鯨の背中

カブ

第1話

プロローグ


 真美は、鯨の背中に乗って、電波の海に潜り込んだ。

 カーテンを閉め切った薄暗い部屋で、ベッドの上に膝を丸めて、ひたすら小型のを操作する。

 液晶の青白い光が、彼女の目元を照らしていた。


 真美は受信機を鯨と呼んでいる。ひとかけらの光もないこの海の中を鯨は泳いでくれる。

 キャッチする電波の7割は、鎌風のようなノイズで、耳はつんざかれる。そんな痛みも、鯨に乗っているとイメージするだけで和らぐような気がするのだった。

 どうしてこの電波の世界に光が存在しないのか、わからなかった。

 はじめから海の底に沈んでいるから光が届いていないのか、そもそもこの世界には光が存在していないのか、見当もつかない。

この世界で光を見る方法はただひとつ、人間の声がする電波をキャッチすることだ。「search」のボタンを長押しすると、受信機の液晶の数字が動き出して、キャッチできる電波を探してくれる。すると暗闇にぽっと光が照らされて、その人間の生活を目の当たりにすることができる。

 それは、例えばタクシーやバスの無線、お店のインカムの声など、自分とは関係のない人間のやりとりだったが、宝物を見つけたように心が動いた。

 あくまでも受信機から聞こえる声から想像する姿ではあるが、ほっと息をつくことができた。受信機の向こう側にいる人間を思い浮かべては、その姿をずっと眺める。

 たいていは耳障りなノイズ音に鼓膜を支配されることになるが、それでもとりつかれた様に受信機の操作をやめなかった。

 拾った音がノイズだったら、また「search」を押す。周波数が動く。ノイズをキャッチする、また「search」を押す。周波数がせわしなく動く。ノイズを拾う。


 電波を通して出会った声を宝物だと思っている。

自分とは関係のない人間関係。自分とは関係のない内容。

 それを、まるで幽霊のように聞いている。

 しばらく、それらの声に耳を澄ませると、次の宝物を探しに、また「search」を押す。

 電波という大海には、たくさんの人間の声という宝物が落ちている。


 その電波という大海の世界に、父親がいるような気がした。父親の声を聞きたくて、ノイズに耳をつんざかれながらも、受信機を操作する手を止めることができなかった。


だけど、本当にこの世界にいるかどうか、確信を持つことさえもできず、ただ闇雲に一つ一つの電波を訪ねた。


――お願いだから、声だけでも聴かせて……。


 「search」を押す。数字が動き出す。


 1、

 

 テーブルに放置してしまった、お昼に食べたお弁当箱を台所で洗う。

 蛇口から出る水が手を切るように冷たかった。罪悪感を洗い流すように、温水にすることもなく、冷たい水を手に当て続けた。

 空のお弁当箱からあふれ出る水を眺めながら、心の中に問いかける。

 母は、どんな気持ちでこのお弁当を作ってくれただろう。

仕事から家に帰ってきてからのわずかな時間、料理をして、翌日のご飯を三食分、作ってくれる。料理を通して、わたしを励まそうとしてくれているようにも感じた。そんな母を騙しているような気がして、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。朝早くから働きに出て、夜遅くに帰ってくる疲れた顔の母が、ふと頭に浮かんだ。

「……ごめんなさい」

 と思わず声が漏れた。冷たい水が、冷たいシンクに流れていく。どうして、上手にできないんだろう。どうして、みんなと同じように生きられないんだろう。

「お母さん、ごめんなさい……」

 呟くと、今度は涙があふれてきた。抑えようとしたけれど抑えきれず、次々と涙がこぼれてきた。腕で拭う。まだ涙が出る。お弁当を洗う水に、涙も溶けていった。

 


 わたしの通う高校は通信制の学校だ。そこでは学校に通う頻度を、週五日、週三日、週一日、月一日のいずれかから選ぶことができた。

 入学当初は週三日だった。それが週一日になり、結局、月一日まで減らすことにした。

 そして、今日が、月一日を選んでからの最初の登校日だった。


 月一日を選んだ日は、一か月先だから、まだ学校に行けるような気がしていた。

 だけど近づくにつれ、不安の種はだんだんと大きくなり、教室の風景を思い浮かべるだけで、冷たい汗をかくようになっていた。

別に、誰かにひどい言葉で傷つけられたわけでもないのに、頭の中にある教室にはどんよりと影がさしている。

じめじめとした室内にいるのは、複数の不明確な真っ黒な人間で、その思考がわからないから、わたしはつい、その真っ暗な体にわたしを否定する言葉が詰め込まれているのではないかと、本気で考えてしまう。

それも、中学時代にでみんなに傷つけられた記憶があるせいだ……。教室というと、どうしてもそれを思い出してしまって、冷や汗が出て、身体が震えてしまう。


 昨夜。明かりもつけずに、部屋のベッドの上で膝を丸めて座っていると、ノックの音がした。

 返事をすると、母が顔を出して、

「真美、まだ起きてたの? 明日は学校に行けそう?」

 とわたしに尋ねてきた。

「……うん、行くよ。明日は、大丈夫」

「そう。お弁当作ったから、明日持っていってね。おやすみなさい」

 そっと閉じられたドアの音を聞く。しばらく、暗闇の奥にある閉められたドアを眺めていた。

(行きたくない……)

