異世界の古城の裸姫

おひとりキャラバン隊

第1話 異世界転移と全裸の私

 私の名前は西条かなめ、17歳。

 都内の私立女子校に通う女子高生だ。

 自宅は都内だけど、西東京市っていう、西なんだか東なんだかよく分からない名前の、田舎じゃないけど都会って程でも無い、そんな街にある普通の家に家族と一緒に住んでいる。


 両親は共働きで、どちらも大きな会社で働くサラリーマンらしいんだけど、それほど裕福な家庭だとは思っていない。


 最近のお父さんは「かなめ、お前ももう3年生だし、そろそろ将来の事を考えないといけないぞ」なんて私の顔を見る度に言う様になってきて、その度に私は

「うるさいなぁ、放っておいてよ!」

 って言って自分のからに閉じこもってしまう。


 学校でもそうだ。

 3年生になって、朝のホームルームで担任の先生が話す事の半分は「進路についてちゃんと考えろよ~」って話ばかり。


 先生はいつも疲れた顔をして目の下にクマをつくっている。

 最初はイケメンな先生だと思って、ちょっとイケナイ妄想の対象だったのに、実際の先生は職員室の中では若手らしくて、他の先生に色々言いつけられてばかりでストレスまみれの毎日だって聞いた事がある。

 それを聞いてからは、先生がカッコいいとかいう気持ちはどこかに消えて、むしろ先生が不憫ふびんに思えて仕方がない。

 そんな先生が「将来の事をちゃんと考えなさい」なんて、「むしろ先生こそ自分の将来の事を考えたら?」って言いたくなっちゃう。


 親戚の叔父さんだってそうだ。

「お父さんやお母さんみたいに大きな会社に就職できないと、今の世の中生きて行くのは大変だぞ」

 なんて話を、いつだったか親戚が集まった時に、親戚の叔父さんに言われた事がある。


 実際、叔父さんは小さな会社で働いているみたいで、

「肩書きは部長だけど、部下なんて一人しか居ないし、ほとんどの仕事は自分でやらなきゃいけないから大変だよ」

 なんて言っていた事がある。

 一昨年くらいにお爺ちゃんのお葬式があって、叔父さんの家に立ち寄ったことがあったけど、叔父さんは木造の狭いアパートの一室に住んでいて、結婚もしていないそうだ。

「なんで結婚しないの?」

 と私がまだ小さな頃に訊いた事があるのをぼんやりと覚えてるけど、確か叔父さんは

「叔父さんは給料が安くてね。なかなかお嫁さんが来てくれないんだよ」

 って言ってた気がする。


 私のお父さんもお母さんも、つまりは結構いいお給料を貰ってるって事なんだろうけど、その割に私が欲しいものを何でも買ってくれる訳でも無いし、お小遣いだって月々3千円しかくれない。


「お金が欲しいなら、アルバイトでもしたらどうなのよ」

 なんてお母さんは言うけど、そんな事をしたら、友達と遊ぶ時間が無くなっちゃうじゃない。


 勉強もしなくちゃならないし、学校の宿題だって結構ある。

 私だって暇じゃないんだよ。


 そんな私の苦悩を救ってくれる、素敵な男性が現れたりしないかと夢見る事もあるけど、現実はそんなに甘くない。


 そもそも女子校には女子しか居ないんだもの。


 あ~あ、私も共学の高校に通ってれば、今頃彼氏とかできて、素敵な日々を送れていたかも知れないのになぁ。


 実際、二つ下の弟は今年の春から共学の高校に通いだしたんだけど、入学して2週間も経たないうちに、早速「彼女ができた」という。


 小さい時は可愛い弟だと思ってたのに、今はバイトとか始めちゃって、そのお金で彼女と遊ぶ事ばっかり考えてるのが、恨めしいやら羨ましいやら、ちょっと複雑な気持ちになる。


 弟はゴールデンウィークにデートをしたらしく、そこで貯めてたお小遣いを使い果たしてしまったとかで、バイトを始めたらしいんだけど、そんなにしてまで彼女と遊びたいものなのかしら。


