世、妖(あやかし)おらず ー唾棄窗(だきまど)ー

銀満ノ錦平

唾棄窗(だきまど)


 まただ…。


 また家の窓に付いている。


 泡立ち、所々に食べかすが含み、黄ばみや黒い異物等が窓に付着している。


 何故私の家の窓なのか分からない。


 雨や動物が窓を舐めた跡なのではないかと思う人もいるだろう。


 同僚や知り合い、更に身内にも恥を忍んで相談をしたが軽蔑や失笑、遂には病院に行けとまで言われたりもした。


 実際に見に来てくれと言っても、そんな気持ちの悪い家など入りたくもない…そもそもそう言って人を家に誘い何をしでかす気なんだと注意もされ、気が付けば周囲に俺を信頼できる人がいなくなってしまっていた。


 俺もそれ程必死になって見て欲しかった…。


 明らかな唾がどの窓にも…家の全部の窓に付いてるんだから…。


 拭けども拭けども翌日には再び同じ液体が付着している。


 なんというか、鳥の糞の様に…それとも滴る自然の雨の様に…自然の理に従って空から落ちる液体物とは明らかに違う気がした。


 飛び散っている…という表現が正しい。


 ただ飛び散るとは違う。


 雨が風によって飛ばされた水滴が窓に当たった…風にも見えない。


 それなら中心から飛び散る形にはならない筈で、最低でも全体に浴びせた様な光景になる筈なのだ…。


 しかし、窓に付着している液体は思いっきり細かく飛び散った形に見える。

 

 それは…本当に人が唾を吐いた後によく似ているのだ。


 しかも意図的に…この家の主に向けて吐きかけるように…。


 液体の中の異物も考えると明らかに人為的行為である事は明白であるが、その状況が異様過ぎて本当に人が及ぼしたものであるのかと疑問が残ってしまう。


 俺は悩んだ。


 それも苦悩する程に悩んだ。


 拭いても拭いても、不特定に気が付いたら付着している。


 それも必ず誰かに罵倒や文句を投げかけられた後日に、この現象が発生する。


 ならばこの唾は、俺に罵倒と文句を投げ掛けた上司や同僚、更に俺に非難を浴びせた身内共の体液だとでもいうのか。


 確かに多少俺に飛び散った唾が付いたなんて出来事は多々あるしそんなの気にしたこともない。


 そしてその時に付着した唾が何かしらの偶然…例えば服に付いていたりしていた場合なら、服を片付ける際にその唾が飛んで家の窓に付着してしまうということはあるかもしれない。


 しかし…これに関してはそんな小さい段階の度を越している。


 先ず服に付く唾なんて帰宅している時には乾いてる筈なのだ。


 仮にその唾がまだ乾燥しておらず、服に付着したままだったとしてもそんな目立つ程の大きさではないし、今の現象の説明には全く当てはまらない。


 それに、その唾らしき液体は外に付着しているうえ、異常な量である為に余計この現象の異常さが伺えてしまう。


 それでも何の解決もない。


 解決しようと模索し、人に相談しても結局はお前はおかしいと馬鹿にされ貶され、人に晒され…親には罵倒や非難を浴びせられ…くたくたの中唯一の居場所である家すら汚れ、それを眺める俺の心も穢されてしまう…。


 もしこの唾のような体液が本当に人間の唾で、俺に散々侮辱した奴らのものならば…俺はもう我慢ができないかもしれない。


 拭き取る度に苛つく煙草の似た臭いも…。


 汚い食べカス。


 それに吸い寄せられる蝿共。


 その蝿共を集る溝鼠の群。


 溝鼠を喰らいつく害鳥。


 害鳥を狙い定め、貪る泥臭い野良猫。


 そしてその野良猫には同情する癖に俺の今の異常な状態を信じてもらえずに軽蔑する民衆群。


 全てが汚らわしい…穢らわしい…。


 知能が高ければ高いほど、目の前にこの世のものとは思えない異常事態が起きるとその現象自体を即否定して、相手がおかしいと罵ってくる。


 おかしいのは本当に俺なのか?


 この状況は自然なのか?


 煙草の黒い灰が散らばってるこの液体が?


 明らかに人が食した米やパンの食べカスが付いてるこのベッタリとした液体が?


 本当に自然の摂理で付着する様なものなのか?


 それも家の窓全部に…。


 もしそれが人としての常識に成り代わっているなら、それはもう自然の成り行きとして受け止めなければならないのかもしれない。


 そう思うと、矢張り俺が罵倒を浴びせられた翌日にこの現象に苛まれる状態も、自然の摂理として受け入れなければならないのか…。


 しかし何故俺なんだ。


 他の人間も罵倒や非難なんか幾らでも浴びせられる筈なんだ。


 それも俺以上に世間では相当の数の人間に唾を吐かれても仕方ない人間なんてゴマンといる筈なんだ。

 

 だが…そんな奴等の家の窓には唾が付いてるなんて聞いたことがない。


 隠しているのかもしれないが噂も聞かないし周囲の反応がそれが本当の常識ではない事も伺える。


 あぁ…窓が汚い。


 綺麗な秋空が見えない。


 不潔で汚い唾液の泡がぱちぱちと弾けていく。


 どろっと窓を這いずるように垂れる。


 気持ち悪い…。


 本当に汚い…。


 家も汚れ、俺も穢れていく…。


 だがこれがこの家の…この俺の自然の摂理として設定されてしまっているなら…。


 それに従うのもまた自然の摂理であり、俺としての常識に入っていくのであろう。


 なら…受け入れるしかない。


 これがここの現実だと。

 

 だがそれで納得はできない。


 他人の唾だけで俺の唾がないのは違和感ある。


 だから、俺もこの家に唾を付ける。


 外側ではなく内側から、罵倒を浴びせると共に唾を吐きかける。


 口から思いっきり出た唾は窓に付着して、そのまま重力に従って地面に向かって垂れてゆく。


 怒りや恨み、ストレスを他人を罵ることで発散させる…それはとても気持ちが良いのかもしれない。


 しかも罵る相手が、周囲から同情できない位の狂気を含んでいると共有され、誰からも非難の目で見られる存在…即ち罵倒しても周囲は被害を浴びないどころか、寧ろ互いに気持ちを合わせる事で起きる共感し、共有し、共鳴してチームとしての絆や信頼を高める為のターゲット…生贄に捧げられる。


 今回の件もその生贄が俺にされてしまっただけのことだ。


 少し現実とかけ離れた出来事が身内にも起きると心配もせず叱り、憐れむ親も大概だ。


 だから俺自身が嫌になった。


 ここまで自己を非難されればそりゃ自暴自棄にもなってしまっても仕方ない。


 だから俺も唾を吐く。


 自身の住処であり拠り所であり、この誰かも知らぬ唾から俺を守っている我が家の窓に…俺は唾を吐いた。


 


 

 


 

 


 


 


 


 


 



 


 


 


 


 


 


 

 


 


 

 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

 

 

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