 本当は、母に尋ねられたとき、心臓をぎゅっとつかまれたように痛かった。行きたくない、って言えなかった。これ以上、忙しい母に心配をかけたくなかった。

 どうして学校に行くことがいいことなんだろう。それが普通と思われるんだろう。普通でないといけないのかな。生きていることが重苦しくなる。


 朝になって、身体が動かなかった。寝不足の頭。鉛が注ぎ込まれたかのような身体。

 視線だけを動かして、壁掛け時計をみる。7時半。準備までまだ時間がある。もう少し目をつぶっていよう。大丈夫。眠気はあるのに、眠れやしないから。それに、母はもう仕事に出かけてしまった。

 8時30分から、準備をしよう。まだ一時間も時間がある。

 枕もとで充電をしていた携帯電話で、時間をつぶす。

 ――8時半。身体は動くことを拒否している。もう動かないと間に合わないのに。

 でもいい。遅れてもいい。あと30分、いや10分たったら動こう。学校に行けばいい。間に合わなくてもいい。

 だけど、それから1時間が経過しても、起き上がることができなかった。

(今日は、もう行くのはやめよう……。次は絶対に行こう)

 そう思えてしまったことに焦燥感を覚えた直後、罪悪感が襲ってきた。それでも、学校に行かないという選択肢しか見当たらなかった。学校には行かないで、今日は一日、部屋で過ごす。そういえば、ほとんど眠れなかったから、なんだか熱っぽいし、そもそも学校に行けるような体調ではないのだ。

――この前、いけなかった時も、そんなことを思ったな……。

 心のどこかから生まれてくる自分の声に責められながら、重たい体をベッドに預ける。


 学校に行かない日中、わたしは部屋にこもって、という鯨に乗って電波の海に旅に出る(黒い受信機には父親の文字で「鯨の背中」と修正ペンで白く書かれている)。

 海の底のような暗闇を泳いでいると、街の声に出会うことがある。すると、暗闇にぱっとその空間が現れる。バスやタクシーなどの無線やどこかの職場の無線の声(ゲームセンターとかパチンコ屋とか)、時には、韓国のラジオの音を拾うこともあった(映画で聞いたような言葉が聞こえてきたから、そう思った)。

 街を遮断しているわたしにとって、唯一の街に触れる手段でもある。

 受信機の向こう側にいる人々のことを想像する。

 年齢、背格好、どんな顔か、性格は大人しいか怒りっぽいか、好きな食べ物はなんだろう、休みの日にはなにをしているのか?

 無責任に他人のことを想像することが楽しかった。

 わたしは鯨の背中にしがみつきながら、想像するその空間をずっと眺めている。

 バスやタクシーなら、街を走る想像のバスを鯨と並走する。

 それが、街とわたしとの接点なのだ。


 お弁当箱を洗い終え、また部屋に戻るやいなや、手に取るのは携帯電話ではなく受信機だ。受信機とつながったイヤフォンを耳にさす。カーテンの隙間からオレンジ色の西日が射す。

街の声を拾おうと「search」を押して周波数をいつものように探っていると、受信機がひとつの電波を拾った。

 静かな音だった。

 目をつぶって、耳をそばだてる。限られた音で、想像を働かせる。その正体を知ろうとした。

(初めて拾う電波だ)

 ――足音がする。たぶん、一人。よく聞くと、小さな話し声が聞こえる。

「今日の特集は、大人気のチェーン店。その人気の秘密を探ります」

 本当に小さな声だけれど、聞き取りやすい洗練された声。

(……これは、テレビ?)

 たぶん、ニュースでよくやっている夕方のグルメ特集が流れている。アナウンサーの流暢なレポートが聞こえてくる。

 テレビ、だとしたら、これはどこかの部屋の音なのか。でも、部屋の音がどうして?

 訝しがって、頭を働かせる。すると、おぼろげながらひとつの答えが思い浮かぶ。

「もしかして、盗聴器?」

 いや、そんなはずはない。思いついたばかりの答えを打ち消す。この受信機を手に入れてから、もう半年も「町の声」を傍受し続けているけれど、盗聴器にあたったことなどなかった。

 もちろん、受信機だからその可能性も否定できなくはないけど……。

 もっと集中して聞いてみる。鼓動が早まるのを感じる。今までとしていることは、たいして変わらないはずなのに、急に人のプライベートの空間に紛れ込んでしまったような妙な罪悪感がある。

 真っ暗ななにもない空間に、聞こえてくる音だけでその場所を作り上げてみる。

 聞こえてくるのは、水の流れる音と、カチャカチャと陶器が合わさる音……。

(……テレビの音と食器の洗い物の音が同時に聞こえるとしたら、そんなに広い部屋ではなさそうだな。少なくとも、リビングとキッチンが同じ場所にある)

 テレビの音以外に、話し声は聞こえない。想像できるこの部屋の登場人物は、洗い物をしているこの一人だけだ。

 真っ暗闇の空間に、リビングとキッチンを思い浮かべてみる。6畳ほどのリビングの壁沿いに小さなテレビが置かれ、その前に、勝手にガラス張りの低いテーブルを想像する。勝手に観葉植物も部屋の隅っこに置いてみる。

 そのリビングの隣にキッチンがあって、そこで洗い物をしているのはどんな人物だろう。男だろうか、女だろうか。盗聴されるとしたらどうして? ストーカーとか?