 どうせ彼女とエッチな事をしたくて色々お金を使ってるに決まってるわ。

 だって、昨年の末に家の大掃除をした時、私は弟の部屋で見つけちゃったんだよね。

 弟のパソコンの画面にあるフォルダに、エッチな画像が入ってるのを。


 私だって学校で、誰かが回し読みしていたレディスコミックとかでエッチな漫画とか読んだりする事はあるけど、弟のパソコンに入ってた画像は、なんていうかエゲツナイの。

 なんていうか、美しくない訳よ。


 それに比べて、私が読んでたレディスコミックは美しいお話。

 キレイな絵でイケメンが描かれていて、何ていうか、胸がキュンってするっていうか。


 私が求めるのはそんな彼氏。

 私の胸をキュンってさせてくれる感じの。


 ……でも、分かってる。

 そんな男、現実のこの世にはほとんど居ないんだって事を。

 仮に居たとしても、そんな男はどこかの美女とくっついてしまう。

 私みたいな凡人とは、住む世界が違うのだ。


 住む世界が違うと言えば、昨日クラスメイトの紗江さえちゃんに貸してもらったラノベは面白かった。

 主人公の女子高生が病気で死んでしまって、気が付いたら異世界に転生して、王国のお姫様になるって物語。

「表紙の絵のヒロインが、どことなくかなめに似てるよね! 私、読んでてヒロインが出て来る時、頭の中でセリフがかなめの声で再生されてたよ!」

 と言って笑ってたっけ。

 ヒロインが異世界で隣国の王子様と恋に落ちるお話なんだけど、その王子様が素敵過ぎて、読んでた私がどれだけキュンキュンして悶えまくってた事か。


「あ~あ、いっそのこと、私も異世界でお姫様とかになれればいいのになぁ……」

 何となく、部屋の窓から夜空を見ながらそう言ってみた。

 それと同時に、夜空ではひと筋の流れ星が光の線を描いた。

(あ、流れ星……)

 と心の中で思ったその時、突然私の身体中が熱くなるのを感じた。


(あれ……? 私の身体、何かおかしい?)


 振り返って部屋の中を見回すと、部屋を照らす蛍光灯がやけに眩しく感じる。

 クロゼットの扉に取り付けられた姿見の前に立って自分の姿を見ると、身体中が熱を帯びて熱く感じるのに、自分の顔がいつもより白く見え、髪の色もいつもの黒髪ではなく、明るい栗色に見えた。


(どういう事? 蛍光灯の光が眩し過ぎるせい?)


 両手で自分の肩を抱く様にすると、いつもの肉厚な肩ではなく、少し華奢きゃしゃな感じさえした。


(え? 私の身体、どうなってるの?)


 私は鏡の前で急いでパジャマを脱ぎ捨て、下着一枚の姿で目を見開きながら鏡越しの自分の姿を見つめた。


(何? どういう事? なんか私、ちょっと可愛くなってない?)


 そんな呑気な事を考えているうちに、私の身体の熱がどんどんと高まるのを感じる。


(どうしよう、私の身体ヤバくない? めっちゃ熱いし、むしろ火傷しそうな熱さじゃない? パンツって綿で出来てるんだっけ? 私の熱で突然燃えたりしない?)


 私は突然の異常事態で少しパニックになっていたらしい。


 その場でパンツを脱いで全裸になって、振り向き様に鏡を見た時の、見慣れた自分のお尻とは違う、これまで夢にまで見た最高に形の良いお尻になっている自分に見惚みとれてしまうなんて!


 そして私の視界がどんどんと光に飲まれる様に真っ白になってゆき、やがて鏡の中の自分の姿も真っ白になって見えなくなる頃、私の意識も自分では気付かないうちに、光に溶け込む様に薄れていったのだった……


 ☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


「……はっ!」

 と私が目覚めたのは、薄暗い森の中だった。


 空を見上げれば、まだ日は高いようだ。

 けれど鬱蒼うっそうと茂る木々や雑草のせいで、日の光は木漏れ日が少し届く程度だ。

 それに木々の幹から根にかけて苔蒸こけむしているせいか、少し蒸し暑い。


「何これ、ここどこ? もしかして私、夢でも見てる?」


 しかし、問題はそれだけではない。


 何より問題なのは、私が素っ裸である事だ。


 それに自分の身体を見下ろすと、すべすべの白い肌に華奢きゃしゃな身体つき、形よく膨らんだ胸は、私が知ってる自分の胸とは少し違う。


「そうだ! 鏡に映ったあの姿だ!」


 最後の記憶に残っている、鏡に映った自分の姿。

 今の私はあの姿のまま、どこだか分からない森の中に居る。


(とにかく、このままじっとしていても仕方がないし、どこかで服を手に入れたいし……)


 私は一歩足を踏みだしてみた。

 足の裏には湿った落ち葉の感触が伝わる。


(イヤだ、本当に夢とかじゃないのかも知れない。落ち葉に変な虫とか居ないでしょうね……)


 私は虫が大嫌いだ。

(こんな森の中で、変な虫が身体に付いたら、それだけで発狂できる自信があるわ)


 不意にゆるやかな風が吹き抜けた。

 蒸し暑い森の中を少しだけ涼しくしてくれる。


(そういえば、テレビでやってたっけ。山の中で熊に出会って怪我をしたってニュース……)


 もしも熊に遭遇したらと想像し、恐怖でブルブルっと身体を震わせた自分の身体を両手で抱きすくめる。


「とにかく、どこか安全な場所に行かなくちゃ……」


 これが夢か現実かなんて、もはやどうでも良かった。

 森の匂いも自分が知っているものとは何かが違う。

 もしかしたらここは、日本じゃないのかも知れない。


(そういえば、流れ星に異世界のお姫様にしてって願った気がするけど、もしかしてここが異世界だったりするのかな)


 そんな事が一瞬脳裏をよぎったが、今はそれどころでは無い。

 とにかくどこか安全な場所に行きたかった。

 それに、全裸で居るのはこの上なく不安にさせる。


 仮にここが異世界だったとしたら、ラノベの定番として、山賊や盗賊みたいのに出くわす可能性だってある訳だ。


 そこにこんな可愛い全裸少女(自分で言うのも何だけど)が居たら、無事で済むとは到底思えない。


「とはいえ、どっちに向かって進めばいいのやら……」


 そこにまた、今度は少し強めの風が吹き抜けた。


(そうだ……、自分の匂いが風に乗って熊とかに気付かれない為には、熊とかに対して風下に居るのがいいってテレビでやってた気がする)


 私は常に風下にいる為に、さっき風の吹いて来たと思しき方向に、ゆっくりと歩き出した。


 地面は湿った落ち葉が多くてふかふかしていた。

 おかげで裸足で歩いてもあまり痛くない。

 けれど時々石が落ちていたりして、気を付けないと踏んで足を痛めてしまいそうだ。

 何か人工物でもあれば、どこかに人が居る事を実感できるのかも知れないが、歩き出してけっこう時間が経ったはずなのに、今のところそうしたものはどこにも無かった。


 森の中には道なんて無い。

 当然、道標みちしるべみたいなものも無い。

 ただ、時折吹いてくる風の方向に向かって歩くだけだ。

 スマホも無いし、どれくらい時間が経っているのかも分からない。

 ただ時々空を見上げて、太陽が徐々に傾いているのを見て実感するしかない。


(ここって、夜は寒くなったりするのかな……)


 日が傾きだすのを見ると、そんな不安が頭をもたげてくる。

 街灯なんて無いし、懐中電灯も無い。

 ただでさえ薄暗い森の中で、夜になったらどれほどの暗闇になるのだろう。


(想像するだけで恐ろしくなるな……)


 そんな事を思うと、随分と歩き続けて火照って汗ばんだ身体にも鳥肌が立った。


 体感ではもう3時間以上は歩いた気がする。

 時折雑草ですねのあたりを傷つけられたりして、せっかくの綺麗な足に小さな切り傷がいくつも出来てしまった。

 たいして痛い訳じゃないけど、何だか痒い感じがする。


(雑草に毒なんて無いでしょうね……)


