7. 地獄に堕ちろ

「――ってさ、フィリスが焔術を使ってくれなかったらヤバかったね」

 同じ時間を何度も繰り返す筋書きことを俗に『ループもの』というらしい。昔から扱われてきた題材で、今も小説やアニメ、ゲーム、果ては実写作品にまで広がっている。

 俺はそんな『ループもの』が嫌いだった。

 人生に試行錯誤を重ねられるってことは、そいつはその分だけ間違ったわけだからだ。何度も繰り返せばそりゃ最後には正解を引く。んで、周りにいた連中が何も知らずに囃し立てる。外面だけなら完璧な人間になる。くだらねえ。

「――ってさ、フィリスが焔術を使ってくれなかったらヤバかったね」

 くだらねえって、そう思ってた。

 二回目に平田の顔を見た時点で嫌な予感はあった。三回目でその予感は確認に変わった。

 橘愛莉が佐藤を殺す。この上なくシンプルなループの終着点。エントランスホールで橘愛莉は佐藤をメッタ刺しにして、俺はそれを止められずに朝の通学路に戻る。

「――ってさ、フィリスが焔術を使ってくれなかったらヤバかったね」

 ループの間隔は短い。平田と話さずに全速力で学校まで走っても、佐藤に声を掛ける直前に橘愛莉が登場し、為す術もなく打ちのめされて、最前列で犯行を目撃する羽目になる。

 まるでゲームオーバー手前のセーブデータだ。しかも繰り返すたびに疲労と痛みが蓄積していく。相手の同じ百人組手。勝つのはいつも橘愛莉で、俺は地面に這いつくばる。

 佐藤にコンタクトを取ることもできない。電話には応答せず、メッセージも未読のまま。歴研のトークルームは俺の連投にしばらく経って平田から『大丈夫……?』と返事があるだけ。

 なら校内放送だとエントランスホールに向かわず放送室に乗り込んでみたが、当然ながら鍵が掛かっているし、ぶち壊そうとしてもドアはびくともしなかった。橘愛莉に勝てないだけかと思ったが、実際は俺が非力だってことだ。ざまあねえな。

 佐藤を逃すのも駄目。警察や先生に知らせても駄目。そもそも学校に行かずにいても駄目。駄目、駄目、駄目だめダメ。バッテンだけがどんどんと増えていく。

 以上が俺の置かれている状況だ。なんでこんなに冷静かって?

「――ってさ、フィリスが焔術を使ってくれなかったらヤバかったね」

 もう、冷静になっちまうほど繰り返してるからだ。

 最初は佐藤が死んで悲しかった。橘愛莉の犯行に怒った。自分の不甲斐無さが悲しかった。でも同じ場面を何度も目撃するうちに、そんな感情が湧かなくなっていった。

 むしろ繰り返すたびに身体の芯が冷たくなって、頭が整理されていく気がした。中学の頃に失くしていた、世界を一歩引いて観察する感覚。心地良い全能感。取り乱す自分を想像して、落ち着きながら顧みる。ああ、また駄目かって。

 ああ、また橘愛莉が来たな。

 ああ、今回も失敗だな。

 ああ、この行動パターンは前も見たな。

「ハシバ……?」

 次はどうする?

 もっと過激な方法を試すか? 

 いっそ俺が佐藤を――

「ハシバ!」

「……?」

 なんだ?

「ど、どうしたのさ? 急に人が変わったみたいだよ。そんな顔、勇者がしちゃダメだ……」

 なんでコイツはあの台詞を言わない?