 わたしは鯨の背中にぴったりとくっつきながら、息を殺すようにして、その空間をじっと観察する。

 しばらくして、水の流れる音がやんだかと思うと、テレビの声も消された。

 それから、近づいてくる足音を聞いた。キッチンからこちら(音の発信機)のほうへ近づいてくる音。足音はだんだんと近づいて、もうすぐそばまで来た。私の鼓動はだんだんと早くなった。まるですぐ近くにその人がいるようだった。

 ギシッ、と床のきしむ音がしたかと思うと、

「さん」

 と女の人の声がして、はっと息をのんだ。心臓が飛び上がるほど驚いた。すぐ耳元で話されているかのように、ほんとうに声が近かったからだ。

(すごく優しい声……)

 不思議と、存在しないはずの甘い香りがした。そんな優しい声だった。体をこわばらせながらも、わたしは恍惚として次の言葉を待った。

「ツヅキさん、ツヅキさん、聞こえますか? キリです。今日のお昼は、焼きそばを作りました。今日も、かな。簡単に作れちゃうし、ツヅキさんがおいしいと言ってくれたから、ついつい作ってしまいます。今日は曇りで、雨が降りそうな空模様ですが、洗濯物を外に干してしまいました。雨が降らなきゃいいな。ツヅキさんの洗濯物も、帰ってきてもすぐ着られるように洗ってありますからね。ツヅキさん、どこに行ってしまったんですか? 会いたいです。早く帰ってきてください。また、今日の夜にお知らせします」

 そういうと、その電波はブチっと切れ、あとにはノイズ音だけが残された。

 想像の部屋が消失し、暗闇に残されたわたしは、図らずも興奮していた。小刻みに体が震えるのを止めることができなかった。

 出会った、とわたしは思った。

 「どこに行ってしまったんですか」と言っていた。この人も行方知らずの誰かを待っているのだ。

 大切だと思っているその人にもう一度、出会いたいと思っている。

 その状況が他人事に思えなくて、わたしと同じ境遇の人間に出会ったような気がして、目に涙をためながら、受信機を眺めた。

 そして、いつもは痛みを感じるはずのノイズを心地よく感じながら、その小さな受信機を抱きしめた。

「わたしの、鯨の背中……」

 まるで受信機が脈打つ心臓になったかのように、揺れていた。でもそれは、受信機を握りしめるわたしの手が、わたしの鼓動で揺れているだけだった。


 2、


 やっと手に入れた興奮の熱を奪われたくなくて、もう受信機の「search」をその日は押さなかった。

 また、あの声が聴きたかった。初めて動物に触れた時、触れた手の下に、たしかに息づく肉体があるような、柔らかさと温かさ……。冷たくて真っ暗な海の底で、初めて感じた感触だった。

 今度はいつ聞けるんだろう。

「また、今日の夜にお知らせします」と言っていた。あれは、また夜に同じような報告をするということなのだろうか?

 そもそも、盗聴器に話しかけているとしたら、その理由はなんなのだろう。

 あの声のことで頭がいっぱいになる。受信機にイヤフォンも挿さず、スピーカーの状態で、あの周波数のノイズをずっと流しっ放しにしていた。

 机に向かって、スケッチブックに顔を描く。あの優しい声、いったいどんな人なのだろう。

 HBから3Bまでの鉛筆を揃えて、濃淡を描いていく。年は……わたしよりずっと大人だった、お姉さんで、きっと柔和な顔だ。

 わたしのお父さんは画家だった。売れない画家だったけれど、わたしはお父さんの絵が好きだった。

 緻密な風景画も描くけれど、鯨を描くのが好きで、大きなキャンパスに色とりどりの鯨を描いた。

 それで、わたしも父から絵を習うようになったし、将来は画家になりたかった(そう言うと、お母さんはいつも顔をしかめた)。

 とにかく基礎が大事だとよく教えられた。目の前にあるものをまず正確に描くこと。だからデッサンは子供のころから通算して何百枚も描いた。写実ではない、抽象画のような絵も描いてみたけれど、「真美にはまだ早いよ」と優しく諭された。

 それは突然、止まった。お父さんがいなくなってから、絵を描く意欲など粉々に消えてしまった。褒めてくれる人も、アドバイスをくれる人も、お父さんでなければ嫌だった。

 それなのに、受信機で人々の声を聴いてからは、また鉛筆を手にすることになる。受信機が唯一、お父さんと繋がる手段のような気がして、また褒めてもらえるように絵を描こうと思ったのだ。

 そうしてまた、偶然受信機で出会った謎めいた女性の顔を描く。たしか、「キリです」と言っていた。それが名前なのだろう。きっと目に尖りがない、うりざね顔の女の人だ。

 そんなことをしているうちに時間が溶けるように経過していたみたいだ。玄関の鍵が開く音がした。お母さんが帰ってきた。

 慌てて時計を見ると十九時を回っている。

「ただいま」

 その声とともに、今日、学校に行けなかったことが急に思い出されて委縮する。追い詰められた子供が、大人に怒られるのをただ待つだけのように。

 ノックの音が響く。

「真美、いるの?」

 絞り出すような声で、うん、と返事をする。その声でなにかを悟ったかのような顔をした母親が部屋をのぞく。目が合う。一日、部屋着姿でいたわたしをみて、母親は確信したようだった。

