第1話 夕暮れのふたり
キャンパスの中庭は、午後の光が傾き始めると、ゆっくり色を変える。
芝の縁にはいくつもの影が重なり、風が通ると淡いざわめきが広がった。
その中心で、佐伯澪がスマホを掲げて笑っていた。
「ねえ湊、ここ。先生のスライド、なんで一ページだけフォント違うんだろ」
透けるような指先が画面を指す。
湊は隣で覗き込んだ瞬間、わずかに息を吸った。
「……ほんとだ。なんで明朝体?」
「だよね? 絶対ミスだよね」
澪の笑い声は、残る暑さをやわらかく押し流していく。
湊は少し遅れて笑う。
胸の奥の温度が、じんわりと広がっていく。
理由は考えない。
考えると、どこかでその温度がこぼれ落ちてしまいそうで。
澪はスマホをポケットにしまい、ベンチに腰を下ろした。
風が吹き抜け、黒髪が肩先で揺れる。
その揺れ方が、湊には昔からどうしようもなく心地よかった。
「今日のゼミ、早く終わったね」
「教授がテンション上がってたし」
「うん、なんか楽しそうだったよね」
澪が空を見上げる。
青い空の端に、薄い夕暮れの気配が差していた。
雲がゆっくり流れ、その影が澪の頬に落ちる。
湊はその横顔を見た。
視線が触れた瞬間、胸の奥が静かにざわついた。
慌てて地面へ視線を戻す。
澪の表情一つで湊の呼吸が変わる。
そんな自分に気づきながらも、気づかないふりをする習慣がついていた。
しばらくして澪が立ち上がり、カバンを肩にかけ直す。
「ね、今日さ……帰り、一緒に行かない?」
軽い誘い方なのに、目だけが湊の反応をそっと確かめていた。
少しだけ怯えたような光。
「……うん。帰るとこだったし」
湊が答えた途端、澪の顔にふっと笑みが広がる。
空気の温度が変わったように感じる。
ふたりは並んで歩き出した。
歩幅は違うはずなのに、自然と揃う。
キャンパスを抜ける通学路は、昼と夕方の境目で少し暗がりを帯びていた。
澪が空を見上げながら言う。
「最近、朝ちょっと冷えてきたよね」
「だな。上着いるか迷う」
「うん。湊、寒がりだからね」
「そんな?」
「見てれば分かるよ」
振り向かなくても、澪は笑っているのが分かる。
湊はその背中を見つめ、歩調を少し合わせた。
隣にいるだけで落ち着くのに、緊張も少し混ざる。
その混ざり方が不思議と心地よかった。
「湊の家って、あっちだよね?」
「うん。澪とは途中まで一緒」
「そっか。じゃあよかった」
澪の目は、友達を見るより少し柔らかかった。
作った気配がなく、自然体のあたたかさがある。
だからこそ湊は、余計に言葉を慎重に選んでしまう。
通学路の影が夕暮れの方へ伸びる。
街路樹が風でざわめき、その音が胸の奥をほんの少しだけざわつかせた。
それが何の前触れなのか、知るわけもない。
「湊って、歩くときちょっと猫背だよね」
「え、そう?」
「うん。でもそれが湊っぽいなって思う」
湊は返事に迷い、結局言葉を飲んだ。
澪のさりげない一言に、胸の内側の温度がゆっくり上がっていく。
「悪いって意味じゃないよ?」
「分かってる」
「うん。その感じ、落ち着くから」
澪が小声で言う。
湊の歩幅が一瞬だけ乱れた。
夕暮れの光が通学路を金色に染めていく。
澪の髪が風に揺れ、その影が湊の頬をかすめる。
季節の変わり目の匂いがした。
「今日、コンビニ寄ってかない?」
「何かあるの?」
「新作アイス。湊、好きそうなやつ」
「抹茶?」
「そう、それ。湊いつも抹茶選ぶじゃん」
「……見てるな」
「見てるよ」
澪が振り向き、夕陽を映した瞳で笑った。
——その瞬間だった。
道路の向こうから、金属の軋む音が響いた。
よく知った車の音とは違う、嫌な振動を含んだ音。
湊は反射でそちらを向いた。
視界の端で、何かが跳ねる。
タイヤだ。
外れたタイヤが、狂った回転でこちらへ向かってくる。
「澪──!」
湊の叫びより早く、澪が振り返る。
驚いた瞳がこちらを捉えた。
世界の色が薄れる。
空気が裂ける音。
飛んできた黒い塊が澪の肩を打ち、身体が弾かれる。
足元が宙に浮くようにずれ、澪は道路へ倒れ込む。
息の途切れる音がした。
湊は駆け寄り、膝をつく。
澪の胸は上下していない。
すぐそばで笑っていた顔が、湊の手の中で力を失っていく。
指先が冷たい。
胸が動かない。
返事がない。
湊の喉が締めつけられた。
「……いやだ。澪……」
押し出すような小さな声。
涙が先に落ちた。
世界の音が濁っていく。
夕暮れが急速に暗く沈み、視界が狭まる。
湊は震える手でスマホを掴む。
汗と涙で画面が滲む。
頭は真っ白なのに、指だけが勝手に動く。
#rewind
——送信。
世界が反転した。
耳鳴りが爆ぜ、
胃の奥が裏返り、
風景が巻かれるように後方へ飛んでいく。
光がひしゃげ、音が千切れる。
暗転。
息を吸ったとき、風の匂いが違った。
夕暮れはまだ始まっていない。
澪が前を歩いていた。
「湊、今日さ──帰り一緒に……」
声が戻っている。
澪は生きている。
しかし湊の左腕に激痛が走った。
袖をまくると、深い紫色の衝突痕が刻まれていた。
澪が本来受けたはずの傷。
触れただけで焼けるように痛い。
スマホが震えた。
《mirror_log》
未読1件。
「初回は上手くできたね。
次はもっと急がないと死ぬよ」
冷たい文面。
心臓が一拍、強く脈打つ。
風景は同じなのに、空気が違う。
澪は元気に何かを話している。
その声の裏側で、微かな“ノイズ”がざわめいていた。
世界は戻っている。
でも、自分だけが戻っていない。
湊は息を整えた。
——澪を守らなければ。
その想いが、静かに輪郭を持ち始めていた。
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