「焔術はどうした?」

「え?」

「言えよ、フィリスが焔術を使ってくれなかったらヤバかったねって」

「え、え……?」

「お前が言わなきゃ始まんねえんだよ」

 めんどくせえ。

「言えって。言えっつってんだろ」

「あの、えっと、フィリスが……」

「フィリスが?」

「…………やっぱり、ダ、ダメだよ」

「はあ?」

「お、おかしいよ……ハシバがそんな顔する……なんて……」

 何言ってんだコイツ? いつもと同じ顔だろうが。

「あーもういい。用事あるから先行くわ」

 余計な時間を食っちまった。今から走ってもギリギリだな。学校に行かないパターンの一つってことにして次の作戦を考えるか。

「待って!」

 ……うるせえ。

「離せよ。俺、用事あるっつったよな」

「あ、ご、ごめん……」

「ごめんじゃねえって。お前の妄想に付き合ってる暇はねえんだよ」

「え……あ……」

 言っちまった。まあいいか。どうせリセットされるんだし。

「異世界に行って俺と冒険したんだろ? 思考が俺とリンクしてるんだろ? だったら俺が嫌がってることぐらい分かるよな?」

「ひっ……」

「オルテラってどこだよ。フィリスって誰だよ。妄想ばっか垂れ流されてこっちは迷惑してるって気付けよ」

「……うぅ。ぐすっ……」

 げ、泣きやがった。

「あーあー俺が悪かったよ。今度また話に付き合ってやるから、な?」

 埒が明かねえ。うぜえ。めんどくせえ。

 無視して逃げるか。

 こんな面倒な奴、最初から――


「ひさくんに何してるんですか」


「へ……ごふっ!?」

 声、

 顔面への激痛、

 世界が真っ白に弾け飛んで、

「っが……ぁ」

 体が何かに激突した。

「りあちゃん!?」

「離れてて、ひさくん」

 痛え、痛え。痛い痛い痛い痛い痛い。

 標識、地面、

 りあ、リア、アルミリア?

 血、アスファルトに血が。

 ――は、羽柴君は転生したいの……?

 声、平田の。

「おまぇ……」

 近付いてくる。

 悪寒、殺意、明確な殺意を纏って。

 頭が熱い。身体が熱い。

 ――さあな。でも別な世界でやり直せるんなら、もっと気楽に生きられるかもな。

 誰かの声。

 分からない。体が動かない。

 制服の女。地面を打ち鳴らすつま先。

 思考が働かない。

 万能感が消える。

 ただただ、顔面に黒く硬いローファーが迫ってくるのが見えて。

 ああ、やっぱりお前は……、

「ハシバ!!」

 ……覚悟していた痛みは襲ってこなかった。

「ひ、らた……?」

 目の前で、女の蹴りを平田が受け止めていたからだ。

「どいて」

「ど、退けない! りあちゃんこそ落ち着いてよ!」

「なんでそんなクズをかばうの?」

「ハシバはクズじゃない!」

 平田が叫ぶ。今まで聞いたことが無いほど力強く、はっきりと。

「ハシバは僕を助けてくれたんだ。りあちゃんと同じ仲間で……僕の勇者なんだ!」

 その声に頭の中で凝り固まった何かが解けていく気がした。解けて、口や鼻から血と一緒に流れ落ちる。

 ……何やってんだ、俺?

 自分に酔って、勝手に苛ついて、平田に酷いことを言って。『また』だと? 『次は』だと? 何をクソみたいなこと考えてんだよ。クズだ俺は。トラックに轢かれても転生できずにそのまま死ぬ雑魚だ。

「そっか」

 平田の彼女が蹴り出した足を戻し、

「ひさくんも強くなったね」と、それまでの殺気立った姿から一変して優しげな笑みを浮かべる。

「りあちゃん……!」

「でも」

「うわっ!?」

 安堵した平田が肩を引かれて尻餅をつく。入れ替わった平田の彼女が俺を見下ろす格好になる。

「それとこれとは話が別だから」

 笑みを崩すことなく、殺気を微塵も感じさせず、平田の彼女が足を引く。脳が危険信号を発する。

 それでも、避ける気はしなかった。

 それどころか安堵している自分がいた。リセットされるからじゃない。クソみたいなことを考えた俺を罰してくれるからだ。平田に助けられて終わりだなんて虫の良い結果にならなくて安堵したんだ。

