ラーニャの旅路

katonobo

ラーニャの旅路

馬車が、草原に伸びる一本道を進んでいる。

荷台では、二人の旅人が毛布にくるまり、揺られていた。


「この道、知ってる」


少女が、流れる景色を虚ろな瞳に映して言った。


「この丘の向こう。私の村だわ」


少女の呟きを、もう一人の男は黙って聞いていた。

父と子ほどの年齢差がある二人だが、そこに親愛の情のようなものは見当たらない。ただ、奇妙な共犯者のような空気が漂っている。


馬車は丘の頂に着いた。



「ほら」



少女が顎でしゃくる。

夕日に照らされた小さな村。家々の煙突からは白い煙が上がり、平和そのものの光景が広がっている。


「変わらないのね。何もかも」


「……そうか」



男の反応は素っ気なかった。


村の入り口に着くと、二人は馬車を降りた。


歩き出した少女に、近くで子供をおんぶしていた村の女が、不審な目を向ける。

だが、その顔が強張った。


「あんた……、ラーニャ? カーネルさんとこの?」


「ええ。ご無沙汰しています」



ラーニャは、愛想よく微笑んでみせた。


「嘘、信じられない。生きてたの?」


「運が良かったんです。……父と母は?」


「家にいるはずよ。ああ、なんてこと。すぐに顔を見せておやり」



女は胸の前で十字を切った。


ラーニャは軽く会釈をして、村の中を進む。


村はどこか寒々しい。すれ違う村人たちは、帰還したラーニャを見ると、幽霊でも見たかのように目を逸らした。


「ここ」



一軒の屋敷の前で足が止まる。村長の家だ。



「立派なもんだ」



男が値踏みするように言った。


「ええ。外側だけはね」



ラーニャがドアを叩く。

しばらくして、白髪まじりの初老の女性が顔を覗かせた。


「はいはい、どちら様……えっ、ひッ!?」



女性は腰を抜かしそうになった。


「久しぶり、メリンダおばさん」


「ラ、ラーニャちゃん……!? あなた、無事だったの!?」


「ええ。色々あったけど」



メリンダは背後の男に目をやった。


「その方が、連れてきてくれたんですか?」


「まぁ、そんなところだ」



男が短く答える。


「そ、そうですか……さ、入って。旦那様! 奥様! 大変です!」



メリンダは転がるように奥へ走っていった。


通された居間では、義母のパールがソファーに座っていた。

ラーニャを見るなり、彼女は一瞬だけ気まずそうに視線を泳がせたが、素晴らしい速度で表情を「慈愛」に切り替えた。


「ああ、夢みたい……! 私の可愛いラーニャ。こっちへいらっしゃい」


「パールお母様。ただいま戻りました」



抱きしめられる。高価な香水の匂いが鼻をつく。


「突然いなくなって一年よ? 私がどれだけ心を痛めたか」



そこに、父親である村長が現れた。彼は男の手を強く握りしめた。


「あなたが、娘を保護してくださったそうで。感謝します」


「いえ」


「とにかく、今日は休んでいってください。夜には息子のライアンも戻ります。家族水入らずで、祝いといきましょう」


その夜、食卓には豪華な料理が並んだ。

帰宅した兄のライアンも加わり、暖炉の火がパチパチと爆ぜる中、表面的には完璧な「家族の団欒」が演じられた。


「しかし、よく戻ってくれた。お前は亡き前妻の子だが、私にとっては宝だ。私も村長として手を尽くしたのだが、どうしても情報が掴めず……無力な父を許しておくれ」



父がワイングラスを揺らしながら、沈痛な面持ちを作る。


「村の財政も厳しく、捜索隊を出し続けるには限界があったのだ。……カーネル家を守るためには、苦渋の決断だった」


「そうよね。家がなくなれば、村のみんなも困るもの」



ラーニャが相槌を打つと、父は「分かってくれるか」と安堵の息を漏らした。

その横でパールが、新しい宝石の指輪を無意識に撫でているのを、ラーニャは見逃さなかった。


「ラーニャ、一体何があったの?」


「……気がついたら、地下室でした」


ラーニャは俯き、声を震わせてみせた。


「その後、ある貴族に拾われて……農場で働いていたところを、この方に身請けしていただきました」


「そうか……辛かったな。だが、もう大丈夫だ」



ライアンが、ねっとりとした視線でラーニャを見つめ、優しく言った。


「ここは、お前の家なんだからな」


深夜。客間に戻ったラーニャは、窓から星空を見上げていた。


この家は、あの頃と何も変わらない。匂いも、家具の配置も、自分たちの正当性を疑わない家族の笑顔も。


「……もし」



ラーニャはガラスに映る自分に問いかける。


「まだ、やり直せるのだとしたら」



自分の足元の影が、ゆらりと蠢いた気がした。

月が雲に隠れた瞬間、その甘い感傷は遮断された。


「馬鹿ね。そんなわけないって、知ってるくせに」