「真美……」

 落胆していることがわかるけれど、それを顔に出さないようにしている。

(お母さんに無理させてる)

 仕事中、娘が学校に行っていることを期待しながら帰ってきた母が、明らかに一日外に出ていない娘を見てどう思っているのだろう。

「真美、ごはん食べようか。お母さん、ごはんの支度するから、その間にお風呂入っちゃいなさい」

「うん」

 と返事をしながら、膝のあたりで握りしめていた手にさらに力が入った。

(……ごめんね)

 言葉には出せなかった。


 お風呂掃除をしてから、湯をためている間、どこにも行きたくなくて、ただたまっていくお湯を眺めていた。生まれては消えていく波紋に意識を向けて、胸につかえた澱みから目をそらそうとしたけれど、苦しさは一向に消えなかった。冬場の浴室の底は冷たくて、立ち上がる湯気だけが少し暖かかった。

 お風呂から出ると、料理が並んでいた。野菜炒めとレンジで温めた冷凍ご飯、インスタントの味噌汁。フルタイムで働いている母が用意できる精一杯。

「さー、冷めないうちに食べちゃおう」

 忙しく料理を並べる母と並行して、お箸をテーブルに並べる。木目調のこげ茶色のテーブルに、向かい合わせに椅子が二脚。二人分の料理を並べたら余裕がなくなるほどの小さな食卓。

「いただきます!」

 お母さんが、無理に明るく勤めているような気がする。わたしも小さめの「いただきます」を口にしてから、料理に手を付ける。

 しばらく沈黙が続いてから、

「今日は学校いけなかったの?」

 と母が訪ねてきた。「今日は」というところが母の優しいところだ。

「……うん、体調悪くて」

 伏し目がちにいうわたしに対して、

「そっか……」

 と短く答えた。

 それから、沈黙が続いて、気まずかった。食事を進めている音だけが流れた後、

「お母さんね、別に、無理に学校に行ってほしいとは思ってない」

 とお母さんが口を開いた。

「でも、このまま真美がずっと部屋に引きこもっちゃうんじゃないかって、それが心配。絵を描くのが好きなら、絵画教室に行ってもいいし、なにか外に出るきっかけを作ってみない?」

「……うん」

 短く返事をしてみたけれど、漠然としていてさっぱりイメージがわかなかった。

 絵を描くのは確かに好きだけれど、お父さん以外の人に教わるなんて……。


 そのとき、雨の音を思い出した。雨の中、喪服の行列に並んでいた男の人の顔がふと浮かんだ。喪服の行列から、わたしをみつけて、わざわざ歩み寄ってくれた人。傘も差さないで、ただ悲しそうに伏し目がちにわたしをみつめては、どんな言葉をかけていいのか戸惑っているようだった。

 震える私の肩に手をかけて、

「今度、真美ちゃんの絵もみせてよ。よかったら今度家に遊びにおいで。真美ちゃんと同じ年齢の女の子がうちにもいるから、友達になってくれないかな」

 といって、一枚の名刺をくれた。

「画廊ハレノヒ」

 お父さんの絵を販売してくれた唯一の画商さん。

 そのとき、わたしがなにを答えたのか、記憶は曖昧だった。ただ、少しずつ濡れていく名刺だけが印象に残っている。


「なにか、考えておいてよ。真美が外に出るんだったらなんでもいい」

 お母さんの声で、現実に引き戻された。また、うん、と小さく答えると、お母さんはそれ以上追求しないで、その日、職場であったことを話してくれた。

 同僚の誰々が旅行に行ってお土産のお菓子をくれた話し(あとで半分こしようと言ってくれた)。子育ての話しで盛り上がって、笑いが止まらなかったこと(わたしの赤ちゃんの頃のことも話してくれた)。

 とにかく、職場の愚痴や悪口などを一切、わたしに話さなかった。本当に不満がないのかどうか、わからなかったが、外の世界が楽しくて明るいことを必死に伝えているように思った。

 一日中家にいることの罪滅ぼしをするかのように、じっとお母さんの話を聞くのがわたしの日課でもあった。お母さんは、娘のわたしと接する短い時間を会話で埋めようとしている。

 たとえそれが、知らず知らずのうちにわたしを追い詰めていたとしても……。


 夕飯を終えると、わたしは食器を洗う。それがわたしの担当だからだ。

 その間もお母さんは外であった楽しいことをわたしに話し続ける。わたしは、水の音でたまに聞こえないふりをしながらも、時々相槌を打って、話を聞くふりをしている。

 食器洗いを終えると、自分の部屋に戻る。明かりもつけず、壁に体を預けてただ暗闇をみつめる。なにもないその空間に身を置いていると、安心する。

 日中は、学校に行っていない自分がいる。だけど、夜になると学校もやっていないからただの自分になる。外部とつながってほしい母親の願望からも離れられる。

 暗闇の部屋にぽつっと小さな青白い光が、頼りない光線を発射している。

勉強机に置いていた受信機の明かりだ。

夕方に偶然とらえたキリさんの夜の放送を逃したくなくて、その周波数から動かさずに、携帯電話でずっと録音をし続けていたのだった。

部屋の電気をつけると受信機のもとへ近づいて、手探りで携帯電話を取り上げる。録音アプリを立ち上げると、なにか音を拾ったかどうか、確認をする(なにか音を捉えていたら、ボリュームが盛り上がっている時間帯があるはずだった)。

