第1章「地下への落下」
シアを連れ出すのは、奇妙なほど簡単だった。
都市中枢区画。
白一色に塗られた管制室は、まるで微生物を育てる培養皿のように清潔だった。
壁に埋め込まれた数百本のシリコンケーブルが、脈動するように光っている。その光が反射し、部屋全体がぼんやりと発光しているようにさえ見える。
中央に、シアは座っていた。
白い椅子。白い服。白い壁。
すべてに溶け込み、まるでショーケースの中に閉じ込められた精巧な人形のようだった。
レンが侵入しても、彼女は叫ばなかった。
恐怖のアイコンすら浮かばない。
ただ、色の薄い瞳で、ゆっくりと彼を見つめただけ。
レンはリンクを使わなかった。
代わりに、掠れた声で、震えながら言った。
「……君を、壊しに来た」
その声は、無菌室の空間では異物そのものだった。
シアの首元のデバイスが、理解不能な音声としてエラー信号を点滅させた。
彼女は微かに首を傾ける。
レンはその細い腕を掴んだ。
シアの肌は陶器のように冷たい。
人工空調の中で育てられた体は、外界の温度変化をほとんど知らない。
「行くぞ。君を連れ出す」
非常用シャフトを滑り降りる。
二人の影が白い壁に長く引き伸ばされ、次の瞬間、暗闇へ飲まれた。
地上の眩い光は、階段を五段降りるだけで完全に姿を消す。
空気は埃の匂いを帯び、湿気が肌にまとわりつく。
シアは初めて咳をした。
人工的に維持されていた気道が、汚れた空気に刺激されている。
「苦しいか?」
レンが尋ねても、彼女は首を小さく横に振るだけだった。
その反応が、あまりにも人間らしく、レンは胸の奥がざわついた。
レンの隠れ家は、かつての地下鉄の変電所跡だった。
太いケーブルが壁を這い、巨大な変圧器が朽ちかけた姿で鎮座している。
油の染みた床には水が溜まり鉄の匂いとカビ臭さが混じった重たい空気が漂う。
レンは部屋の隅から、埃をかぶったケースを引きずり出した。
中に入っていたのは――ギター。
木と金属。
旧時代の遺物。
この都市では、既に意味を失った「音を出すための道具」。
シアは後ずさった。
AR表示には、見たことのない形状の未知物体に対する《危険(Red)》が点滅しているはずだ。
「聞いてくれ。これが、本当の世界の音だ」
レンが弦を弾く。
ギャァン――!
耳を切り裂くような金属音が、地下室の空気を震わせた。
それは、音楽とは呼べない。
チューニングも狂い、弾き方も雑。
ただの物理現象だ。
しかし――その無機質な衝撃は、シアの身体を直撃した。
彼女の肩が跳ね、肺が勝手に大きく震えた。
鼓膜がびりびりと震え、皮膚が粟立ち、脳内のリンクが警告音を鳴らす。
痛い。
不快。
野蛮。
なのに――胸の奥が熱くなる。
「見ろよ、シア! 君は震えている! それが『感じる』ってことだ!」
シアの目から、透明な液体がこぼれ落ちた。
それは《悲しみ》のアイコンとは違う、生理的な涙だった。
初めて、彼女は「自分の身体が世界に触れている」ことを理解した。
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