異世界でマフィアの兄弟に囲われています

トヨヤミ

第1話 出会い

 眩しいライトが見えた。

 ステージのような場所にいた。

 目の前に沢山のテーブルと椅子。上等な身なりの客たち。

 ここがどこなのか、なんなのか全くわからない。

 思考も靄がかっていて、今日のことすらろくに思い出せなかった。

「次の商品はこちらです。

 金髪真紅の瞳の美しい青年。

 年は二十歳。

 もちろん初物です」

 ぐい、と首に嵌められた首輪につけられた鎖を引っぱられた。

 立つことも出来ず、ステージの上に座り込む。

 ここ、どこだ?こいつらなんだ?

 商品?なんの話してる?

 なんで私ここにいるんだ?

 なにもわからない。考えようとしても身体が熱くて息が苦しくて、思考も呑み込まれていく。

 司会者らしいヤツの言葉で、会場にいるヤツらから口々に数字が飛んだ。

 あれ?これって、オークション?

 こいつらが言ってんのって値段?なんの?

 駄目だ。考えようとしてもすぐになにもわからなくなる。

 一際大きな額がその場に響いた。やけに通る若い男の声。

 ざわめきがその場に広がる。

「それ以上出せる者はいないだろう?

 成立だな。

 それは俺がもらう」

 うっすらと笑った男が目の前に立っていた。

 優男風だが体格はそれなりに良い、甘い色香を漂わせた美しい男。鮮やかな顎あたりまでの長さの紫の髪と、紫水晶のような瞳が印象的だった。

「雨龍」

「はい」

 彼がそばに控えていた16歳ほどの青年に指示を出すと、青年がこちらに手を伸ばした。

 軽々身体を抱き上げられる。

 首輪を外され、そのまま青年によって外まで運ばれる。

 そのころには視界もぼやけていて、ここがどこなのか認識する力もなかった。

 ただやけに鮮明だったのは、髪を撫でる誰かの手。

 その記憶を最後に、意識は途切れた。




「ひどいことをしますね。ドラッグまで使うなんて」

「薬の効果はすぐに切れないだろう。

 辛いと思うし、このまま眠っていてくれればいいんだが」

 帝都ていとにある大きな邸宅。

 庭園に囲まれた邸宅の屋敷の広い部屋に、彼らはいた。

 この国でも屈指の名家であり、大企業グループをまとめあげる苗家。

 紫髪の青年、ミャオ蒼龍ツァイロンはその家長だ。

 そして裏の世界でも広く名を轟かせる大組織「苗一家ミャオファミリー」のボスでもある。

 そばに控えるのは同じく耳あたりで切りそろえられた紫色の髪に琥珀色の瞳の18歳ほどの青年。名を苗雨龍ユーロン。蒼龍の弟。組織の幹部であり、蒼龍の部下だ。

 彼らは室内に置かれた寝台の上で眠る青年の姿を見つめていた。

 腰までの長い絹のような金糸の髪、瞼で覆われているのは蠱惑的な緋色の瞳。中性的な美貌の痩躯の美青年だ。

「身柄はわかったのか?」

「わかりません。

 あのオークションのバイヤーにも調査をしましたが、オークション直前に見つけて攫ったと」

「そうか…」

 まあ詳しく調べてみないとわからないな、と蒼龍は言う。

「見目の良い人間を攫って売るのはよくあることです。

 彼もその犠牲者かと」

「そうだな…」

 蒼龍は椅子から立ち上がると眠っている青年の頬に触れた。

 光に煌めく金色の髪、眠る顔はあどけなくも美しい。

「確かに、綺麗な男だ」

 儚げな容貌。華奢な身体。白磁の肌。

 どれも金持ちが好みそうな容姿だ。

「にしても、兄上が珍しいですね。

 普段ならあんな億単位の大金出してまで助けないのに」

「…少しな」

 雨龍の言葉に蒼龍は妖しい笑みを浮かべて答えた。

 はっきりとした理由なんてわからない。

 ただ一目見た瞬間に、身体が勝手に動いていた。

「…っ」

「目覚めましたか?」

「……………ぁ」

 かすかに声が漏れて、青年が震える瞼を開いた。

「大丈夫か?

