[警告] 縦穴の底から聞こえる音

@tamacco

第1話:黒淵の穴(前編)

2025年10月12日。静岡県西部に位置する黒淵市に着いたのは、午後三時を少し回った頃だった。

雨が降っていた。小雨というより、じとじとと肌に染み込むような湿った雨。空気は重く、鉛色の雲が低く垂れ込めていた。駅前は閑散としていて、コンビニと郵便局以外はほとんどシャッターが下りていた。地方都市の衰退を象徴するような風景だった。


私は佐伯玲奈。28歳。フリーのドキュメンタリー作家。主にSNSやYouTubeで再生される、社会の闇を掘る系の短編映像を制作している。今まではいじめ事件や工場事故の追跡などを取材してきたが、今回は違う。私にとって、ずっと避けてきたテーマ——「失踪」だ。


失踪したのは、私の姉、佐伯彩香。

2022年7月28日。黒淵市の山中に出現したという「縦穴」を調査中に連絡が途絶えた。警察は十日間捜索したが、遺留品すら見つからず、事件性なしとして捜査を打ち切った。公式には「行方不明者」として今も登録されている。


だが、私は信じていた。彩香は逃げたんじゃない。彼女は何かを見た――あるいは、何かに呼ばれた。


姉が残した最後のSNS投稿は、「明日、黒淵の穴へ行く。何かが聞こえる気がする」。

その三日後、彼女のスマホは黒淵市郊外の登山道脇で発見された。電源は切られており、SDカードだけが抜き取られていた。警察は「自発的に消えた可能性が高い」としたが、そんなはずはない。彩香は、私のことを絶対に置き去りにしない人だった。


今回、私はそのSDカードに記録されていた映像を探しに来た。そして、姉が何を聞いていたのかを知るため。


駅前の喫茶店で地元新聞のバックナンバーを読ませてもらえるよう頼んだ。店員は初老の女性で、私の名前を告げると、少し眉をひそめた。


「佐伯さん……彩香さんの妹さん?」


「はい。姉のことを調べに来ました」


「ああ……あの子ね。気の毒に」彼女はため息をつき、奥から椅子を出してきた。「座って。コーヒー、サービスよ」


私は礼を言い、向かいの席に座った。店内には古いラジオが鳴っていて、天気予報が流れていた。雨は今夜も降り続くという。


「彩香さんは、ここで何をしていたんですか?」


「縦穴の取材よ。ドキュメンタリーを作るって言ってたわ。市役所に来たこともあったみたい。でも、あそこはあかん。近づいちゃいけない場所なの」


「あかん、とは?」


彼女は首を振った。「昔からそう言われてるの。山の奥に“穴”がある。それは深くて、底が見えなくて、中に声をかけると……返事が返ってくるんだって」


「返事?」


「うん。でもね、返事を返しちゃいけないの。返すと、中に引っ張り込まれる。そうやって、何人も消えたのよ」


私はメモを取った。都市伝説めいた話ではあったが、彩香がSNSで「何かが聞こえる気がする」と書いたことと符合する。


「その穴、今でもあるんですか?」


「あるわよ。でも、立ち入り禁止になってる。県がロープ張って、看板まで立てた。それでも、時々、若者が夜中に忍び込んで、声をかけてるのよ。馬鹿だわ」


彼女はコーヒーを淹れ直しながら、小さな箱を差し出した。


「これ、彩香さんが置いていったもの。返しようにも連絡先がわからなくて……ずっと預かってたの」


中に入っていたのは、USBメモリ。黒い、ごく普通のものだったが、ラベルに「KUROFUCHI_01」と手書きされていた。彩香の字だった。


「ありがとうございます」


「……気をつけてね。あの子も、最初はただの取材だと思ってたみたいよ。でも、だんだん変わっていった。目が落ち着かなくなって、何度も『聞こえる』って言ってた」


私はUSBを握りしめた。心臓が早鐘を打っていた。これが手がかりになるかもしれない。


翌日、市役所を訪ねた。私は取材者としての身分証を提示し、2022年夏に発生した「地盤陥没による縦穴出現」に関する記録の閲覧を申請した。


担当してくれたのは土木課の男性職員だった。彼はためらう素振りを見せたが、最終的に資料のコピーを許可してくれた。


資料によると、縦穴が発見されたのは2022年7月15日。地元の猟師が山中を巡回中に、直径約3メートル、深さは不明の穴を発見したという。地質調査班が調査したが、地中レーダーも音波探査も、深さ30メートル以降で信号が消失。内部に空洞か水脈が存在する可能性はあるが、確証は得られなかった。


興味深いのは、7月20日以降の現場周辺の気象データだ。気温が周囲より平均3度低く、湿度が常に90%以上。さらに、複数の住民が「夜中に声のような音がする」と通報していた記録があった。