「ひさくんを泣かせるやつは――」

 ありがとよ、と心の中で呟いて。

「――地獄に堕ちろ」

 顔面への凄まじい衝撃と共に、俺の意識は真っ黒になった。


 ***


「――ってさ、フィリスが焔術を……って、ハ、ハシバ!?」

 平田の声が頭上から聞こえる。両手と膝と額にアスファルトのザラザラとした感触がある。

 戻ってきた視界が平田を捉えた瞬間、俺の体は反射的に動いていた。

「すまん!!」

 羽柴麗央、渾身の土下座である。

「え……えっと、え?」

「お前に酷いことをしちまった。俺が悪かった。本当にすまん!!」

「と、とととりあえず立ってよ。みんな見てるから……」

 平田に促されて俺は地面から頭を離した。

 立ち上がり、改めて平田と向き合う。あどけなさの残る顔に困惑の色を浮かべているが、それでもキラキラした目は変わらない。

「平田、頼みがある」

 俺は今までのループで平田に助けを求めなかった。それは明確に理由があったわけじゃない。でも、どこかで平田のことを舐めてたんだ。頼りにならない、ループの始まりを知らせるだけの存在だって。

 高慢ちきな考えだ。クズの発想だ。

 平田の彼女に蹴られた時の痛みは身体に刻まれてる。もしも前回のループが別な時間軸で続いているとしたら、平田の彼女にはもっと俺をボコボコにして欲しいと思う。闇堕ちした勇者なんてぶっ殺されて当然だぜ。 

「頼み……勇者が僕に?」

「ああ。平田、信じてもらえないかもしれないが、俺はいま何度も同じ時間を繰り返してるんだ」

「なっ」

 平田が目を見開く。背中につつと冷や汗の伝う感触。だが、今更引くわけにはいかない。

「まさか炎を吐いてくる敵に焔術が効くなんて思わないよな」

「それって……」

「お前が言おうとしてた台詞だ。俺はもう耳にタコが出来るぐらい聞いた」

 もう一度まっすぐに平田を見て、俺は頭を下げた。

「頼む、この呪いから脱出するためにはお前の力が必要なんだ」

「……」

 沈黙。

 当然か。散々平田の話に取り合わなかった俺がこんなこと言っても響かねえよな。

 もう一度謝って学校に向かおうと頭を上げて、気付いた。

「ク、クロノスの呪いにハシバが!? そっか……オルテラから帰って来る時にカオスの加護が消えちゃったんだ」

 平田の顔が今まで見たことが無いほど輝いていることに。

「お、おう?」

「もちろん協力するよ! ハシバなら呪いをかけた元凶はもう掴めてるんだよね?」

「え、あ、と、当然だ。橘の奴が……」

「橘の魔女が!? まさか彼女が神教会の刺客だったなんて」

 平田はギリッと歯噛みして、それから学校のある方角に視線を移し、

「強大な魔力を感じるね……! こうしちゃいられない。すぐに学校に向かわないと」

 右手を空に掲げたかと思うと、

「シルフよ! 我らに風の加護を!」

「え? あ、おい……速っ!?」

 よく分からん詠唱をかけ、俺を置いて疾風のように突っ走っていってしまった。

「お前もハイスペック人間かよ……!」

 平田の足が速いなんて知らなかった。前回のループでも彼女の攻撃を止めてたし、ますます俺の目は節穴だったわけだ。メッセージアプリで平田に『昇降口』と連絡し、太腿をバチンと引っ叩いて平田の後を追う。