 気分は?」

「…………………」

 青年は瞼を開けると、覗き込んだ蒼龍をぼんやり見上げた。

 魅入られそうになるくらい、綺麗な瞳だ。

 深い炎のような、透き通った瞳。

「………こ、こは……?」

「ここは俺の屋敷。

 危険なことはないから安心していい」

「…………ど…して…」

 青年はまだ状況を把握出来ないらしく、かすれた声を漏らす。

 そもそもなにが起こったのかもわかってないかもしれない。

「落ち着いて聞いてくれ。

 君は売られていたんだ。

 それを俺が買った。

 だからなにも気にせずここにいるといい」

「………………売られ……?」

「なにがあったか、思い出せるか?」

 蒼龍の優しい言葉に青年は眉を寄せ、記憶をたぐろうとする。

 だが靄がかって、なにも思い出せない。

 唯一思い出せたのは、あの血まみれの。

「………っ!!」

 気を失う前のことを思い出し、青年は飛び起きた。

 くら、と眩暈がして倒れ込んだ身体を蒼龍が抱き留める。

「大丈夫か?」

「…っ…私…っ…、私の親は…!?

 父さんと母さんは…!?」

「………なにかあったのか?」

「…っ…二人とも、血まみれで、倒れて」

 月は蒼龍の服を掴んだまま、瞳を限界まで見開く。

 覚えてる。

 久しぶりに帰った実家で見たものは、血の海に沈んだ両親の姿。

「…………死…んだ………」

「そうか…」

「……………………」

 ショックで凍り付いた青年の蒼白な顔を、蒼龍は痛ましげに見つめる。

「………なんで…」

「…それは俺にはわからない」

 青年は茫然としたまま、蒼龍の服をきつく掴む。

 その手が震えていた。

「……っ」

「大丈夫か?」

「……………」

 蒼龍の胸に寄りかかった青年の身体はひどく熱かった。

 服越しでもわかる。汗ばんでいる。

「……っ……な、んか、へん…っ」

 なんか、変だ。身体が熱い。手足が震える。

 蒼龍が頬に触れた瞬間、びくん、と身体が跳ねた。

 身体を走った電流のような刺激に、声が零れる。

「……っぁ……」

「……強い薬を使われたな。

 ひどい真似をする」

「……ぁ……っ」

 青年はは、は、と荒く息を吐き、自分の身体を抱きしめる。

「大丈夫なのですか? このままで」

「大丈夫じゃないだろうな。

 薬の効果が切れるまでまだ時間がかかるだろう。

 その間、放置しておくわけにいかない」

 雨龍の問いかけに蒼龍はそう答え、青年の頬に触れる。

 青年の手は震えてろくに力が入らないまま、蒼龍の服を掴んでいた。

「…な、に……?