携帯電話は何の音も拾ってはいなかった。

(キリさん、まだ夜の放送してなかったんだ)

 時計をみると、20時半を射している。

 机に座って、周波数はそのままに、スケッチブックを広げる。何時に始まるかわからないキリさんの放送を待つまで、想像のキリさんの姿を描く。その間も録音アプリはずっと起動させていた。

 キリさんの笑っている顔、悲しんでいる顔、怒っている顔、美味しそうな顔、きれいなものを見つけた時の顔。

 あの優しそうな声で、どんな姿をしているんだろう。私の中だけで、勝手に想像が膨らんでいく。わたしはSNSをやらないけれど、推しのアイドルのライブ配信が始まるのを待つのはこういう気持ちなのだろうか。胸がどきどきして、今か今かとあの声を待っている。

 一時間がたって、二時間がたって、一時間半がたった二十三時を回ったころ、受信機からのノイズ音がぶつっと切れ、静かになった。

 急いでボリュームを上げて、携帯電話を近づける。

 盗聴器から離れていく足音がぱたぱたっと聞こえてからは、しばらくノイズが消えただけでほとんど無音に近かった。

 受信機を持ち上げて、目線と同じ高さで周波数をみつめてみる。特に変化はなかった、キリさんにつながっているはずだ。

 それからまた、時間を持て余すことになる。あの柔らかな声が待ち遠しかった。受信機は、足音や、ドアを閉める音をたまに拾うだけで、なんの変哲もなかった。

 時計が二十三時半を回ったころ、ついに動きがあった。

 足音が近づいてくるのを、わたしは聞き逃さなかった。思わず、スピーカーに耳を近づけてしまう。

「ツヅキさん、ツヅキさん、聞こえますか? キリです」

 来たっ! 

 高鳴る胸をおさえることができないまま、耳に全神経を集中させた。

「今日は晩御飯にシーフードカレーを作りました。そのあと、本当は九時くらいにこのお知らせをしようと思いましたが、なんだか疲れて、ソファの上で眠ってしまいこんな時間になってしまいました。

 待ってくれていたらいいな。そうしたら、こうして喋るのも無駄にはならないのに。

 そうそう、シーフードカレーといえば、ツヅキさんと一緒に食べた、鎌倉のシーフードカレー美味しかったですね、覚えていますか? 私が海老の殻まで全部食べたら、ツヅキさん驚いてましたよね。でも、笑ってくれてよかった。すごく楽しそうだったから。

 また、一緒に行きたいです。そのレストランの駐車場が海の近くにあって、赤いきれいな夕暮れをみるために、車のトランクで二人で待ちましたよね。ブランケットもって、肌寒いから、くるまって。

 楽しかったな。また車でどこかへ連れて行ってください。

 ……ツヅキさん、もし聞いているのなら、嫌いにならないでください。独りにしないでください。……そして、もし生きているのなら、生き続けてください」

 声がだんだんと、震えた声になった。

「また、会ってください。ツヅキさん、会いたいです。会いたいです。どうか会ってください。この声が届いていますか? ツヅキさんに、届いているのかな。また明日の昼にお知らせしますね」

 そして、またぶつっと音がしたかと思うと、ノイズ音に変わった。

 たぶん、盗聴器越しに、キリさんは泣いていた。声をこらえるように、涙を流していた。

 わたしも、知らないうちに涙が出ていた。嗚咽を吐かない、静かな涙。

 キリさんの会いたい気持ちがわかるから。どういう状況なのかわからないけど、わたしもお父さんに会いたい。

 涙の粒が、受信機の液晶にぽたぽた落ちる。

 耳を離して、顔を上げたら、今度はわたしが描いたキリさんの顔にもぽたぽた落ちた。

 なにか、してあげたいと思った。でも、どこのだれかもわからない人に、なにをしたらいいのかもわからなかった。


 本来は、ツヅキさんという人に届いていなければいけない声を、偶然、わたしが拾ってしまっている。このキリさんの状況を知っている数少ない(もしかしたら唯一の)人間かもしれないわたしに、できることはなんなのだろう……。


 しかし、そのできることは本当はわかりきっていた。できることはただ一つだ。これしかないと思った。

 使命感に突き動かされるように、鉛筆を握る。勝手に描いたキリさんの顔の横に、力強く、刻むように文字を書いた。

「ツヅキさんを探す!」

 キリさんと会って、わたしもツヅキさんという人を一緒に探したい。そうしなければならないような気がすると同時に、胸のあたりが熱くなった。

眠気などまったくわかず、キリさん探しで頭がいっぱいになった。

まずはキリさんをみつけなければならない。どうやってキリさんを探すのか、その方法から探ることになる。

 情報は限られている。まず、本当に盗聴器からの電波だとして、どれほどの範囲のものを拾うのかネットで調べてみると、盗聴器から50メートルから200メートルの範囲にしか飛ばないようだ。