 言わずもがな、俺の足は速くなっていなかった。むしろこれまでの疲労が溜まっているせいで遅くなったぐらいだ。シルフは俺に加護を掛け忘れたらしい。

 それでも気持ちの上なら今回の方が段違いだった。体の痛みも何のその、結果的にこれまでのループよりも早く校舎が見えてくる。

「ようレオ! 次のメシなんだけどよォ」

「退けって!」

 部室棟の陰で短ランの連中とたむろしていたリーゼントの皆本を喝破し、教室棟へと向かう途中。二つの棟を繋ぐ小さな中庭に差し掛かったところで、平田の背中が見えた。

 その向かいに、橘愛莉を対峙して。

 周囲には二人以外の人影が無い。教室棟と部室棟のコンクリートの外壁が生み出す無機質な静けさは、晴れた空と穏やかな空気に全く似合っていなかった。

「はあっ、はあっ……やっと……追いついた……」

「ハシバ」と平田は涼しい顔で視線を動かさずに言った。

「彼女、マズいね」

 橘愛莉。今日まともに相対するのは初めてかもしれない。ずっと顔さえ見られずに叩きのめされていたからだ。

「……」

 橘愛莉は静かに笑みを浮かべていた。しかしその懐に忍ばせた凶器を俺は知っている。だからこそ違和感しかない。これから佐藤を殺すのに、何ヘラヘラ笑ってんだよ。

「仕方無いよ」

 平田が口にしたのは意外な言葉だった。

「彼女は操られているんだ」

「操られてる? 誰に?」

「たぶん神教会の黒幕だね。彼女ほどの人間を操るなんて相当な手練れだよ」

「ハッ、誰かに操られるなんざ弱くなったもんだ」

 精一杯に煽っても橘愛莉は反応しない。ループなんてファンタジーなことが起こるぐらいだ、操られてる可能性もゼロとは限らねえ。でも、まともに会話すらできないんだったら。

「来いよ橘愛莉。佐藤に会いたきゃ俺達を倒していくんだな」

 一丁前にファイティングポーズをとると、拳に今までには無かった自信を感じた。これがオルテラを救った勇者の力か。平田と二人なら佐藤を救うぐらい――

「危ない!!」

「……へ?」

 平田の声。橘愛莉の顔がわずかに動いた刹那、視界からその姿が消えた。

 ヒュッと風が鳴ると同時に目の前が真っ暗に、いや何かが目と鼻の先にある。それが橘愛莉の手刀だと認識した時には平田が俺の前に、

「うわっ!?」

 俺の前にいた平田が横に吹き飛んだ。すぐにまた橘愛莉と向き合う格好になる。橘愛莉は顔色一つ変えずにニコニコ笑っていて、

「げっふ」

 その笑顔がブレる。鈍く鋭い衝撃が鳩尾を襲う。気持ち悪い浮遊感の後で背中が地面を擦る。

「か……っは……」

 息ができねえ。腹の中の朝飯が逆流しそうだ。ちくしょう、正面切って戦っても強いのかよこの女。

 両肘を地面について辛うじて上体を起こすと、橘愛莉が制服の汚れを叩いているのが見えた。そして何事も無かったかのように教室棟に、エントランスホールに向かっていく。

「ぅ……」

 視界の端、コンクリートの壁にもたれる平田の姿。俯いて俯いてピクリとも体を動かさない。口元から薄っすらと赤い何かが溢れて、それも次第に暗く黒く塗り潰されていく。

 全部一瞬だった。俺は何もできなかった。すまねえ平田、これじゃ勇者失格だ。

 何度も平田に謝りながら、俺の意識は薄れていった。


 ***

 

「シルフよ、我らに風の加護を!」

 平田の詠唱が始まる。これが三回目、そろそろシルフも俺に気付いて欲しいんだが、一向に風の加護とやらはかからない。

 二回目も橘愛莉を止めることはできなかった。一回目の反省から気を緩めないように努めても、人並みにすら動けない俺は橘愛莉の動きを追えず、気付けば地面に這いつくばっていた。

