第5話 帰縁
残された部屋で僕は座り直し、その紙を握ったまましばらく動けなかった。
復讐の是非を考えてみたが、結論らしいものが出てこない。
しかもこれは、僕が向き合うべきものじゃないだろ──
「櫻井総合病院か……」
僕は内ポケットから、個人端末を取り出した。
番号を押すと、母がすぐに出る。
『どうしたの? 仕事中じゃないの?』
「お母さん……ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
声が
「僕ってさ……昔、甲状腺の病気だったよね?」
『ああ、そうよ』
母は懐かしそうに声を和ませた。
『小学一年生でバセドウ病って診断されてね。薬で落ち着いてはいたけど……半年ごとの検査、大変だったわねぇ。あなたも小さいのにがんばってたわよ』
胸の奥が少し温かくなる。
でも、訊きたいのはそこじゃない。
「その……中学の頃まではずっと櫻井総合病院で診てもらってたよね?なのに、高校入る前の“最後の検査入院”から、都会の病院に変えたじゃん。……あれ、なんでだっけ?」
母は『ああ〜』と柔らかく声をあげた。
『あったあった。……そういえば、あなたには言ってなかったわね』
そして、何気ない調子で言った。
『
僕は思わず、二人が出て行ったドアを見る。
「……電話?」
『そう。とても礼儀正しく“朝比奈くんと一緒にクラス委員をしています”って自己紹介してきてね』
母は続けた。
『それで、確かこう言ったのよ。“朝比奈くんが今度検査入院をするって聞きました。でも──櫻井総合病院だけはやめてください”って。大人みたいなしゃべり方するなって思ったのよ』
喉が乾く。
『そうは言っても、もうずっと櫻井総合病院にお世話になってたでしょ?聞き流していたんだけど、でも数日後に……ほら、
僕はもう言葉が出なくなっていた。
『怖くなっちゃって、半年以上前から予約してた検査入院をキャンセルしたの。それで別の総合病院に変えたのよ』
母の説明が一旦途切れたあと、受話器の向こうから父の声が小さく聞こえた。
『……おい、お前。あれも伝えた方がいいんじゃないのか?』
『え? どれよ?』
『ほら“転院を勧めた事は誰にも言わないでくれ、でもいつか息子さんが聞いてきたら、僕が言ってたって伝えてくれ”って——』
『あら!あなたよく覚えてるわねぇ。私すっかり忘れてたわよ』
「もうお父さんの声、聞こえたから大丈夫だよ」
必死に落ち着いた声を作る僕に、母が明るく言った。
『とにかく、あなたが健康で、普通に過ごしてくれていれば……それだけでお父さんもお母さんも嬉しいのよ』
その言葉に「うん」と返して、通話を切った。
それと同時に、面談室の端末が「利用時間の終了五分前です」と告げた。
延長ボタンを押す。
座ったまま窓の外に目を向けると、
「ここからも、見えるのか」
ふと、声が漏れた。
——あの子を、最後まで一人にしなかったんだな。
胸の奥で、そんなことを思う。
自席に戻ると夕方になっていた。
同僚がこちらを見て、気まずそうに眉を上げた。
「犯罪に巻き込まれかけたな。まぁ、気にするなよ」
面談室での騒ぎは、局内中に知られているらしい。
「ありがとう」
そう返して、椅子に腰を下ろす。
端末に向かい、帰還記録と面談の経緯を淡々と打ち込んでいく。
そう、いつもの形式、いつもの言い回しで淡々と——
ひととおり書き終え、内容を確認すると、背もたれに体を預けてひとのびした。
頭の奥に残っていた緊張が、少しだけほどける。
そう、この世界は何事もなかったように動き出す。
でも——その片隅で、僕も動き出さなければいけない。
何度も握り直したせいで、くしゃくしゃになった紙片をポケットから取り出し、それを端末の横に置く。
『とにかく、健康で、普通に……僕も、ずっとそう思ってたけど——』
心の中、言葉の残りを飲み込んで画面に視線を戻した。
フォームを立ち上げ、件名欄にゆっくりと打ち込んでいく。
——
本文に入った途端、指の動きが早まる。
用意されている
「……ハッピーエンドに、一役買おうじゃないか」
たったそれだけのことだ、名脇役になってやる。
そう決めた時——
遅れて走ってくる俊健くんに、ふたりが手を伸ばしている景色が浮かんだ。
その少し後ろで、自分もそっと彼の背中を押せたような気がして、誰にも気づかれないように笑った。
バイプレイヤー 晴久 @nanao705
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