 からだ、へん…っ」

「すまない。

 辛いと思うが、ほかに方法がない。

 許してくれ」

「………ぁ……?」

 ほかの方法はないし、放置しておくわけにいかない。

 それでもその手段を選んだのは、単純に自分が彼に触れてみたかったからかもしれない。




「ぁ、やあっ、あっ…」

 戸を閉め切った室内に、湿った空気とかすれた声が満ちている。

 寝台の上にいる青年の身体にはシャツ一枚が腕に引っかかっているだけだ。

「ひゃあああっ、あ、あっ、ん…っ」

 青年の白い足の間にいる蒼龍が細い足首を掴み、更に開かせる。

 先ほどから青年の奥に埋まったままの性器が抜き差しされるたび、ぐちゃぐちゃと卑猥な音が響いた。

「ぁあっ、あっ、やぁっ」

 薬の効果のせいか、初めて男に抱かれるはずの青年の身体は快楽に蕩け、揺すられるたびに甘ったるい声が溢れた。

 同じ室内にいた雨龍が思わず唾を飲み込む。

 女を抱いたことならばある。けれど、ここまで興奮したことはなかった。

 蒼龍に犯されて泣きじゃくる青年の姿が今までに見たどんな女より艶やかでいやらしく、欲をひどくあおった。

 汗に濡れた白い肌も、揺れる金色の髪も、涙に濡れた顔も、なにもかも綺麗だった。

「んあっ、あっ、やっ、やだっぁ…っ」

「大丈夫だ。

 薬のせいだ。君は悪くない」

「あ、あっ…やっ、こわ、こわい…っ」

 なにをされても感じすぎてしまい、怖いのだろう。

 泣きながらかすれた声を漏らす青年の身体を蒼龍が抱きしめた。

「怖くない。大丈夫だ。

 ただ感じていればいい」

「…っん、んぅ…っ」

 手をシーツに縫い止められ、そのまま口づけられる。

 青年は涙をぱらぱら零しながら、ただぎゅっと目を閉じて受け入れる。

 雨龍は壁により掛かったまま、息を吐き出す。

 なんだか身体が熱い。息が苦しい。

 あの白い身体に触れて、思う様突き上げてしまいたい。

 正直、男にこんな欲情するとは思わなかった。

 青年を抱く兄の顔をふと見ると、苦しげに眉を寄せていた。

 その頬がかすかに赤い。

 きっと自分も同じ、欲にまみれたそんな目で彼を見てる。

「…困ったな」

 そう雨龍は呟く。

 その視線は熱く、彼だけを映していた。




 眩しい朝陽が射し込んでくる。

 青年はゆっくり瞼を開け、ぼんやりと天井を見上げた。

「…………?」

 あれ、ここ、どこだ?

 知らない天井だ。知らない、部屋。

「…っ」

 身体を動かそうとした瞬間、腰やあらぬところがずきりと痛んだ。

「………ぁ」

 ああ、そうだ。思い出した。

 昨日、自分は売られて、それで、男に抱かれた。

 自分を買ったと言ったあの蒼龍という男に。

 薬で朧気な記憶でもわかる。何度も、抱かれた。犯された。

「……っ」

 ああ、なんでこんなことになったのだろう。

 本当なら久しぶりに親に会えるはずで、久しぶりに家族でどこか行きましょう、なんて母も電話で言ってて。

 でも、もう、いないんだ。

 母も父も、どこにもいないんだ――――…。

「…………」

 涙が溢れてきて、頬を伝う。

 なのに未だに両親の死を、現実のものとして認識出来なかった。

「あ、起きたんですね」

 不意に戸が開いて見覚えのある男が入ってきた。

 18歳ほどの紫髪の青年だ。

「大丈夫ですか?」

 彼は心配そうな顔をして近寄ってくる。

 青年はぐい、と涙を手で拭うと、どうにか起きあがろうと手に力を込めた。

 しかし全く力が入らない。

「ああ、無理しないでください。

 動けなくても仕方ない」

 彼はそばに立つと青年の身体をそっと抱き起こした。

「大丈夫ですか?

 気分とか」

「………だいじょうぶ、です」

 声が少しかすれていて、彼が気遣わしげに自分を見た。

「……あの、ここは…?」

「ここは僕たちの家です。

 苗一族ミャオファミリーの本家のアジトと言ってしまえばわかりやすいでしょうか」

「苗…?」

「この嬰国えいこくの半分を牛耳る組織であり、一族です」

「…嬰国…?」

「ご存じないのですか?