 それでも成果が無かったわけじゃない。平田を頼ることでゲームオーバー手前の状況は回避できるようになった。

 失敗の原因は明白だ。俺が橘愛莉を説得できないこと、俺の足が遅いこと、俺が弱いこと。ボトルネックが俺すぎて辛い。

 解決方法もなんとなく予想がついた。平田の存在が状況を変えた。なら、協力してくれる奴を増やせばいい。先生や警察じゃなく、たぶん俺に関係のある人間だ。

 そしてそいつの目星もすぐについた……不本意だが。本当に不本意なんだが。

「あの野郎に頼るのかよ……」

 平田はもう学校に向かった。俺もすぐに追いかけて、そして部室棟の横で奴と鉢合わせるはずだ。

 今から既に足が重い。気も重い。平田の彼女に土下座して頼む手もある。むしろ戦力を考えりゃそっちの方がいい。攻撃を食らった俺が言うんだから間違い無い。

 それでも最後の手段にしておきたいところだ。平田の彼女と橘愛莉、二人が揃ったらトラウマで泣いちまいそうだからな。

 平田という要因が増えたことによる対策の練り直し、もとい現実逃避をするうちに通学路を抜ける。

 そして、部室棟の横で俺は予想どおり見慣れた顔と出くわした。

「やあ、羽柴君じゃないか。ちょうど今日の部活について聞こうと思っていたんだよね」

 予想どおり、前回のループとは違うキャラで。

「はあっ……はあっ……学校でぐらい……〝王子〟でいろよ……」

「とんでもない。僕は心を入れ替えて勉強に励むことにしたんだ」

 皆本がわざとらしく眼鏡を中指でクイと上げる。七三気味に流した髪と整った目鼻立ちは爽やかさを感じさせる。当然、こんな皆本を俺は見たことが無い。

 部室棟ですれ違うたびに皆本の身なりや口調が変わっていることは気付いていた。そもそもすれ違わないケースもあった。エントランスホールに急いでいたから考えないようにしていたが、とうとうそれが問題になっちまった。

 皆本のキャラが変わるのだ。ループする度に。

〝王子〟こと皆本は周囲の人間に求められた姿を演じる。これはパーティ騒動が片付いた後も例外ではなく、昨日だって頭のネジが抜けたチャラ男を演じていた。

「どうかな、羽柴君も僕らと一緒にこの世界の真理を探求しないか? 過去を学び、今を観測し、未来を論じる。これほど意義深いことは無いはずさ」

 今回の皆本は知的爽やかメガネを演じていた。一緒にいるのも真面目で頭が良さそうな連中だ。

「頼みが……ある」

 違和感の塊みたいな勧誘を聞き流して、俺は皆本の二の腕を掴んだ。

「黙ってついてきてくれ。部活もそっちで説明してやる。頼む、時間がねえんだよ」

「感心しないね。人に頼み事をする時はまず内容を言うべきだよ」

 皆本はその場から動こうとしない。それどころか再び中指でクイと眼鏡を上げ、勿体ぶった態度で余計に時間をかけてやがる。

「あーそうだな俺が悪かった。でも今は時間が無いんだ。走りながら説明するから。頼むって」

「時間を言い訳にするのはナンセンスだよ」と皆本はまた眼鏡をクイと上げた。

「そもそも君の中で流れる時間と僕の中で流れる時間は絶対じゃないんだ」そしてもう一度眼鏡をクイと上げて「相対性理論さ。こんな話は使い古されて説明するもの億劫だけどね」コイツまた眼鏡を「つまり君がいくら急いでいようともそれは君の中で流れる時間の話であって僕の中で流れる」クイクイしやがって「時間はゆっくりだが確実に素晴らしい方向へと――」

「くそったれ!!」

 眼鏡クイ野郎の長ったらしい話に堪えきれず、とうとう俺は諦めて駆け出した。あんな奴を説得できるわけが無い。それに説得する時間も足りていない。

「なっ!?」

 中庭まで来ると平田が倒れていた。橘愛莉の姿は無い。それにもう教室棟の方が騒然とし始めている。

「ゆう……しゃ……」

 抱き起こした平田の痛ましい顔に息が詰まる。

 俺のせいだ。俺がちんたら皆本の相手をしたせいで。俺が〝当たり〟を引けなかったせいで。

「おい……おいおい……」

 平田の華奢な体の感触が腕から消える。意識が真っ黒に塗り潰される。その暗闇の中、最後に思い浮かべた自分の言葉に慄いて、

「レオクゥーン! 部活だけどさァー!」

 そこから、悪夢のような繰り返しが始まった。

「は、羽柴さん……。すみません、きょきょ今日の部活なんですけど……」

 最初の爽やかメガネと同じく、皆本は俺の説得に応じない。それだけならいい。

「ドゥフフ、今日もレオ殿は必死そうでござるな笑」

 問題なのは皆本のキャラがループのたびに替わることだ。諦めようとしても次のキャラならと淡い期待を抱いてしまい、説得し、失敗する。

「おっすはっちん。今日の部活ってよう」

 皆本が極端なだけで、誰だって相手によって話し方や内容は変えるものだ。調整と言った方が正しいかもしれん。俺だって相手が佐藤と平田じゃ微妙に違う。

「あらぁレオちゃん、今日の部活がねぇ」

 俺が陥ってる状況はその真逆だ。同じ皆本なのにキャラが変わるせいで、俺の方が無意識に調整する羽目になっている。

「ヘイ、ブロ! レキケンのアクティビティなんだけどネ」

 つまり、非常に疲れる。

「れお、部活」

 無力感と自己嫌悪もある。

 平田には橘愛莉と接触せず俺を待つよう伝えているが、佐藤が俺の見えないところで橘愛莉に殺されていることに変わりは無い。それに皆本の説得自体、試行錯誤と同じだ。平田と平田の彼女に性根を叩き直してもらった次がこれじゃ気も滅入っちまう。

