夜を駆るもの
汐田カツユ
逃亡
息遣いと
男はひたすら廊下を駆けていた。窓は一つもなく、照明もか細く頼りない。その代わりと言わんばかりに、等間隔で設置された警告灯が視界を真っ赤に照らしていた。
彼が細長い手足を振って前進する度、纏った白衣がはためき、肩から提げた小箱が揺れる。
勢いそのままに廊下を曲がった拍子、慣性に浮いた小箱が壁を鳴らした。男は慌てて速度を落とし、宝物のように白衣で小箱を包む。幸い、箱には目立つ傷はない。落ち着いて中身を確かめる余裕はないが、今は無事だと信じよう。
「いたぞ、こっちだッ!」
同時に、緩んだ足を咎めるように、そんな声が男の背中を叩いた。舌打ち混じりに男は再度両足の回転を速め、肩越しに背後を伺う。
安心材料は三つ。
まずは、今見える人影は二つだけであることだ。いま、施設の中は自分を探す人員だらけだろう。その中でごく少数のグループに見つかったのは、辛うじて幸運と言ってもよかった。
それから、自分の方が足が速いこと。普通にやっていれば、追い付かれて捕まることはない。……まあ、これは後述の理由で気休め程度のものではある。
最後に、一先ずのゴールが近いこと。具体的には、あと曲がり角一つ分だ。そこさえ越えれば、この鬼ごっこもぐっと楽になるはずだ。
対して、不安材料は一つ。そのたった一つがあまりに大きく、数の利を補って余りある。
追手二人、そのどちらもが、手に拳銃を握り締めているのだ。そればかりか、早くも銃口をこちらに向けて狙いを定めていた。如何に脚力に自信があったとて、銃弾より速くは走れない。
正気か、と毒づく間もなくレーザーサイトが壁を走って背中に乗った。それを認識した瞬間、男は神経伝達速度の最速を以てリノリウムの上をスライディングする。あまりの勢いに、白衣が僅か破れるほどだ。
間を置かず、そして警告もなしに、狭い廊下を蹂躙する銃声と発火炎。銃弾が一条尾を引いて頭上を通過し、暫く先の壁で火花を散らす。
次弾の照準が定められる前に、床を叩いて流れる様に起き上がると、すぐさま次の角――ちょうどゴールだ――に飛び込んだ。相次ぐ銃火がストロボめいて周囲を照らし、男が先ほどまでいた空間を銃弾が食い破っていく。
いくら何でも躊躇いがなさすぎる。一応この国には銃刀法なるものがあったと男は記憶しているのだが、全く意にも解さない引き金の軽さだ。
冷汗を背に感じながら、男は目前の階段を駆け上がり、白衣のポケットからカードキーを取り出した。叩きつけないよう注意を払い、しかし迅速に認証パネルに翳す。
ぴ、と電子音がして数秒。長い数秒の後、ロックの下る音がした。男は思わず拳を握り、すぐさまハンドルに飛びついた。
男が外に出る気配を察したのだろう。幾らか警戒するようだった足音が、駆け足になって階段下から聞こえてくる。もちろん、追い付くまで待ってやるほど愚かではない。
殆ど体当たりで重い気密扉の二枚目を押し開けると、吹き込む風が目元を覆うほどの前髪を攫う。
邪魔の払われた視界には、夜空が広がっていた。烏羽の帳に撒き散らされた砂金のような星々と、その中心に煌くオパールにも似た望月。――思わず、ほう、と白い溜め息が漏れた。生まれて初めて、こんな綺麗なものを見た気がする。
とはいえ、感慨に耽る余裕はない。全く息つく間もないとはこのことだ。
後ろ足で蹴飛ばすように扉を閉めて一時凌ぎとすると、男は再び白衣を翻して駆け出した。
「……、ああ、そうだ。逃げられた。急ぎ捜索隊を編成しないと……」
追手が扉を押し開けて出てきたときには、彼の姿は影すら見えなくなっていた。残されたのは通信機越しに事態の確認を急ぐ声と、隙間から漏れ出る赤い光。
「――、それにしても、これほどとはな」
それと、男に蹴飛ばされ、無惨にひしゃげた気密扉のみだった。
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