 知らない場所を歩き続けながら、ここが本当に異世界じゃないかと思う度に、周りの雑草さえもが得体の知れないものに見えて怖くなる。


 けれど今のところ、熊や狼どころか、鹿や猪にも、さらにはラノベにありがちな魔物みたいなものにも遭遇してはいないし、ましてや山賊や盗賊にも出くわしてはいない。


 そういえば、毛虫とかが身体に貼り付いたりもしていない。

 虫の声も聞こえないし、もしかしたらこの森にはあまり虫が居ないのかも知れない。


(だとしたら、それは有難い事ね)


 何の根拠も無い、そんな想像を繰り返しながら、とにかく歩を止める事無く進み続けた。


 しかし時折空を見上げると、無情にも太陽が随分と傾き始めているのが分かる。

 ある角度まで太陽が傾いた時、森の中は突然といっていいほどに暗くなった。


(まだ空は青いのに、森の中は真っ暗じゃないの!)


 それでも歩を止める事は出来なかった。

 何故なら、こんなところで全裸で夜を過ごす事など、想像もしたく無かったからだ。


 足元はほとんど見えないが、足の裏の感覚を頼りに、ゆっくりと前進を続ける。

 歩き始めてどれくらいの時間が経ったのか、感覚がマヒしてよく分からない。

 ただ、薄暗くなってきた空のわずかな光が届くうちは歩き続けようと、それ以外は何も考えられなくなっていた。


 しかし、それから幾分時間が経った時、とうとう森の中は漆黒しっこくやみに包まれてしまった。


(……何も見えない。空は晴れた夜空なのに月の光も無い……)


 自分の人生で、これほどの暗闇を経験した事など一度も無かった。

 自分の手を顔の近くまで近づけても、その自分の手さえ見えないのだ。

 足元を見ても、自分の姿が闇に溶けてしまったかの様に何も見えず、足の裏に感じる落ち葉の感触だけが、そこに地面がある事を教えてくれた。


 しかし、それも長くは続かなかった。


 あまりの暗闇に、もう自分がどんな姿勢であるのかさえ分からなくなったのだ。

 私はとうとう歩く事が出来なくなった。

 そして、歩を止めてしばらくすると、徐々に森の中の気温が肌寒く感じてくる。

 さらに暗闇で何も情報が無いせいで、余計な事を色々と考えてしまう。


(そういえば喉が渇いたな……。お腹も空いたけど、食べられるものなんて無さそうだし、それに今は何も見えなくて動く事もできないし……)


 虫の声も聞こえない森の中で、時折ゆるやかな風が吹く以外に物音ひとつ聞こえない。

 自分の足音と呼吸の音、あとは心臓の鼓動だけが耳の奥に音を伝えているかの様だ。

 それなのに、この闇夜が一体いつ明けるのか、それすら分からない。


(……怖い)


 何も分からない事が、これほどまでに自分を恐怖におとしいれるのだと今更いまさらながら思う。


 唯一の道標みちしるべである筈の、時折吹くゆるやかな風が自分の身体を撫でる事さえもが私の身体を震え上がらせる。


 身体が冷えたのか尿意が高まるのを感じたが、ここにトイレなんてある訳も無い。


(仕方が無い。ここでしちゃおう……)


 私はその場でしゃがみ込もうとしたが、バランスを崩して尻餅をついてしまった。

「あっ」

 っと思った時にはもう遅く、その反動で我慢していたおしっこを漏らしてしまう事になった。

 徐々に落ち葉に流れた自分のおしっこの温度でお尻が生暖かくなるのを感じながら、

「あ~あ……」

 とため息交じりに肩を落とし、おしりが自分の尿で濡れるままにしているしかなかった。


(どうせ誰も見ていないし……)


 そう思って紙を探したが、当然そんなものは無いし、そもそも何も見えない。


 その場で立ちあがると、内腿をおしっこが少し伝うのを感じた。

 もう一度しゃがみ込み、適当に落ち葉を掴むと、そのうちの少し大きめの葉をくしゃくしゃに丸めて柔らかくして、内腿を拭った。


(ぜんぜん綺麗になった気がしないな……、なんだかちょと気持ち悪い)


 そうは思うが、今はどうしようも無い。

 しかし、私は立ち上がって一歩足を踏み出してから、ふと思った。


(あれ……、私、さっきまでどっちに向いて立ってたんだっけ)


 漆黒の闇で何も見えない状況で、姿勢を変えた事で自分の向いている方角さえ分からなくなったのだ。


(これ、ヤバくない?)