「レオっちー今日の部活ってさ」

 頭の中で、このくそったれな悪夢が始まった時に思い浮かんだ単語がぐるぐる回る。

「ふにゃあ~のりっピにゃあ~」

 これじゃ……

「ヒスビケア、カヒワエザジウミセ。テグハベキテドセギ」

 これじゃ本当に、皆本のキャラガチャじゃねえか。

「レオか」

「ア、アンタ……素の皆本かい!?」

 数えるのも億劫になるほどの繰り返しの後、珍しく一人で突っ立っていた皆本の声を聞いた俺は思わず変な声を上げた。

「なんだその喋り方は? 素も何もオレはオレのままだが」

 この厭世的な雰囲気と堅苦しい口調。間違いない、俺の知ってる〝当たり〟の皆本だ。

「よし……皆本、部活の前に頼みを聞いてくれ。俺はいま橘愛莉に関する厄介事に巻き込まれてる。佐藤の身に危険が迫ってて、平田って奴が助けに向かってる。でも俺と平田だけじゃダメだ。お前の力が必要なんだよ」

 時間はかけていられない。皆本の反応も見ずひと息に話し切る。

 度重なる説得で伝える内容だけはまとまっていた。橘愛莉の名前を出す、ループの話はしない、皆本の助けが必要不可欠。これで〝当たり〟の皆本なら理解するはずだ。

 しかし、そんな淡い期待が叶うことはなかった。

「意味が分からない。オレはそんな大した人間じゃないと君も知っているはずだ」

「待て……待てまてまて。お前が大した人間かどうかは関係ないんだよ。お前がいなきゃ佐藤を救えねえんだって!」

「はっ、莫迦にしやがる。どうせオレがあたふたする姿を見て嗤うつもりなんだろう。毎度マイド、あっしが惨めな道化でござい。いやァ道化も失格か、レオにも見破られちまったし」

「お前……」

 やっと〝当たり〟を引いたのにこれかよ。もうがっかりを通り越して呆れるしかない。つーかコイツ、俺が頭を下げなきゃいけない人間か? そもそもコイツのアホパーティが発端だろ。反省してるようにも見えねえし、だんだん腹が立ってきたぞ。

「オレのような人間は周りに使われている方がいいんだ。あァどうぞご自由に」

「うっせえ」

「ごりよ……は?」

「うっせえってんだよ大根役者!! つべこべ言わず俺に手を貸せ!!」

 ……決壊。

 説得の前に鬱憤を晴らさないと俺の精神が持たねえ。

「だ……だだだだ大根役者だと!? オレっち……いやボク……いやいやミーの演技にけけけ、ケチをつけるのか!?」

「ほら見ろ一人称もブレブレじゃねえか!! あのな、ついでに言うと最初からそのおっさんみたいな態度も気に食わなかったんだよ!! どっかの小説家の真似か!? そんな奴が俺と似てる!? 俺をお前みたいな女たらしと一緒にすんじゃねえよボケナス!!」