 地図アプリでわたしの住んでいるマンションから200メートル範囲内を調べてみる。直線にすると、一見短いようにも思えるけれど、円でぐるっと囲んでみるとなかなかの住宅の数だ。一軒家だけではなく、マンションやアパートだけで考えても20軒近くはあるだろうし、部屋数で考えたら、なかなか途方もない数になる。

 しかも、盗聴器を高い位置に設置すれば、電波の飛ぶ範囲も伸びる、というサイトもある。そうなるとどこまでの範囲を探索すればよいのか、それさえもわからなくなった。

 まずは50メートルの範囲にしぼって、該当する住居を書き出してみよう。それから一軒一軒、しらみつぶしに調べるのだ。

 といって、一軒一軒のインターフォンを押して、「あなたがキリさんですか?」と尋ねるつもりはなかった。相手が訝しがって(まぁ、訝しがるだろうが)警察に通報する住人が現れるとも限らない。そうなると、探索を続けるのが難しくなってしまう。インターフォンを押すにしても、候補を少しずつ絞っていく必要がある。

「そうなると、キリさんの放送の内容を手掛かりにするしかない」

 キリさんの放送でわかることは、今のところ洗濯の有無と作っている料理だ。

 昼の放送を聞いてから、まずは洗濯物の有無で候補を絞る。これが一日目。それから、絞った候補の住居をまわり、換気扇の臭いをかぎ、作ってるであろう料理をメモしてからキリさんの昼の放送を聞く。これが二日目。

 少々、心もとないプランではあるが、50メートル圏内ずつ回るのであれば、けっこう絞れるのではないか、とも思う。

 まずはやってみないことには、結果はわからなかった。

 スケッチブックにまとめたプランを眺めながら、妙に興奮している自分がいる。部屋に引きこもるようになってから、こんなにも精力的になったことは初めてだった。お父さんと一緒に絵を描く日々以来のことだ。

「キリさん、絶対探してみせる」 

 言い聞かせるように、小さくつぶやく。ぽっと、胸のあたりに勇気がわいた気がする。

 

  2、


 翌朝、目を覚ました。時計は9時頃をさしている。

 昨日は、あれから盗聴器の電波の範囲内であろう住宅をリストにしようと地図アプリとにらみあっていたが、名前のわからない建物が多いことがわかった。

 実際に歩いてみて、建物名、部屋の数などをまとめて消去法で捜索する必要があった。

 お母さんは二時間前には家を出てしまうから、家には誰もいない。静かな、といってももう街の動き出している音は否応なく聞こえてくる。

 みんなが前に進んでいる音だ。少し遠くを走る電車の音、幹線道路の車のエンジン音、それだけでもどこかへ行く人の音だ。目的地がある人たち。そこに向かう人たち。外を歩けば、出歩く人を見かけるだろうし、いったい一日に耳にする音だけでどれだけの人々の進んでいる音を聞くのだろう。

 うずくまって、とまっているわたしを通り過ぎていく灰色の人間たち。わたしなど見えていないかのように、すり抜けるようにどこかへ向かっている……。

 だけれど、今日からのわたしは少し違うのだ。「キリさんを探す」という目的をもって、外に出ることになる。


 お母さんが用意してくれていた朝食を食べ終えると、勇むような気持ちで準備にとりかかる。顔を洗い、改めて気持ちを入れると、部屋着ではない外出用の洋服を選ぶ。チェック柄のだぶっとしたパンツに、灰色のパーカー。鏡の前で髪を一つにまとめたら、言い聞かせるように、うん、と頷く。

(わたしは今日からキリさん……そして、ツヅキさんを探すんだ)

昨日までの、押し入れの奥にしまわれたかびたパンのような自分とは違うのだ。

 それから相棒の受信機の周波数をキリさんの番号に合わせると、スケッチブックとペンと一緒にカバンに入れた。使い古しているスケッチブックのほうが書きやすいと思った。イヤフォンをさして、いつ声をキャッチしてもいいようになっている。ダウンを着込むと、わたしはついに、玄関から外へ出た。


 昨日ダウンロードしておいた書き込みができる地図アプリを開く。あらかじめ50メートル圏内を囲っておいたので、近くのアパートから探すことにした。

 しかし……こうして実際に建物を前にすると、当たり前だけれど、人がいるのだと思う。まるで建物自体が息づいているようにも感じる。足がすくむ。よく考えたら、わたしは不審者だ。道行く人にどう思われるのだろう……。

 だけど、と思いなおす。昨日のキリさんの震えた声を思い出す。キリさんはあんなにもツヅキさんのことを求めていたじゃないか。会いたいと思っていたじゃないか。キリさんを助けられるのはわたしだけだ。あの声を聞いてしまった責任を全うしなければならない。

 足が一歩、また一歩と動き出す。


――。


パームハイツ  洗濯もの             推測される料理

  101号室  〇(白いワイシャツ2枚、男物の下着2枚、紺色のズボン1枚、フキン数枚)

  102号室  ×

  103号室  〇(黒色のTシャツ1枚、ワイシャツ3枚、男物の下着)

