第23話 乗り物
私の泳ぐ視線は、会場の最奥――一段高くなっているバルコニー席に留まった。
そこには、一人の男がいた。『アインセル公爵』。リチャードが持っていた肖像画で見た通りの、銀髪をオールバックにした初老の男だ。仕立ての良い燕尾服に身を包み、片手にワイングラスを持ちながら、眼下の貴族たちを冷ややかな目で見下ろしている。
その胸元には、微かに青く発光するカードキーらしきものが、鎖で繋がれて収まっているのが見えた。
(……ターゲット確認。あそこか)
だが、遠い。バルコニーへの階段には、屈強な衛兵が二人立っている。さらに公爵の周りには、媚びを売ろうとする有力貴族たちが分厚い肉の壁を作っていた。ただ歩いて近づくだけでは、あの壁に阻まれて門前払いだろう。
(どうする? 強行突破はマナー違反だ。あくまで『自然』に、あそこまでたどり着かなければ……)
私が扇子で口元を隠し、思案していたその時だった。
「――おや。見慣れない、しかしとびきり美しい花が咲いていると思ったら」
甘ったるい、砂糖を煮詰めて腐らせたような声が降ってきた。視界の端に、やたらとキラキラした金髪の男が割り込んでくる。
「初めまして、麗しの令嬢。僕はディアース。この第3区画を管理する子爵家の……『長男』だ」
男――ディアースは、キザな仕草で髪をかき上げ、私の前に立った。香水の匂いがきつい。鼻の利く今の私には、もはや毒ガス攻撃に近い。
なんだこいつ長男と激しくに主張しよって。と私は内心で舌打ちをする。
どこにでもいるのだ。新入社員が入ってくるとすぐに唾をつけようとする、仕事のできない先輩社員みたいな手合いが。
「……あら、ごきげんよう」
私は120点(イザベル採点)の愛想笑いを浮かべる。
「この僕の目は、節穴じゃない。君のような宝石が、壁の花になっているなんて世界の損失だ」
男は、私の反応などお構いなしに、ヌッと手を差し出してきた。なんだかべの花って。言っている意味が分からない。
「どうだい? 美しい花よ、僕と一曲。この会場の誰よりも、君を輝かせてみせるよ」
私の後ろで、イザベルから殺気が漏れたのを察知した。おそらく彼女の袖口には、すでにナイフかフォークが握られているに違いない。
私は扇子で軽くイザベルを制し、ディアースを見据えた。
断るのは簡単だ。扇子で一撃食らわせて「失せなさい」と言えばいい。
だが、それではただの『高慢な女』で終わる。公爵の目には留まらない。
私は、ディアースの背後――その延長線上にいる、アインセル公爵の位置を確認した。
(……使えるな、この馬鹿)
この混雑したダンスフロアを突っ切って、公爵の目の前まで移動するには歩くよりも『踊る』方が自然だ。
ちょうどいい。馬でも鹿でも、跨ってやろうじゃあないか。『乗り物』が向こうからやってきたと思えばいい。
「……ええ、喜んで」
私は扇子をイザベルに預け、ディアースの手の上に自分の手を重ねた。
「おお! 感謝するよ、子猫ちゃん!」
ディアースが勝ち誇った顔で私をフロアへと引く。
ワルツの調べが、優雅に流れ始める。
(さあ、行くぞ。私のタクシー代わり)
曲が始まった瞬間、ディアースがリードしようと一歩踏み出した。
――甘い。遅い。遅すぎるぞ馬鹿め。
「あら、ディアース様。リズムが遅れていてよ?」
「はえ?」
私は彼のリードを無視し、逆に彼の手を強く握りしめた。
ヴァンパイアの怪力が、男の手を万力のように固定する。
「ひっ!?」
「さあ、踊りましょう。情熱的に!」
私は強引にステップを踏んだ。
リードするのは私だ。私はディアースの身体を、まるで軽い丸太か何かのように振り回しながら、ダンスフロアの中央へと躍り出た。いいな、馬鹿と鋏は使いようというが、まさにその通りだ。
「ちょ、まっ、君!? 力がつよ……うわぁっ!?」
周囲のカップルが驚いて道を開ける。私の特訓の成果である完璧なステップと、常人離れした速度。端から見れば『情熱的に踊る二人』に見えるだろうが、実態は『私が馬鹿男を引きずり回して高速移動している』だけだ。
「あ、足! 足が絡まる! 待っ……!」
「お黙りなさい。ステップに集中して!」
私は笑顔のままドスを利かせ、さらに回転速度を上げる。
遠心力でディアースの顔色が青ざめていく。
目標は、あのバルコニーの真下。
私は他の踊り子たちの隙間を縫うように、ドリフト走行さながらのステップで会場を縦断していく。ディアースはもはや、自分の足で立っているのかどうかも怪しい。私の腕力で宙に浮いている時間の方が長いんじゃあないか?実に滑稽だ。
(あと少し……!)
バルコニーが近づく。
公爵が、騒ぎに気付いてグラスを止め、こちらを見下ろしているのが見えた。
今、ここだ。
「――フィニッシュよ」
私はバルコニーの真下で、最後の大きなターンを決めた。そして、遠心力そのままに、ディアースの手をパッと離した。
「あ~~~れ~~~ッ!?」
哀れな子爵だったはずの長男は、独楽のように回転しながら制御不能になり、そのまま貴族たちの人垣の中へと突っ込んでいった。給仕のトレイやグラスをひっくり返し盛大な音が響いた。
私は、ピタリと静止した。
ドレスの裾がふわりと舞い、静かに収まる。
息ひとつ乱れていない。汗ひとつかいていない。
私は、馬鹿が突っ込んだ方向を一瞥し、呆れたように溜息をついた。
「あらあら。足腰が随分と貧弱でいらっしゃるのね。……興醒めだわ」
会場が静まり返る。
誰しもが、この『事故』と、それを切り捨てた私の冷酷な美しさに目を奪われていた。
そして。
頭上から、パチ、パチ、パチ……と乾いた拍手の音が降ってきた。
「……見事だ」
私はゆっくりと顔を上げる。バルコニーの上。アインセル公爵が、面白そうに目を細めて私を見下ろしていた。
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