「お前……おまええっ……!!」

〝おっさん小説家〟こと皆本の顔がみるみるうちに赤くなっていく。

「そ、そこまで言うなら付き合ってやろう!! この皆本典人がお前の求めるスーパーヒーローを演じようとも!!」

「いやそこまで……お、おい待てって!」

 赤面した皆本は教室棟の方向に走っていってしまった。目的地を知らせようにもその姿はもう無い。

「なんでお前も足が速いんだよ……!」

 どこかで見たようなハイスペック披露を嘆きつつ、俺も疲れた体に鞭打って部室棟を後にする。

 平田との合流地点へ着くまでに時間はかからなかった。

「ハシバ! さっき〝王子〟が橘の魔女の名前を叫びながら通り過ぎたんだ。声を掛けようとしたんだけど間に合わなくて……」

「だ……大丈夫だ……俺が協力してくれって頼んだんだよ……」

「そうなの!? さすが僕の勇者……!」

 膝に手をついて息を切らす俺に平田は目を輝かせている。

「と、とにかく皆本を探しながらエントランスホールに行くぞ」

 言いつつも俺の中で皆本がいるであろう場所は分かっていた。中庭だ。

 平田が俺と行動している以上、橘愛莉がエントランスホールに着く前に皆本とかち合う場所はそこしか考えられなかった。

「皆本!」

 そして案の定、中庭には橘愛莉と皆本の二人がいた。

 橘愛莉はこれまでと同じように柔らかな表情を浮かべている。対する皆本は……なんというか、気持ち悪い格好をキメていた。

「おはよう皆本君。それに羽柴君と平田君も」

 橘愛莉が口を開く。落ち着いて綺麗な声が朝の長閑けさと調和する。

 外見だって変わらない。煌めく黒い髪、透き通った肌、整った顔立ち、そして優雅な立ち振る舞い。しかし見惚れてしまえば一瞬で地べたを舐めることになると俺の身体は知っている。

「二人とも気を付けろよ。コイツは……」

「待ち給えレオ。橘女史は勘違いをしているようだ。それを正さなければならない」

「あん?」

 皆本が一歩前に出た。そして突然ババっと奇妙なポーズを展開し、

「オレの名はッ!! 正義のスーパーヒーロー〝ライトニング・プリンス〟だッ!!」

 だッ……

 だッ…………

 だッ………………

 だッせえええ!! 昭和のネーミングセンスじゃねえか!! なんだよライトニングって!? 光るのか!? 光る王子とかそんなノリか!?