***

一週間後。


ラーニャは母に頼まれたお使いのため、裏路地を歩いていた。

人気のない道へ差し掛かった時、背後から複数の気配。

口を塞がれ、強烈な痺れ薬の匂いを嗅がされる。ラーニャは抵抗することなく、脱力して意識を手放した。


目が覚めると、森の中だった。

体は太いロープで木に縛り付けられている。周囲には五人の男たち。


「また戻ってくるとはな。いいカモだ」


リーダー格の男が、下卑た笑い声を上げた。


「お前にはまた、稼いでもらうぞ。前の売り先からは逃げ出したそうだが、今度はもっと遠くへ――」


「……ねえ」



ラーニャが遮った。その声は、氷のように冷たかった。


「遺言は、それでおしまい?」


「あ?」


パラリ。

ロープが独りでに解けて地面に落ちた。まるで、彼女の体に触れること自体を恐れたかのように。


「なっ!?」


男たちが反応するより早く、銀閃が走った。

太もものホルダーから抜かれた小さな短剣が、リーダーの喉を一閃していた。

だが、ただの斬撃ではない。

傷口からは血と共に、黒い靄のようなものが噴き出し、男はどうと倒れた。


「てめぇ! 殺せ! 殺しちまえ!」


盗賊たちが一斉に襲いかかる。だが、それは狩りですらなかった。


ラーニャは舞うように刃を振るう。短剣が空を切るたび、夜の闇が刃にまとわりつき、軌跡を残した。

数秒の後、森には静寂と、錆びた鉄のような血の臭いだけが残った。




「お見事。影の扱いが上手くなったな」


いつの間にか、木陰にあの男が立っていた。


「ありがと」


ラーニャは短剣についた血を、死体の服で丁寧に拭った。



***

一年前。地方の商人に買われたラーニャの日々は、地獄だった。


過酷な労働、残飯以下の食事、そして暴力。

死が目前に迫ったある夜、フードを被った男が彼女を見下ろしていた。


『ラーニャ・カーネル。無惨な死に様だが、魂くらいは天国へ連れて行ってやろう』


『あなた……死神?』



掠れた声で問うと、男は「そんな感じだな」と肩をすくめた。


『最後の慈悲だ。何か未練はあるか? 美味いものか、綺麗な景色か。俺にできる範囲で叶えてやる』


その時、ラーニャの干からびた心臓に、どす黒い炎が灯った。


『復讐』


ラーニャは即答した。


『私をこんな目に合わせた奴らを、全員殺したい』


男の眉がピクリと動いた。


『ほう。景色よりも、血が見たいか。……よかろう、ラーニャ・カーネル。だが、人の身で獣を殺すには、相応の武器がいる』


男は闇色の短剣を差し出した。


『お前の憎悪を糧とする刃だ。扱いきれなければ、お前自身が喰われるぞ』


それから半年、ラーニャは修羅の道を選び、地獄のような鍛錬の日々を送った。


『あなたが殺してくれるんじゃないのね』


訓練中、ラーニャは男にそう毒づいたことがある。


『俺は力を貸すだけだ。復讐ってのは、自分の手でなさねば味がしないだろう?』


そうしてラーニャは、影を操る術と暗殺の技を身につけ、自分を買った商人の喉を自らの手で掻き切り、故郷への帰路についたのだ。



***

「さて、これで気が済んだか?」


現実に戻り、男が問う。ラーニャは首を振った。


「まさか。……来たわよ」


茂みが揺れ、人影が現れた。


「おい、遅いぞ。積み込みは終わったか」


現れたのは、義兄のライアンとその付き人だった。彼は惨状を見て息を呑み、血まみれで立つラーニャを見て硬直した。


「な、お前、なんで……」


「やっぱり。あんたが手引きしてたのね」


ラーニャの声には、失望すら混じっていなかった。ただの確認だ。


「人身売買で裏金を稼いで、領主の監査をごまかすつもり?」


ライアンの顔が歪み、開き直ったような醜悪な笑みに変わる。


「そうさ。よく調べたな。だがな、お前が消えれば全て闇の中だ」


ライアンが剣を抜いて斬りかかる。

だが、剣術ごっこの剣が、死線を潜り抜けたラーニャに通じるはずもない。

ラーニャは切っ先を最小限の動きで躱すと、すれ違いざまに膝裏を蹴り砕いた。


「ぐあぁっ!」



倒れ込んだライアンの喉元に、短剣が突きつけられる。


「嘘だろ……俺が、女ごときに……?」


「最後に教えて。お父様とお母様も、今回の計画を知っていたの?」


ライアンは、口から血を吐きながら、精一杯の嘲りを浮かべた。


「知らねえわけないだろ。再会した夜、親父はお前の値段を計算してたよ」


その言葉を最後に、ライアンの息は止まった。



***

「あーあ。一匹、逃げたぞ」


男が呆れたように森の木陰を指差した。

ライアンの付き人が、腰を抜かしそうになりながら、村の方角へ走っていく後ろ姿があった。


「追わなくていいのか?」


「構わないわ」


ラーニャは短剣を収め、冷酷な瞳でその背中を見送った。