 もしや異国の方?」

 知らない国の名だ。そもそも自分の世界にそんな国の名はない。

 だが目の前の少年と青年の境界の男の衣装は中国の民族衣装によく似ていた。

「あなたは…」

「僕はミャオ雨龍ユーロン。苗一族のボス、蒼龍の弟です」

「…蒼龍?」

「覚えていませんか? 昨日…」

 その言葉に一瞬で理解する。昨日自分を抱いた男だ。

 理解して、青年の頬が羞恥で赤らむ。

「その顔を見ると、覚えているんですね…」

「…ぁ…」

「あれは薬のせいです。

 あなたはなにも気にしないで」

「…………」

 そんなこと言われても気になる。忘れるなんて無理だ。

 そう顔に浮かんでいたのだろう。

 彼は困ったように笑って「すみません。無茶を言いました」と告げた。

「僕は蒼龍の弟であり部下です。

 あなたの世話を頼まれている」

「…………あ、」

「なんだ?」

「…私、あいつに、買われたって…」

「ああ」

 雨龍は柔らかく笑って「それは今のところ気にしないで」と言った。

「全部一気に理解しようとすると身体を壊します。

 今は、目の前のことだけ把握していればいい」

 雨龍は優しく手を握って微笑みかける。

「……………」

 いいのだろうか。それで。

 でも正直、親が殺されたということと、男に抱かれたということだけで頭が一杯だ。

 これからどうしたらいいのかもわからない。

「とにかく、あなたを風呂に入れなければ。

 一応身体は拭きましたが、気になるでしょう」

「…ぁ……」

「僕が運ぶから気にしないでください」

 雨龍はそう言うと青年の身体に腕を回し、ひょい、と抱き上げた。

 青年は慌てて雨龍の服を掴む。

 雨龍の身体は細身で、自分より小柄だ。

 なのになぜこんな力があるのか。

 華奢とはいえ180センチはある青年の身体を軽々抱いて部屋を出ていく。

 シャツ一枚に包まれた青年の身体を横抱きにして長い廊下を歩き、浴室らしき部屋の扉を開けた。

 やたらと広い浴室だ。浴槽は男が五人一緒に入っても余裕があるくらいだ。

 雨龍は青年の身体を降ろすと浴槽の縁に座らせ、シャツのボタンに手を掛けた。

「あっ…」

 反射的に手で押さえた青年の顔は赤らんでいる。

「気にしないでください。

 昨日散々見ました」

「…っ」

 昨日抱かれている姿を見られたと知って、青年の顔がますます真っ赤に染まった。

 泣きそうな顔をした青年に雨龍はかすかに眉を寄せ、手早くシャツのボタンを外して脱がせる。

 どうかしてるな。こんな寄る辺ない男に欲情するなんて。

 さっきの顔に、昨日の彼の姿を思い出して欲が煽られる。

「じ、じぶんで…っ」

「自力で立てないくせになにを言ってるんです」

「…っ」

 自分で洗うと言いたかったけど、手足に全く力が入らない。

 青年は雨龍の腕に抱きかかえられ、そのまま身体にシャワーの湯を当てられた。

 雨龍の服も濡れるが、彼は気にしていない。あとで着替える気なのだろう。

 白い肌には跡は一つもない。

 想像以上に滑らかで柔らかな肌を洗いながら撫で、雨龍はなるべく意識しないように努めた。

「…あとは…」

「っ…!?」

 雨龍の手が足の間に伸びる。青年が目を見開き、息を呑んだ。

「な、なに…っ」

「一応掻き出しましたが、ちゃんと綺麗にしないと駄目でしょう」

「い、いいっ…」

 そんなところ、人に洗われるなんて堪えられない。

 泣き出しそうな顔で首を左右に振る青年の身体を抱きしめ、雨龍は「いいからじっとしていて」と耳元で囁いた。

「んっ…」

 くちゅ、と中に入り込んできた長く太い指先に、青年が身体を震わせた。

「ぁ、あっ…」

 青年の細い身体を逃がさないよう抱いて、なるべく事務的に指を動かす。

「っぁ、あ、…っ」

 青年は身体を跳ねさせながら、力の入らない手で雨龍の腕にすがりついた。

「っん…ぅ…」

 昨日散々男を受け入れていた箇所は些細な刺激でも感じるらしく、青年は身体を小刻みに震わせ、かすれた声を漏らす。

 耳元で響くその艶のある甘い声に、雨龍は苦しげに眉を寄せた。

 中を思い切りかき回して鳴かせてしまいたい、という欲望がわき上がってきて、堪えきれずに中に入れていた指を曲げて、強く擦った。

「っゃあああっ!」

 案の定青年はびくん、と身体を跳ねさせ、悲鳴のような声を上げる。

「あっ、あ、あん…っ、ゃあっ」

 ぐちゃぐちゃと中をかき回すたび、甘ったるい声があふれ出した。

 雨龍の身体にすがりついて鳴く青年の瞳からは涙がぼろぼろと零れている。

「…っ」

 雨龍はごくりと唾を飲み込み、身を襲う衝動を必死で押しとどめる。

 さすがに身体を繋げることは許されない。

 彼の身体が保たないし、蒼龍も怒るだろう。

 それに親を失ったばかりの相手を自分の欲望のままに犯すことは出来なかった。

 とはいえ、青年の性器は勃起している。

 一度イカせてやらないと辛いだろう。

「…ぁっ、あ、ひゃあっ」

「少し我慢して」

「やああっ」

 雨龍は青年の身体を支えながら性器に手を伸ばし、中をかき混ぜるのと一緒に扱いてやる。

「ぁ、やっ、あ、ああっ」