「これ、警察にも提出されたんですか?」


「もちろんです。でも、警察は“集団ヒステリー”の可能性が高いって……まあ、失踪事件があってから、誰も近寄らなくなったけどね」


「彩香さん……佐伯彩香さんがここに来たとき、何か言ってませんでしたか?」


「ええと……確か、“底に何かがある”って。それから、“返事をしちゃいけないって、誰が決めたんですか?”って、妙なことを言ってたな」


帰り際、彼は小声でこう付け加えた。


「でもな、俺も一度、その穴の近くを通ったことがあるんだ。そのとき……名前を呼ばれた気がしたよ。自分の名前が、はっきりと」


私は黙って頭を下げた。


その日の夜、宿泊した民宿でUSBメモリをパソコンに差し込んだ。

フォルダは一つだけ。「KUROFUCHI_DRAFT」と名付けられていた。


中には、11本の映像ファイルと、テキストファイルが一つ。テキストファイルを開くと、こう書かれていた。


【7月25日。黒淵市にて】


今日、地元の古老から話を聞いた。

「あの穴は、昔、神様が人を裁くために開けたものだ。嘘をついた者、罪を隠した者、心に闇を抱えた者が近づくと、中に声が聞こえる。その声は、自分自身の声に似ている。返事をすると、中に引きずり込まれる。魂だけが残る」


馬鹿げてる。でも……実際に、声が聞こえる。


今日の午後、穴の前に立ってみた。1メートル先までしか近づけなかった。ロープが張ってあるし、足元がふらつく。でも、確かに何かが聞こえた。

「……れいな?」


私の名前じゃない。彩香の声ではない。でも、どこかで聞いたことのある声。


明日、もう一度行く。

SDカードに全て録画する。もし私が消えても、誰かがこれを見つけてくれたら。


ファイル名「KUROFUCHI_0726.mp4」をダブルクリックした。


映像は昼下がりの森。木々の隙間から差し込む光が、不気味なほど鮮明だった。彩香の背中が映っている。彼女は黒いジャケットを着て、リュックを背負っていた。カメラはハンディカムで、自撮りモード。


「今日で3日目。穴の周囲は静かすぎる。鳥の声も虫の音もない。まるで、時間が止まってるみたい」


彼女がゆっくりと歩き出す。カメラが揺れる。やがて、視界の奥に、赤いロープと看板が見えた。


【立入禁止 地盤陥没危険区域】


「市役所の人は、絶対に中を覗くなって言ってた。でも、私は知りたい。何がそこにあるのかを」


彩香がロープをくぐる。カメラが地面に向けられ、再び顔が映る。彼女の表情はこれまで見たことのないほど真剣だった。


「今から、声をかける。昔の言い伝えによると、“何者か”が返事をするらしい。もし返事が来たら……」


彼女は深呼吸して、穴の縁に立った。画面の奥に、暗い円形の開口が見える。光が吸い込まれるように、何も映らない。


「こんにちは?」


静寂。


「誰か、いますか?」


再び静寂。だが、その瞬間、カメラのマイクが「ザー」とノイズを立てた。


「……聞こえた?」


彩香が耳を澄ませる。画面が揺れる。彼女の目が見開かれた。


「今……返事があった。男の声で、“うん”って」


私は映像を一時停止した。心臓がどくどくと鳴っていた。

音声を再生し直す。確かに、かすかに「うん」という声が混ざっていた。だが、それは彩香の声の残響か、あるいは風の音にも聞こえた。


しかし、彩香の反応は本物だった。彼女は恐怖ではなく、興奮に近い表情を見せていた。


「これは……本物だ。何かがいる。絶対に」


映像はそこで終わっていた。


翌朝、私はレンタカーを借り、山へ向かった。GPSには「黒淵山縦穴現場」というピンを立てていたが、途中から電波が不安定になり、ナビが機能しなくなった。代わりに、彩香の日記に書かれていた地図を頼りに進んだ。


一時間ほど林道を走り、ようやく赤いロープが見えてきた。

看板は朽ちかけていたが、文字はまだ読めた。


私は車を止め、カメラを手にした。彩香と同じように、ドキュメンタリーを撮るためだ。

ロープをくぐり、穴の前に立つ。


直径は3メートルほど。縁は岩で覆われていて、崩れそうな気配はない。中を覗き込むと、真っ暗。懐中電灯を照らしても、光が吸い込まれるだけで、底は見えない。


風もない。なのに、木の葉が微かに震えている。

耳を澄ませると――


「……れいな?」


はっとして後ずさる。

その声は、確かに私の名前を呼んでいた。でも、声の主は誰? 彩香か? それとも――


私は咄嗟にカメラを回した。周囲には誰もいない。だが、映像には、風景の奥に、かすかな影が映っていたような気がした。


その日、私は宿に戻ると、すぐに映像を確認した。

しかし、影も声も、映像には残っていなかった。


ただ一つだけ、音声データにノイズが混じっていた。

それを拡大再生すると、かすかにこう聞こえた。


「……帰ってこい」


誰の声かはわからなかった。

でも、その言葉を聞いた瞬間、私は泣いていた。


姉がここにいた。

そして、今もどこかにいる。

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