第9話 調律者と演算者 揺らぐ二つの視線

 王都オルディア――法王庁深部の白大聖堂。

 静寂の中で、巨大な聖鈴がひとつ鳴った。

 空気が波紋のように震え、聖堂の内部の壁が微かに音を返す。


「――セレス・アーヴィン。前へ。」


 その名が響いた瞬間、

 周囲の空気の密度が変わった。


 銀青の髪が流れ、長身の青年が音もなく歩み出る。

 エルフの血を引く者――

 感情に共鳴して虹彩が色を変える異能の種族だ。


 今の彼の瞳は“警告”を示す群青色。

 笛のように澄んだ低い声が聖堂に反響した。


「巡礼共鳴師(Pilgrim Resonator)、セレス・アーヴィン。

 異端監察任務を拝命いたします。」


 法王庁の監察官が、重い声で告げる。


「ヴァンロックに“土偶の奇跡”なる異端が生じた。

 呪詛を祓い、商を導き、貧民を救ったという。

 神の領域を侵犯する――理性の魔だ。」


「……理性による感情干渉、ですか。」


「そうだ。

 神が与えた感情を、外部から操作することは“魂への冒涜”だ。」


 セレスの虹彩が深紅に染まる。

 エルフの怒りは、音となって瞳にゆらぎを生む。


「――許されません。」


「必要とあらば排除せよ。

 土偶と、その使い手タケルを。」


「命のままに。」


 その声は、美しいのに冷たかった。

 任務、それがすべて――そういう響き。


 こうして、セレスはヴァンロックへ向かう。


     ◇


 蒸気が漂うヴァンロックの市場。

 屋台がひしめき、匂いと喧騒が渦巻く。

 その入口で、セレスは足を止めた。


(……なんだ、この揺らぎは。)


 感情が渦巻き、祈りが混じり、狂騒が蠢く。

 人々は土偶の落書きの前で手を合わせ、

 「ドグー様」「お告げ」「奇跡」と語っている。


 セレスの眉がわずかに動いた。


「盲信……。

 これは危険な“調律の乱れ”だ。」


 そのとき――


 少し離れた建物の陰から、別の視線が市場を観察していた。

 深い青のローブ、金糸の髪。

 王立魔術院首席、リリアン。


(……魔力反応、ほとんど無し。

 詠唱もなく、あれほどの成果……?

 いったいどういう理論構造なの……?)


 リリアンの瞳は、好奇心と興奮で微かに揺れている。


(でも……あの土偶から出る“ノイズ”……魔術では説明できない。)


 二人の天才はまだ互いを知らない。

 だが同じ一点――タケルとドグーを見つめていた。


     ◇


 そして噂の屋台前。


「で、棚は左に移して動線を広げて――」

「最適解は、色分けによる視覚誘導です」とドグー。

「いやそれ混乱するって!」


 セレスは屋台の前に立つと、静かに言った。


「あなたが……土偶の使い手、タケルですね。」


「あ、はい。なんか……めっちゃ綺麗で偉そうなエルフ来た……?」


 セレスの瞳が鋭い赤に染まる。


「あなたは神の領分を侵している。

 感情とは、神の残響。

 それに理性で干渉する者は――悪魔より危険だ。」


「最初から全力で殴ってくるタイプ!?」


「タケル、嫌われ率が上がっています」とドグー。

「お前はいま黙って!」


 そこへ、静かに歩み寄る影があった。


「――ちょっといいかしら、セレス。」


 リリアン。

 蒼いローブの裾が揺れ、魔力の光がさざ波のように広がる。


「王立魔術院首席、リリアン・アストレア。

 あなたの監察任務には興味あるけれど……

 その断定は早すぎじゃない?」


「リリアン……あなたも来ていたのですか。」


 法王庁と魔術院――

 本来なら交わることのない二つが、タケルの前で対峙する。


「私は調査に来ただけよ。

 あの土偶、魔術式の反応が“ゼロ”なのに、

 結果だけが異常に整ってる。

 これは……研究対象として見過ごせないわ。」


「魔術とは異なる“調律の乱れ”です。」

「魔術よりも“計算式”に近い何かよ。」


 二人の視線がぶつかる。

 緊張が走り、タケルは思わず後ずさった。


「なんで俺の屋台の前でエルフの男とドワーフの女がケンカしてんだ!?」


     ◇


 夕暮れ。


 セレスはタケルを密かに尾行する。

 タケルが向かったのは――灰街の孤児院。


「タケルさん……今日も寄付を……?」

「うん、こないだ助けた商人から預かったんだ。」


 ドグーが小声で言う。


「タケル。支援効率は最低。

 利益率の高い店舗支援に回すべきです。」


「分かってる。でもさ……

 ここ放っておくと冬越せない子が出る。

 ……やるしかないだろ。」


 その言葉に、セレスの虹彩が震えた。

 深紅から――金色へ。

 “揺さぶられた”色だ。


(……なぜ……?

 理性で動いているのではない。

 この青年は……痛む気持ちで選んでいる……?)


 そこにリリアンも歩み寄ってきた。


「あなた、本当に魔力操作してないのよね?

 ただ“話して、観て、考えて”人を救ってる……」


「いやそんな立派なもんじゃ……」


「それが一番やっかいなのよ。

 魔術より、人の心のほうが強い時がある。」


 セレスがぽつりと呟く。


「……効率より、なぜ弱きを選ぶのです?」


「ん? そっちのほうが、誰も泣かないから?」


 タケルが笑うと、

 セレスもリリアンも言葉を失った。


 異端でも悪魔でもない――

 もっと複雑で、もっと厄介で、もっと“人間らしい”存在。


 ドグーが淡々と言う。


「タケルの行動原理は“Δt=ためらい”です。

 最適解より、感情的解に誘導されます。」


「お前はそれ言うなって!」


 リリアンは目を細めた。


(……この二人……

 世界のどの理論にも属してない。)


 セレスは胸を押さえた。


(理性に……感情が宿っている……?

 これは……危険だ。)


 だがその危険は、敵への警戒ではない。

 自分自身の揺らぎへの恐れだった。


     ◇


 夜、宿舎の窓辺で。

 セレスは月を見上げながら呟いた。


「……危険なのは、土偶か。

 それとも……揺らいでいる私のほうか。」


 そして、静かに言葉を落とす。


「……彼らは“ただの異端”ではない。」


 その独白が――

 彼の調律を狂わせる、最初の音だった。

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