 しかしよく考えれば、そんな思いは今更な事だ。


 そもそも、最初に歩き出した方角が正しい方角だったのかも分からないのだ。

 仮に私が助かる場所があるとして、私がそのと、誰が証明できるの?

 もしかしたら、最初から歩き出す方角を間違えていたのかも知れない。

 実はもっと悪い状況になる方向に進んでいる事だって考えられるのだ。


(どうする? 戻る?)


 何も見えない闇の中で、そんな事を考える事自体がどうかしている。

 だけど、お尻はおしっこと土で汚れているだろうし、内腿も落ち葉のカスでチクチクするし、雑草で傷ついたすねは赤く腫れているかも知れないし、ずっと裸足で歩いて来た足は土と落ち葉でドロドロだろうし……

 ここまで誰とも出会わなかったし、動物どころか虫一匹とさえ出会っていない。

 最初はキレイになった自分に「何かいいことが起こるかも知れない」と、心のどこかで考えていたかも知れないけど、今は見た目なんてどうでもいい。


 生きるか死ぬか。

 今はそんな状況なのだ。


 自宅に居た頃は「こんな世の中で生きていたってしょうがない」なんて思った事もあるが、今にして思えば、ちゃんとした家に住み、あったかいお風呂に浸かれて、程よい弾力のベッドで眠り、毎日温かいご飯を食べる事もできた。


 スマホで友達とやりとりしたり、色々な動画や漫画を見たり、楽しい事だっていっぱいあった。


 今の自分の状況と比べれば、ほんの些細な事さえ幸せだったんだと感じる。


(あの家での私の悩みなんて、実はどうでも良い、下らない悩みだったんだな……)


 そんな事を考え、気を取り直して辺りを見回すが、どんなに目を凝らしても、漆黒の闇以外に何も見えはしなかった。


(まいったな……)


 下手に動いて、これまで来た道を戻る事になるのもイヤだ。

 だけど、ここでじっとしていても、身体が冷えてしまう。

 お腹は空いているけど、食べるものなんて見当たらない。


(人間って、1週間くらいなら水だけで生きられるって聞いた事があるな……)


 そんな事を思うが、ここまで歩いてくる中では湖も川も、小さな池さえも見ていない。


(水が無くて生きられるのはどれくらいなんだっけ……)


 そんな事を思いながら、じわじわと自分の心が「絶望」というもので支配されそうになるのを感じて、慌てて頭を振った。


(ダメよ! こんなんじゃ、本当にここで死んでしまうわ!)


 そうは思うが、何も見えない状況ではどうしようも無い。


(せめて何か音が聞こえたらいいのに……)


 心の中でそう愚痴ぐちをこぼすも、時折吹くゆるやかな風の音以外にヒントに成り得るものなど無いのだ。


(風の音か……)


 そう思った時、再びゆるやかな風が吹いて来た。

 何も見えない状況で、耳に全神経を集中させてみる。


 ふわっとして特徴のない風だ。

 耳元でかすかにボワボワと聞こえる気がするのは、きっと風が私の耳に直接入ってくる方向を向いているせいだろう。


 そしてふと私は気付いた。


(そうか! 今の私は、風が吹いてくる方向に向かって横を向いているんだ!)


 私は途端に元気を取り戻し、どうせ見えないのだからと目を瞑り、両耳に全神経を集中して風の吹いてくる方向を探した。


 かすかにヒュッっと音がして、そちらの方角に両耳を向けると、やがてゆるやかな風が吹いてくる事が分かった。


(最初にかすかに聞こえる『ヒュッ』ってのは何の音だろう?)


 東京の都心部に行くと、高層ビルの隙間を抜ける風がいつもヒューヒューと音を立てていたのを思い出す。

 あれは風がビルによって通り道が狭くなったところを無理やり通ろうとする時に風の速度が変わって音が鳴るのだと聞いた事がある。

 確かあれは中学の音楽の時間だったか、アルトリコーダーの授業の後に化学の授業があって、たまたまそれが音響に関する内容だったりして、誰かが質問してそんな事を聞いたのではなかったか。


 こんなゆるやかな風なのに、微かとはいえ「ヒュッ」と音が鳴るのは、何か狭いところを風が通っているからではないか?