 青年は大きく身体を震わせ、すぐに達した。

 吐き出された精液は薄く、量も少ない。昨日あれだけ抱かれれば当然だ。

 シャワーで洗い流し、青年の身体を抱き寄せると、程なく啜り泣く声が聞こえてきた。

「…っ…ふ……ぅ」

「…すみません。

 やりすぎました」

「…っ……」

 雨龍は素直に謝り、泣きじゃくる青年の身体を抱きしめ、髪を撫でてやる。

 青年は雨龍の身体にすがりつき、ただ泣いていた。

 ひっくひっく、としゃくり上げる青年の頬を手で拭い、優しく額に口づける。

 何故かそうしたかった。触れたかった。

 青年はほろほろ涙を零し、雨龍にされるがままだ。

 雨龍は細い身体を抱き、彼が落ち着くまでそうしていた。




 青年に服を着せて、自分も服を着替え、先ほどの部屋に連れて戻る。

 寝台の上に降ろすと、青年が不安げに雨龍を見上げた。

「私は、どうなるのですか…?」

「ここにいてもらいます。あなたを買ったのは兄上ですから、あなたは兄上のものです」

「…あの人の」

 青年はシャツに包まれた自分の身体を抱きしめ、蒼龍の顔を思い出す。

 優しい男だった。でも、

「…ここは、嬰国だと聞きました。では、日本という国はありますか?」

「ニホン? …いえ、聞いたことがありませんが」

「…聞いたことがない?」

 雨龍の返答に青年は戸惑う。

 日本は曲がりなりにも経済大国だ。それを知らないというのは、まずあり得ない。

 そもそもここは一体なんなんだ?

 嬰国なんて知らない。でも屋敷の内装も雨龍や、自分に着せられた装束も中国の民族衣装に酷似している。

「では、中国という国は?」

「知りませんが…」

 雨龍の言葉に、ありったけの覚えている世界の知識を口にした。

 だが雨龍から返ってくるのは「知らない」という返答ばかり。

 じゃあ、ここは一体どこなんだ?

 自分のいた世界ではない?

 いや、自分はそもそもどうしてあそこにいた?

 確か、両親が殺されて、追ってきた黒服の男たちから逃げようとして道に飛び出したところで、トラックに、

 そこまで考えて流行だと社員に聞かされた本の内容を思い出す。

 トラックにはねられて異世界転生する物語。それはまるで、今の自分のようで。

 待て。オークションで自分を売っていた人間が、自分を「二十歳」と言っていた。

 だが自分は28歳だ。本来なら。

 けれどふと視線を向けた、部屋に飾られた姿見に映る姿はまさしく二十歳くらいの若者で、顔や髪の色、瞳の色は変わらないのに、年齢だけが違う。

 じゃあ自分は本当に、あのときに死んだ? その本のように転生した?


(じゃあ、ここは異世界…?)


 雨龍が嘘を吐いていないなら、そうなのだ。

「そういえば、あなたの名前は?」

「え」

「あなたの名前を、僕も兄上も知りません。

 教えていただけませんか?」

「名前…」

 聞かれて、名乗ろうとして愕然とした。

 自分の名前が思い出せない。

 いや、両親が殺されたことは覚えているのに、両親の顔も名前も覚えていない。

 自分がいた世界の知識はあるのに、自分が務めていた会社の名前も、なにも。

 黙ってしまった青年に、雨龍が戸惑う。

「どうか、したんですか?」

「…覚えて、ない」

「え?」

「覚えてないんです。

 私、自分が何者かわからない…」

 茫然と呟いた自分に、雨龍が息を呑む。

 不意に部屋の扉が開いた。

 姿を見せたのは昨日、自分を抱いた男。

 苗蒼龍。この苗一族の長だという男だ。

 昨日はよく見ている余裕がなかったが、改めて見ると人の上に立つ器量を生まれつき持った、そんな男に見えた。

「落ち着いたか?」

 寝台の上に座ったままの青年を見つめ、蒼龍はソファに深く腰掛けると足を組んだ。

「…わからない、ことが増えました」

「わからないこと?」

「兄上。彼は自分の名前も覚えていないそうなんです」

「名前も?」

 本人はそう意識しているのかわからないが、人に命令することに慣れた目をしていると思った。そんな視線で見つめられ、身をすくめた自分を見て蒼龍は「まあ、そういうこともあるか」と呟いた。

「そうなのですか?」

「昨日、お前が使われたのは相当強い薬だった。

 その後遺症かもしれない。

 両親のことは覚えているなら、一部の記憶の欠落だ」

「…一部の」

「しかし、呼び名がないのは困ったな」

 蒼龍は少し思案し、「わかった。俺が決めよう」と告げた。

「俺がお前の名を名付ける。

 お前はここで、その名で名乗れ」

「あなたの、つけた名で…」

「では、兄上。なんと名を?」

「そうだな…」

 蒼龍は顎に手を当て、考えた後立ち上がって寝台の上に座った青年のおとがいを掴む。

ユエ、だ」

「…ユエ?」

「そうだ。お前のこれからの名だ。

 そう名乗れ」

 蒼龍はそう告げて青年──月と名付けた男の金糸の髪をすくい取る。

「お前は月のように美しい。

 だから、そう名乗れ。いいな」

 そう甘い響きで囁いて、月の髪に一度口づけた。


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