……

201号室  ×

202号室  〇(緑色のワンピース1着、ボーダーの黄色いシャツ、黒いパンツ)

 ……


佐々木コーポ

 101号室 ……


 建物の裏に回り、ベランダから干されている洗濯物をスケッチブックにメモしていく。今日は晴れているけれど、洗濯物が出ているのは四割ほどだろうか。平日だからこの割合なのか、土日になったらまた変わるのかもしれない。

 一軒あたり、長くても十分ほどメモに時間がかかる。その間、受信機から伸びたイヤフォンからはノイズだけがかすかに聞こえる。ボリュームを小さくしているのだ。だけど、キリさんの放送が始まったらすぐに気が付くような微妙な音量。

 わたしはどぎまぎしている。外から建物を眺めて、なにかをメモしている人間なんて、変な目で見られて当たり前だからだ。ときどき、通り過ぎる人の気配を感じると何食わぬ顔をしてメモを取っているが、本当はドキドキしている。とてもそちらに目を向けられなかった。


 二時間ほど歩いた。足が棒のようだった。長い間、部屋に引きこもっていたから、体力がないことを思い知らされた。

 小さな公園を見つける。そんなに離れていないはずなのに、そこに公園があることを知らなかった。引き寄せられるように、ベンチに座ると、深く息をついてから少し目をつぶった。

 二時間も歩いたのに、メモできたのは20軒ほどだ。一軒家もあるからその数字だが、集合住宅がほとんどだから、そこから一部屋を突き止めるのが、いかに至難の業か、メモに目を落としながらまざまざと感じるのだった。

(こんなことほんとに意味があるのかな……)

 弱気な虫が顔を出す。その間にも、イヤフォンの先の受信機は、きっかりキリさんの周波数を捉え続けているはずで、この痛みを伴うノイズの先に必ずキリさんがいるはずなのだった。

 だけど、立ち上がる気が起きない……肉体的にも精神的にも疲れた。

 そのときだった。

 それまでずっと続いていたノイズの波がぶつっと途切れ、無音になった。

 わたしは思わず、受信機をカバンから取り出して液晶を確認したが、電池が切れたわけではなかった。周波数は捉え続けられている。

(キリさんの放送が始まるんだ!)

 急に胸がどきどきし始めてきた。沈黙という音に、ここまで興奮することがあっただろうか。あの声を今か今かと待ちわびている。

「ツヅキさん、ツヅキさん、聞こえますか? キリです」

 優しい声。風が少し冷たいはずなのに、体温がぽっとあがったような。思わず目をつぶる。

「今日も寒いですね。まだ十二月の初旬なのに、最高気温は十四度ですって。去年の日記を見返したら、まだ上着も来ていなかったのに、もう着こまないといけません。

 そこは寒くありませんか? ツヅキさん、体調にはくれぐれも気を付けてくださいね。

 ところで、冷蔵庫に食べ物がもうほとんどありません。今日もこれから、ツヅキさんを探しがてら駅前に買い物をしに行こうと思います。冬だから、何がおいしいかな……カボチャとか、サツマイモとか、スープがおいしいですよね。ツヅキさんと一緒に食べた鶏鍋美味しかったな。また一緒に食べたいです。

 ツヅキさんが素敵だと言ってくれた青い」

「ちょっと、君!」

 急に飛び込んできた声に、思わず身体がはねあがった。みると、私の横に警察官が立っている。

「そこでなにしているの? 何歳? 学校は?」

 怖くてうまくしゃべれない。キリさんの声に集中していて、まったく気が付かなかった。

「わた……わたし……」

「まだ学生だよね? このあたりで若い子が、ベランダの洗濯ものをみながらなにかメモしてるって通報があったんだよ。なにしてるの?」

「あの……わたし……」

 その間もキリさんの声はやまず、何か話し続けている。「青い……をつけて」と言っていたような気がする。なにをつけて出かけるのか、肝心のところがわからなかった。

「とりあえず持ち物見せてくれる? ここらへんの子?」

 質問が矢継ぎ早に繰り出されるたびに、殴られるような感覚がある。とにかく恐くて、悪いことを問い詰められているようで、不覚にも涙を流してしまった。

「そんな、泣かないでよ……なにもなければ終わるんだからさ。とりあえず持ち物みせてもらえる?」

 そこまでのやり取りをしている間に、キリさんの放送はぶつっと終わってしまった。せっかく聞けた声だったのに……。

 逃げることもできずに、わたしは警察の要望に屈服するしかなく、バッグをさしだした。「このメモ帳、洗濯物が書かれているけど、どうしてこんなことしてるの?」

 最悪だ。どう考えても不審者だ。涙を止めることができなかった。

「それに、この機械はなに? これでなに聞くの? きみはここでなにをやってるの?」

 警察官は無造作に「鯨」をつかんで、わずかに振りながら問いかけてくる。修正ペンで歪に書かれた『鯨の背中』という文字が、警察官の指に触れているのをみて、お父さんが侮辱されたような感覚がよみがえった。