「恐怖を伝染させてきてもらうから。隠し立てはなしよ。正面から、すべて終わらせてあげる」




***

ラーニャが屋敷に戻ると、逃げ帰った付き人からの報告を受けたのだろう、門の内側ではすでに武装した兵士たちが待ち構えていた。


その中央に、村長である父と、義理の母のパールが立っている。二人の顔には、娘を迎える慈愛ではなく、化け物を見るような恐怖と敵意が張り付いていた。


「お前は……お前は我が一族の厄災だ!」


父が裏返った声で叫んだ。


「何が厄災よ。私の実母を誑かして、財産を乗っ取ったくせに」


「黙れ! 我が家を守るためだ、きれい事で村長が務まるか!」


父が唾を飛ばして喚く。パールもまた、真っ青な顔で叫んだ。


「そうよ! あんた一人が消えれば、私たちは贅沢な暮らしが続けられたのよ! どうして黙って不幸になってくれないの!」


「……それが本音ね。すっきりしたわ」


兵士たちが槍を構えたその時、男がラーニャの前に歩み出た。


「雑魚は俺がやる。お前は、本命をやれ」


兵士の一人が、男を見て鼻で笑った。


「たった一人で二十人を相手にする気か? 正気かよ」


男は答えなかった。

ただ、彼を中心に夜の闇が生き物のように膨れ上がっただけだ。

次の瞬間、漆黒の靄が触手のように伸び、兵士たちを飲み込んだ。

悲鳴すら上がらない。ただ、骨が砕ける音だけが響く中、ラーニャは父へと歩を進めた。


「私を誰だと思っている! この村を統べる村長であり、カーネル家の当主だぞ! その短剣ごときで!」


父が大剣を抜き、重い一撃を繰り出した。


ラーニャはそれを受け流すが、重量差に押され、後退する。


「口だけではないようね」


壁際まで追い詰められたラーニャを見て、父が勝利を確信したように剣を振り上げた。


「死ね! カーネル家の誉れのために!」


「誉れ、ね」


ラーニャが冷ややかに呟く。


「なら、その誉れごと刈り取ってあげる」


ラーニャの足元から、影が噴き上がった。

それは彼女の手の中で凝固し、身の丈を超える禍々しい漆黒の大鎌へと姿を変えた。


「なっ……!?」


父の目が驚愕に見開かれる。

風を切り裂く音。

父の首が、信じられないものを見た表情のまま宙を舞った。

どさり、と巨体が崩れ落ちる。


「ヒッ……い、いやぁああ!!」


腰を抜かしたパールが、金切り声を上げた。


「ラ、ライアンは? 私のライアンはどこ!?」


「お母様。お兄様なら、森でぐっすり眠ってるわ」


「う、うそ……。こ、この疫病神! あんたなんか、あの時殺しておけばよかったのよ!」



パールが護身用の短刀を抜き、錯乱した様子で襲いかかってくる。


「さようなら、お母様」


大鎌が無慈悲に振るわれ、パールの呪詛は物理的に断ち切られた。


無造作に転がった物言わぬ肉塊の横で、ガタガタと震える音が響く。

メリンダおばさんが、顔面蒼白でへたり込んでいた。


「ヒィィ……」


ラーニャは大鎌を霧散させ、静かに近づいた。


「あなたは何も知らなかった。……だから、殺さないわ」


「ば、化け物ぉぉ! 旦那様を、奥様を返せぇ!」


メリンダおばさんの絶叫が屋敷に響き渡る。ラーニャはその拒絶の言葉を、無表情で受け止めた。そこにはもう、悲しみすらなかった。


「さて、終わったな」


兵士たちを処理し終えた男が、人の姿に戻りながら近づいてきた。

屋敷の庭は、血の海と化している。


「ええ。もう満足よ」


ラーニャは折り重なる兵士の死体の上に座り込み、頬杖をついた。


「でも、復讐のためとはいえ、こんなに殺してしまったわ……もう天国になんて行けないでしょう?」


「ああ。お前の天国行きのチケットは無効だ。地獄がお似合いだな」


男の言葉に、ラーニャはふっと笑った。


「でしょうね。じゃあ、連れてってくれる?」


男の体がふわりと宙に浮く。


「気づいていなかったのか? もう、いるじゃないか」


男は屋敷の惨状を、そして返り血で赤く染まったラーニャを指差した。


「あの時、お前は俺の手を取って『救済』を拒み、『修羅』を選んだ。だから、ここがお前の生きる場所だ。改めてようこそ、地獄へ」


そう言い残し、男は空へと溶けるように消えていった。


「なるほど。そういうことね」


一人残されたラーニャは、死体の山の上で一人、静かに笑った。



頭上には無邪気な星空が広がっている。

かつて愛した故郷の風景はすぐそこにあるのに、ラーニャがいる場所だけは、鮮血と死臭に満ちた別世界だった。

彼女はゆっくりと息を吐き、澱んだ空気を肺一杯に満たす。どこまでも続く深い闇夜が、屋敷ごと彼女を飲み込むように、静かに降りてきていた。


(終わり)

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