 木々が生い茂っている場所を通っている音って可能性もあるけど、何か「森ではないどこか」に繋がる渓谷とか、そういうところから来る風の可能性だってあるじゃない?


(どうせ、今の私にこの可能性以外の選択肢なんて無いんだし……)


 私は微かな可能性を求めて、両手を前に出して障害物に注意しながら、時折聞こえる風の音の源に向かってゆっくりと歩を進めた。


 目を開けても閉じても見える景色に違いは無い。

 だけど、何となく目を瞑っていた方が耳の感覚が鋭くなる気がした。


 そうして歩を進めるうち、不思議な事が起きてきた。

 風の流れる微かな音だけで、まるで周囲の景色が見える様な気がしてきたのだ。

 その景色は風が吹き抜ける度に明瞭になり、木々に風があたる音までが感じられる様な気がした。


(この辺りに太い木の幹があるかも)

 と思って手を伸ばすと、確かにそこには太い木の幹があった。

 そうして何度か確かめるうちに、風の音が描く周囲の景色を、まるで目で見ているかの様に感じる事ができた。


 一度コツを掴んでしまうと、あとはそう難しい事では無かった。

 風が吹く度に見える世界。

 木々の配置や枝や葉っぱのボリューム、地面の形や微かな凹凸まで、まるでゲームの3Dグラフィックをフレームで見せられているかの様に感じる事ができる。


(スゴイじゃん、私)


 自宅でも、普段から特訓してればこんなことが出来る様になったのだろうか。

 それとも、今のこの身体だから出来る、何か不思議な力があるのだろうか。


 ともあれ、身に付けたこの力のおかげで、私は風の音を頼りに、「ヒュッ」となる風の源を見つける事が出来たのだった。


☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆


 それは大きな構造物だった。

 目を開けてもやはり何も見えはしない。


 しかし、音を頼りにその構造物までたどり着いた時、手で触れると、それが石か何かで人工的に作られた形をしている事が分かった。


(人工物‼)


 そう、それは紛れもなく人工物で、巨大な「建築物」だった。


(良かった……、ここは他にも人が居る世界なんだ……)


 誰か助けが来た訳でも無く、スマホを見つけた訳でも無く、ただ「他にも人が居る世界」である事が分かっただけにも関わらず、私の身体は歓喜で叫び出したい位の喜びに震えていた。


 そして自然と涙が零れだす。


 おそらく私は、たった半日程度を歩き続けていただけだ。

 全裸である事の恥じらいも忘れ、森の中で放尿した事への罪悪感も忘れ、まだ助かったと決まった訳でも無いのに、ただ人工物である建物に出会っただけで、これまでの苦労が消え去るのではないかという程に嬉しくて涙が溢れ出したのだ。


 手の甲で涙を拭いて空を見上げると、建物が木々を突き抜けるほどに大きなものだという事が分かった。


 夜空の星が放つ微かな光に照らされたこの建物は、まるで西洋の古城の様な石造りの姿で、所々に窓か何かの開口部があるのが見て取れる。


 重々しく、そして闇の中にそびえるその古城からは、人の気配も生き物の気配も感じない。


 しかしまるで私という主人を何千年も待っていたかの様に、確かにそこにあり、動かぬ存在感があった。


 私は、何故かは分からないが、今日ここでこの建物に出会った事が、決して偶然なんかでは無い気がした。


 東京の自宅にいた自分が突然こんなところに素っ裸でやってきて、散々な目にあってなお、ここに辿り着いたのだ。


 宗教とかには興味は無いけど、きっとこの出会いには意味があるに違いない。

 どこかの神様が私をこの世界に連れて来たのだとして、私はこの世界で何かを成し遂げる事になるのだろう。


 それが何かは分からない。


(だけどこの世界では、きっと私が主人公なんだわ)


 という思いだけは、何故か明確に感じたのだった……

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