「返してください……」

「え?」

「返してください。その受信機、お父さんのなんです……大切なものなんです。返してください。とらないでください」

 受信機がなくなることを想像して、ますます涙が止まらなくなってしまった。

「大切なんです、お願いします。わたしからとらないでください。お願いします。……学校は通信制に通ってて、わたし、月に一回の登校だから、今日は行かない日なんです」

 受信機を返してほしくて、必死に説明するわたしを、警官は困った顔でみていた。

「通信制の学校なのね。お父さんの受信機を勝手に使っちゃったの? お父さんはなにしてる人?」

「お、お、お父さんはいないんです……お母さんと二人で暮らしてて。お父さんの部屋にそれが残ってて……洗濯物のメモは……わたし、絵を描いていて、今の人がどんな服を着ているのか知りたかったから」

 つきなれない嘘をついたから、不自然なところがないか急に不安になった。警察官はますます困ったような顔をした。

「絵を描いていてって……だったら、駅前に行って実際にみたっていいじゃないか」

「わたし……人混みが、怖いんです」

 警官はわたしの顔をじっとみた。私の強張った顔や震える声に、嘘がないか確かめているようだった。

警官はメモより前のページをめくった。そこには真美が描きこんでいた人々の顔があった。精細なタッチで描かれたそれらをしげしげと眺めてから、すぐにメモのページに視線を戻した。

「絵が上手いのはわかった。でもね、だからって他人の洗濯物をリスト化していい理由にはならないよ。泥棒の下見と間違われたって文句はいえないよ」

「……ごめんなさい」

「……まぁいい。今回は通報者の顔も立てなきゃいけないから声をかけたが、君が空き巣を働くような子じゃないことくらいは分かる」 警官は大きなため息をついた。 「住所と学校名を言いなさい。照会して嘘だったら、すぐに家にパトカーが行くからね」

 といって、受信機を返してくれた。わたしは堪忍して、学校名と住所と名前を伝えた。(わたしは悪いことをしてしまったんだ)と怒られている小さな子供みたいだった。

 わたしは、ぺこりと頭を下げて公園の出口を出て、こちらを注意深く眺める警官を振り返り、もういちど頭を下げ、再び歩き出した。警官はわたしの姿がみえなくなるまで観察しているようだった。その視線を感じながら、伏し目がちに歩いていたけれど、線路の高架下を歩いている途中で振り返り、完全に警官の視界から消えたことを確かめると、わたしは一目散に走りだした。それは駅の方向だった。

(キリさんを探さなくちゃ!)

走るなんて、いつぶりだろう。踏み出すたびに、錆びついた太ももの筋肉に、ずしっと負荷を感じる。喉の奥から血の味がする。部屋に引きこもって、持て余していた身体にはこたえたけれど、それでも、止まるわけにはいかなかった。

(キリさんが駅前のどこかにいる! 青いなにかを身に着けて、どこかにいる!)

 どこにいるだろう、肝心な情報だけ抜け落ちたまま、それでも使命感とキリさんに会える期待感をエネルギーにして全速力で走っている。

(キリさんに会いたい!)


 十分ほど走ると聖蹟桜ヶ丘の駅に着いた。平日の昼間だが、たくさんの人々が往来している。

 駅前にある、小さな家の形をしたポストの前で、わたしは肩で息をしていた。喉からは血の味がして、胸に鈍痛が走っている。穏やかなこの街で、わたしだけが異質みたいだった。膝から崩れ落ちそうだ。

駅前の交番から姿を隠すように、身体を引きずるように改札前に向かった。

 改札前にあるパン屋を境にして、東口と西口に二分されている。どちらにもスーパーがあるし、どこにいてもおかしくはなかった。とにかく、「青いなにかをみにつけている」という情報しかないのだ。あとは、特徴ともいえるほどの優しい声。

(あの声を聴けば、すぐにキリさんとわかるのに……)

 とにかく歩き出すしかない。改札を通り過ぎて、ひとまず西口のスーパーに向かうことにする。

 それにしても、こうして街を歩いていると、「青いなにか」を身に着けている人があまり見当たらないことに気が付く。紺や白などのシックな色合いが多い中、「青」のような鮮やかな色は着こなしが難しいのだろうか。

(もしかしたら、本当にキリさんに会えるかもしれない……)

 わずかな希望に胸を躍らせながら歩いていると、お店の前についた。テナントが数店舗入っている商業施設の地下にそれはある。部屋にこもるようになる前は、土日の休日は家族でよく買い物に来たお店だった。

 それがもう遠い昔のように感じる。小学生の頃は、わたしを真ん中にしてお母さんとお父さんと手をつなぎながら、この階段をおりたものだった。そんなことを思い出しながら階段を下りる。

(お父さん……)

 一歩一歩、階段をおりながら、ふわっとお父さんを思い出してしまった。

(……また、お父さんと手をつなぎたいな)

 中学生になって、父親とは手をつながなくなってしまったけれど、今になって、あのとき握った手の感触が懐かしかった。柔らかかったような、だけど、絵をたくさん描いていたその手は、ところどころ、タコができていて固かった。小さい頃はそれが不思議だったけれど、大きくなるにつれて、誇らしく思える手だった。

 階段を下りる。懐かしさが、だんだんと痛みに変わっていく。

 思わず立ち止まりそうになったけれど、キリさんを探す、という意識に再び目を向けて再び階段を下っていく。

(みつけなきゃ……キリさん、助けなきゃ……)


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鯨の背中 カブ @kabu0210

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