『寂しい人』第九章

鈴木 優

第1話

    『寂しい人』第九章

               鈴木 優


  ― 赦しの声は、風の中に ―


 彼は、彼女のノートを胸に抱いたまま、あてもなく夜の街を歩いていた。

 

 街灯が、彼の影を長く伸ばす。

 その歩幅は、もう誰かを待つためではなく、自分の足で未来へ向かおうとしたものだった。


 ふと、彼は立ち止まる。

 

 ノートの最後のページに記した言葉が、自分自身の胸の奥で静かに響いていた。


『あなたも、あなた自身を赦してあげてください。』


 その言葉は、自分に向けた祈りであり、彼自身がまだ辿り着けていない場所でもあった。


 彼は、ノートを開き直す。

 

 そこには、彼女が綴った未完のページがあった。

 文字は途切れ途切れで、まるで言葉にすることをためらっているようだった。


 私は、母の死を『事故』だと信じたかった。

 でも、それは私の逃げだった。

 母は、最後まで私を責めなかった。

 それが、余計に苦しかった。


『あなたは、あなたのままでいい』

 そう言ってくれた母の声が、今でも耳に残っている。

 でも、私はその言葉を信じられなかった。

 私は、母の期待に応えられず、苦しみに気づけなかった。

 

 私は——母を、救えなかった。


 彼は、ページをそっと撫でた。

 

 彼女の震える文字が、彼の指先に語りかけてくるようだった。


 その夜、彼は彼女の住んでいた町へ向かった。

 

 彼女の母が眠る墓地を訪れ、静かに手を合わせた。

 風が吹き、桜の花びらが舞った。

 まるで、彼女の声が風に乗って届いたようだった。


 翌朝、彼は彼女の旧い友人に会い、彼女が高校時代に書いていた詩のノートを見せてもらった。

 そこには、彼女の孤独と希望が、繊細な言葉で綴られていた。


『私は、誰かに見つけてほしかった。

 でも、見つけられるのが怖かった。

 だから、私は桜の木の下で、毎年ひとりで待っていた。

 誰かが来るかもしれないと、誰も来ないかもしれないと、それでも、私は待っていた。』


 彼は、その詩を読みながら、彼女の姿を思い浮かべた。

 

 あの桜の木の下で、折り紙の桜を手にしていた彼女。

 その笑顔の奥に、どれほどの痛みが隠されていたのだろう。


 数日後、彼は彼女に手紙を書いた。

 それは、彼女に届くかどうかもわからない手紙だったが、彼は書かずにはいられなかった。


『あなたが抱えていた痛みを、僕はすべて理解できないかもしれない。

 でも、あなたがそれを僕に託してくれたこと、それだけで、僕はあなたに出会えた意味を感じています。

 あなたが赦される日が来ることを、僕は信じています。

 そして、もしその日が来たら——

 また、桜の木の下で会えたら嬉しいです。』


 春は終わりを迎えようとしていた。

 

 彼は、桜の木の下に立ち、空を見上げた。

 

 花びらはもう散り際だったが、彼の心には彼女の声が風の中で静かに咲いていた。

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『寂しい人』第九章 鈴木 優 @Katsumi1209

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