泡沫の雨こむぎ その4
年が明けた。
大学入試の日程は瞬く間に過ぎていく。
3月上旬、受験した大学でのweb発表で凛子は合格を知り、数日後、ポストに届いた合格通知書を見て、ようやく受験が終わったのだと実感した。
高校生活はそれまでの人生と比較するならば遥かに「楽な」3年間ではあったが、それでも息苦しさからは逃れられなかった。親しい知り合い、それも「仲間」と呼べるような関係の友人でも居れば、その息苦しさもきっと違ったものに感じられたことだろう。それはわかってはいるが、凛子自身、そのような曖昧な関係には関心がなく、結局は独りで生きていくしかないのだと、歳に似合わない達観をしていた。
それでも大学生活には多少の期待もあり、とりわけ高ランクとされる場所であれば、集まる同世代にも「大人」が居るのではないか、自分のような扱いにくい人間にも隔てなく付き合える人物が居るのではないか、と考えてしまう。
「なんだかんだ気取ってても、つまるところは『寂しい』ってことなのね」
凛子は手にした合格通知書を見ながら、ついごちた。
そしてそんな自分に腹立たしい気分になり、首を振った。
3月も中旬になり、数か月ぶりに商店街を歩いた。
本当なら今頃はあのパン屋でバイト三昧だったはずだろうなと思い、あの夫婦ならきっと大学合格を共に喜んでくれたに違いないと想像したら、胸が痛くなってしまった。
お店の前で手を合わせるくらいはできるだろう、簡単な報告だけでもしておくべきだ。
そう思って、これまで意図的に避けてきた商店街への道を凛子は歩いたのだ。
かつて、賑わいのなかで無理な笑顔を貼り付けながら忙しく働いていたその店は、荒れ果てた廃墟になっていた。
愕然としながら言葉を失った凛子はなにもできずに立ち尽くしていた。
割られたガラスはそのままで、店の内部も風雨に晒され荒れ果てていた。バックヤードへ続くドアも剥がされ、かつて凛子が気合を入れていた鏡のかけらが床に散っている。なによりいかがわしい落書きがあたり一面に殴り書きされていることに、凛子はショックを受けていた。
(どうして…… こんなことに……)
あの夫婦が見たらきっと悲しむだろう、そう思うとわけもなく悔しくなり涙が溢れてきた。
「もしかして…… あのバイトのお姉さんかい?」
そう声をかけてくれたのは、あの時凛子を慰めてくれた隣のおばあさんだった。
凛子は涙を拭い、ご無沙汰しています、と挨拶をした。
「先日はお世話になりましたのに、お礼にも伺いませんで申し訳ありませんでした」
そう言う凛子に首を振りながら、「あんなことがあったんだから」と、気にしないように言ってくれるおばあさんがありがたかった。
そして誘われるままに家の中へ招き入れられた。
「そう! 合格できたのかい! 良かったねえ」
凛子がその報告に来たのだと告げると、おばあさんは我が事のように喜んでくれた。凛子はまた胸が熱くなる。
(最近、涙腺が緩みっぱなしだ、らしくない)
そう思うが、心の内には抗えない。凛子は何度も感謝の言葉を述べ、いつしかそれはパン屋の夫婦への感謝に変わって行った。
おばあさんは涙を溜めながら、そんな凛子を優しく見つめていた。
お茶を飲みながら少し落ち着いた凛子は隣家の荒れ具合について尋ねてみた。
おばあさんは言い淀んだ。
しかし、ためらいがちに少し遅れて話し出した。
「おばけやしきにされちゃったんだよ」と。
凛子はまたショックを受けた。
「それって、殺人現場だから……」
と絞り出すように言った凛子に、「それもあるんだけどねえ」と、なにか含んだ言い方で、
「若い人たちがね、肝試しって言って夜に騒ぎに来たのよ。私は怖くてねえ、警察には電話したんだけれど……」
それはそうだろう、老人一人では怖くて当たり前だ。むしろ警察に電話してくれたことが最善だ。
「で、おまわりさんに追い返されちゃったんだけれど、それからもこっそりやって来るようになったみたいでね……」
そう言いながら言葉を続けた。
「落書きしたり、他にもいろいろといたずらしたりしてたみたいでね、朝になるといつの間にか、前の日よりひどくなっていることが、よくあったの」
「商店街でも問題になってね、なんとかしなくちゃってみんなで決めたみたいなんだけれど……」
「身内の方とかに連絡は取れなかったんですか?」
凛子は口を挟んだ。言い方は悪いが事故物件だ、しかもあの荒れ方では潰して更地にした方が早いような気がする。身内ならそう考えるんじゃないだろうか、と思ったのだ。
おばあさんは首を振った。
「あの子たちには身内と呼べる人は居ないのよ」
そして立ち上がると、おもむろに箪笥から線香を取り出した。
「せっかくだから手を合わせていっておあげよ、あの子たちもきっと喜ぶわ」
そう言って勝手口へ向かって行った。
裏の路地へ出ると、隣家の裏庭が見えた。以前にマスミさんが居た裏庭だが、今は居ない。
しかしその裏庭も酷い荒れようだった。雑草が生い茂っているのは仕方がない。
ただ庭に投げ捨てられたおびただしい数の生活日用品が凛子の胸を締め付ける。
「ひどい……」
パン屋夫婦が食事に使っただろう茶碗や湯飲み、そして雑誌や、靴、二人の衣類までもが投げ捨てられている。
裏庭へ入り、泥に汚れた枕と思しきものに手を触れ、凛子は膝をついた。
あまりにもひどい、悲しすぎる。なんの恨みがあってこんなことが出来るのか……
縁側の足台に使っていたと思しきコンクリートブロックに置かれた線香立てに、おばあさんが線香を立てた。煙がゆっくりと立ち昇って行った。
凛子は黙って手を合わせ、合格の報告だけをした。 ……それ以上の言葉は思いつかない。
家の中に戻ると、おばあさんはお茶を新しく淹れなおしてくれた。
熱いお茶が冷え切った心を温めてくれる。
「片づけようとしたんだけどねえ、なかなか追いつかなくて……」
悲しそうな顔でおばあさんは言った。
凛子は思い切って聞いてみた。
「お二人はどんな方だったんですか? おばあさんはずいぶんあのご夫婦にお詳しいようですが」
自分は長期休みだけのただのバイトだったから、と付け加えながら、凛子はおばあさんを見つめた。
「あの二人はねえ、小さい時からこの土地に住んでいたのよ、ちょうどこの裏手の家にね」
おばあさんはゆっくりと語り出した。
ん? と凛子は思った。なにか、以前に聞いた話とは違うような気がする。
そんな凛子の懸念を察したのか、おばあさんは、
「あの事件の時はね、そんなに詳しくお話しするつもりもなかったのよ。だから他人事のように言っていたんだけれど…… あなたには知っておいてもらっても良いかもしれないわね、私ももう歳だから」
そして語られた話は、凛子にとっては、自身の幼少期の思い出を抉られる、とても苦しい話でもあった。
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