠してしまう。
「あなたは考えなければいけない」
——なにを。
「考え続ける限り、世界は可能性に満ちている」
——可能性。
「ねえ、あなたにはどれだけのことが考えられるの?」
————。
「あなたはもう行ったほうがいいわ」
「えっ?」
彼女の灰色の瞳がこちらを見つめている。
「行くって、何処に?」
「そうね、ここではない何処か、外の世界へ」
“本日二十五日午前十一時ごろ、○○スキー場で遭難した○○さんの捜索が再開。午前十時ごろより徐々に天候が回復し、県警はヘリの出動が可能と判断。また係留気球無線中継局や無線中継装置を搭載したドローンの投入も検討されているようで、迅速に捜索が進められる見込みだ。”
図書館を出て携帯電話で時間を確認しようとすると、例の事件の記事が更新されていた。そして驚くことに時間は入る前から数分しか経っていなかった。何だか長いあいだ中にいた気がしていただけに不思議な感覚がする。
校舎を出ると雪はさらに強くなっていて、地に積もった雪が脛の辺りまで来ていた。あまりのんびりしていると電車が止まって家に帰れなくなりそうだと思い、私は急いで校門へ向かった。
校門までの道すがら、雪をズボズボと踏みしめながら先ほどの図書館でのことを思い出していた。
彼女の笑み、そして言葉、あの絵画、それに七年前の新聞、民法総則。一見何のつながりも見えないそれらが、妙に頭にこびりついて離れない。まるで古い戸棚の引き出しを開けた時のような、埃っぽい記憶の欠片が頭を廻る。その欠片の一つ一つを集めてジグソーパズルのようにつなぎ合わせると何かが浮かび上がってくるような感覚がある。しかしそれには白い靄が掛かっている。雪のような白い靄が記憶を霞ませているのだ。
ああ、なんだか昔も同じようなことがあった気がする。あれはいつのことだっただろうか。あの日も雪が降っていた。雪が降っていて、とても寒くて、冷たくて、寂しくて、暗くて……。普段は厳格な父が珍しく泣いていた。私はその理由を知っていたはずなのに思い出せなくて、不思議な気持ちで父を眺めていた。昔そんなことがあった。思い返せば、あの時も、あの時も、あの時も……。雪が降っていた。雪の日はいつも記憶に靄が掛かり、なにか真実を隠してしまう気がする。
——だから雪は嫌いなのだ。
気が付くと私は三方を校舎に囲われたベンチが並ぶ中庭のような一角に立っていた。校門へ向かっていたはずが道を間違えたのだろうか。いや、いくら考え事をしていても迷うような広さでは無い。
では何故?
校門へ向かっていた足がいつの間にか行く先を変えていたのだ。
目の前には先刻と寸分違わぬ光景が広がっている。
三方を硝子張りの校舎に囲われた中庭のような一角。いくつか並ぶステンレス製のベンチの中に一つだけ木製のベンチが置かれている。それは改修工事で構内全体が新しくなった中で取り残されたように古い。今にも朽ちそうな木製のベンチは一面白に染まった視界の中にあって異端だった。それは絵画に付いた一点の汚れのようで……。
——いや、おかしい。
あのベンチは先ほど崩れたはずでは無かったか?
私の目の前で音を立て崩壊していくのを確かに見た。
はずだった……。
——ガシャン。
そう、ちょうどこんな音を立てて……。
「え……」
私の目の前で古びた木製のベンチが音を立て崩れた。ガラス細工を硬いもので叩いて壊したような音を立てて。それはまるで、過去の映像を巻き戻しているかのような……。
いや、少し違う。
今度は何かもっと大きな物が壊れたような音がした。
辺りを見回すが異変は無い。いったい何が……。
怖くなって駆けだそうとした時、私はその異変に気が付いた。
踏み出した右足の膝から下が空を切る。
ガラス細工を硬いもので叩いて壊したように、私の右足は膝から下が欠けていた。その残骸と思しき欠片が雪の上に散らばっている。
声が出なかったのは。
——ガシャン。
立て続けに何かが壊れる音がしたからだ。
今度は散らばった欠片を拾い上げようとした左手が壊れた。
肘から先が粉々に砕けて足の欠片の上に散らばる。それと同時に正面の校舎の硝子が一枚割れた。割れたというより、壊れて崩れた。
それが呼び水となったように、立て続けに硝子が崩壊していく。
——ガシャン。
——ガシャン。——ガシャン。—ガシャン。
壊れた校舎の欠片が宙に舞い、雪と混じって光のシャワーのように降り注ぐ。
何だか嘘みたいな光景に私の思考は鈍くなっていく。
——ガシャン。
椿の花が壊れた。
——ガシャン。
クリスマスローズの草が壊れた。
——ガシャン。
私の左足が壊れた。
——ガシャン。
雪の積もった地面が壊れた。
——ガシャン。
暗灰色の雲が広がる空が壊れた。
——ガシャン。
世界が、壊れていく。絵画のような世界が、まるで作り物のような世界が……。
“○○新聞 二〇一一年二月一日 朝刊
○○スキー場遭難事故により遭難した、東京都○○市在住の○○さん十三歳の捜索が、本日打ち切られることが県警より発表された。およそ一週間の捜索で都合三度ヘリコプターを投入し捜索するも発見されず、○○さんは未だ行方不明のままである。”
静寂に包まれた図書館の最下層。その最奥の閲覧席は背の高い書架に囲まれ、照明の明かりもあまり届かない。古い本特有の微かに甘い匂いが漂う中、ふと一つの影が紙面から顔を上げた。
彼女が立ち上がると、机に広がっていた新聞がばらばらと床に落ちた。彼女は先ほどまで読んでいたある期間一週間分のバックナンバーを一瞥し、妖しい笑みを浮かべる。それから彼女は机に積まれた書物を一つ手に取り、付箋が貼られた頁を捲った。
民法総則。
“民法三十条一項。不在者の生死が七年間明らかでないときは、家庭裁判所は、利害関係人の請求により、失踪を宣告することができる。”
「あなたには、どれだけのことが考えられるか……」
彼女はそう呟いて図書館の最下層を後にした。
風が凪いでいる。雪も止んでいた。
気が付くと私は三方を校舎に囲われたベンチが並ぶ中庭のような一角に立っていた。ベンチも校舎もそこにある。先ほどまでのことが嘘のように清閑とした世界がそこにはあり、私は独りその世界に立っている。
私は空を見上げた。しかしそこあったのは暗灰色の雨雲ではなく、真っ暗な虚空だった。その虚空からキラキラとした何かの欠片が降り注いでいる。私はその欠片を掴もうと右手を伸ばしたけれど、私の右手は虚しく空を切った。
なんだか堪らなくなって虚空を睨みつけると、その手前の校舎の屋上に誰か立っているのが見えた。
あれは、安槻さん……。
私と目が合うと彼女は妖しく笑った。その顔が何処か似ていると思った。
誰に?
ああ、そうだ。あの絵画の天使だ。
その時、今日目が覚めてからずっとズレていた何かが元の位置にはまる音がした。
だからだろうか、先ほどまで見えていなかったあれが今の私には見える。
それは屋上に立つ彼女のさらに向こう側。虚空の中に浮かぶ球体。太陽じゃない。月でもない。あれは眼だ。世界の外側から私を見つめる眼だ。その眼は何故か、泣いているように見えた。
命日 安槻由宇 @yu_azuki
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