「……」

 ほら見ろよ橘愛莉も薄ら笑いになってんぞ。これマジで道化を見る顔じゃん。良かったな皆本、お前は立派な道化だよ。

「す……すごいよ〝王子〟! ルミナスの加護によって真の力に目覚めたんだね!」

「そのとおりだ名も知らぬ青年よ。さァてと橘女史、この〝ライトニング・プリンス〟の正義を味わってもらおうか」

 冷え切った空気の中で興奮する平田に対し、皆本も反応を貰ったのが嬉しかったらしく腰に手を当てて二カッと笑った。

「皆本、とりあえずポーズやめろ。そもそもなんだスーパーヒーローって」

「ツレないぞレオッ!! オレは君を助けるために俗世の仮面を捨ててスーパーヒーローになったというのに!!」

 それも仮面だろとかヒーローってのは自分でスーパーなんて付けねえとか、言いたいことは山程あるが、聞いたって無駄だし今は好きにさせておく。

「……橘、理由を教えてくれ」

 皆本を手で制して隣に並び、橘愛莉と向き合う。

「まさか本当に操られてるわけねえよな。佐藤は人に恨まれるような奴じゃねえし、殺してもいい人間なんざ他にいくらでもいるだろ。皆本みたいによ」

「えっ!?」

 驚いている皆本は無視。

「退屈な人生に飽きたってやつか? お嬢様だもんな」

 橘愛莉は微笑みながら沈黙したままだ。

「人を殺してみたかったか? 頭が良すぎるとそんなことも考えちまうらしいな」

 微笑み、沈黙。

「もしかして佐藤への愛とか言わねえよな? それは尊重するが……いや、やっぱダメだ」

 微笑み、沈黙。黒い髪がさらりと揺れる。

「何か言えよ。どうしてお前みたいな――」

「危ない!!」

 平田の声と同時に橘愛莉の姿がブレて、頭で考えるより先に体が反応して。

「ぐう……!」

 胸を守った両腕に激痛が走る。

「ハシバっ!」

 精一杯に耐えたものの、勢いを殺せず後ろによろけたところを平田が支えてくれた。

「だ、大丈夫だ。橘を抑えてくれ皆本!」

「なぬっ!? あ、いや任せ給え! 行くぞ橘女史ッ!! 大人しくしてもらおうかッ!!」

 俺の呼びかけで皆本が橘愛莉に襲いかかった。いいぞ、動きが特撮の雑魚敵みたいが、体格では勝っているしスーパーヒーローを名乗るぐらいだから腕に自信が――

「へごぇ」

 ――あると考えた俺が間違いだった。皆本は橘愛莉の横蹴りをまともに食らってゴム毬みたいに吹き飛んだ。

 おいおい何がスーパーヒーローだよ。めちゃくちゃ弱いじゃねえかお前。

「……動かないでね、橘の魔女」

 ただ、皆本が蹴り飛ばされたことは意味があった。ターゲットを変更したことによる一瞬の隙を突いて平田が橘愛莉の腕を拘束したのだ。

「この世界で体術を使うのは初めてなんだ。手加減できる保証は無いよ」

「……」

 それでも橘愛莉は笑顔を崩さない。それがあまりにも不自然で、圧倒されて、どうしようもなく綺麗に思えちまう。

 見せつけられる。俺との違いを。

 それを認識した途端に胸が張り裂けそうになった。鼻がツンとして、目がぼやけて、おまけに喉まで震えてやがる。

「ハシ……うわっ!?」

 反応したのは平田の方だった。

 橘愛莉はその隙を見逃さなかった。自分の腕ごと体を回転させ、無理やり平田の拘束から抜け出してしまった。

 そして、その手に握られた何かが鈍い光の線を描く。

「う……」

 平田が倒れる。呻き声が上がって肩口が赤黒く染まっていく。

 橘愛莉が近付いてくる。平田の血を滴らせたナイフを手に。

「あ……あぁ……」

 足に力が入らず、今にも崩れ落ちそうになる。これまでとは違う明確な死の恐怖。

 橘愛莉がナイフを振り上げる。真っ青な空に真っ赤な凶器が光って、

「待ち給えェッ!!」

 そいつをスーパーヒーローが受け止めた。

「み、皆本!?」

「見くびってもらっちゃ困る!! オレにかかればこんな武器なんべぇ!?」

 格好良く見えたのも束の間、皆本はまた橘愛莉に蹴り飛ばされてしまった。

 しかしその拍子に橘愛莉の手からナイフが落ちた。当の本人も皆本を俺から意識が逸れいる。ここしかない。

「橘ぁ!!」

 俺は無茶苦茶に橘愛莉へと突っ込んだ。さすがの橘愛莉も捨て身のタックルには対応できず、そのまま地面に倒れた。

 先手を取れたのは運が良かった。俺はすぐに橘愛莉の両肩を掴んで地面に抑えつけた。意外に華奢な体だと、その時になってようやく気付いた。

 至近距離に橘愛莉の顔がある。汗一つかいていない。

「なんでだ!!」

 いい匂いがする。此の期に及んでまだ笑っている。

「なんで……」

 恐怖、怒り、悲しみ。感情の整理がつかない。過去と今が綯い交ぜになる。

「なんでお前みたいな完璧な奴が、こんな全部ぶち壊すようなことするんだよ……」

 目と鼻から液体が溢れてきて、両手が塞がっているせいで拭うこともできず、ぐしゃぐしゃになった顔で橘愛莉に問う。完璧な、これから完璧でなくなる人間に。

「……羽柴麗央」

 橘愛莉が口を開いた。

 返ってきたのは答えじゃなかった。

「高校教諭の羽柴秀治はしばはしばしゅうじと長距離アスリートの羽柴美奈はしばみなの息子。幼い頃は勉強もスポーツも常にトップで、神童と呼ばれて将来を期待されていた。でも中学二年の夏、無理なトレーニングで体を壊してスポーツの世界から脱落。その影響で勉強にも手がつかなくなった」

「お前……何言って……」

「決定的な転換点は吹奏楽コンクール。勉強もスポーツも落ちこぼれた貴方の縋ったものが指揮者という役目だった。音楽で自分を証明しようとした貴方は……失敗した。方向性を示せず、奏者たちの顔色を伺い、八方美人になって、そして全員から嫌われた」

「やめろ……」

「失望した貴方の両親はその時から愛情を注ぐ対象を変えた。貴方よりもずっと優秀な、貴方の弟に」

「……」

「貴方は完璧になれなかった」

「だから願った」

「完璧な人間なんていて欲しくないと」

「私が薫を殺すのは、私が完璧でなくなるため」

「なぜなら」


「貴方が願ったことだから」




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