少年、冬の陽
佐藤アサ
「え」
冬の、陽のひかりは、白々として薄くて繊細な気がいつもしていた。
今まさにこの教室へ入り込んできている、斜めからの、ぬるい明るみも同じ。
連想するのは、昔、実験に使ったプレパラート。顕微鏡で間違えて、割ったことがある。
乾いた音だった。
ぱきん。
あの日あのとき、理科室、簡素な記憶。
だのに揺り返されるように、焦った心地だけがクリアに蘇った。
これが噂の既視感、と思ったのは数瞬で、あとはそんなものを遥かに通り越してしまって得体の知れない熱だか動悸だかでわけがわからなくなる。
「え、ええと、えー……、っと、それ、お、おれ? おれなのか?」
「『おまえから』、そう付け加えてくれるんだったら、間違いないよ。事実、向いているのはおれからおまえ、だよ。これは確かだ」
冷たい空気の、地学室。
教材の片付けの当番が回ってきて、たまたまふたりだけで残っていて、ほんの今さっき。
数分前のこと。
だのにもうそれだけで、すっかりと一転して、前のようには戻れない、出来事。
「あ、つまり、やっぱり……、おまえからおれ、なわけ、ね」
「急に言って混乱させたのはおれが悪かったよ。それは本当に謝る」
目に入ってくる、もの。
教卓の上の、クラスメートから回収したレポート用紙の束。
チョークの砕けた粉。
普段の教室とは違う形状、四人で共有するタイプの広い机。
背もたれのない椅子。
埃っぽい匂い。
閉められているのに隙間ができている、扉。
ぶ厚い地層の断面を描いた、陽に焼けて色がくすんでしまったポスター。
友達、去年からクラスが同じになって『クラスメイト』より親しくなった『友達』。
つい数分前まで『友達』だった、相手。
その手のひらに収まっている、三球、太陽と月と、地球の、天体儀。
天体儀は、小さなモーターで廻る。
宇宙の模型。
太陽と、地球と月、必要以上に近寄らないし遠退かない、遥か昔から保たれている距離。
延々、くるくると、耳に障るさざめく音を立てて動き続ける。
投げるしかなくなっていた視線を視線で拾われて、そうして、言われた。
「1億4959万と7870キロメートル」
「え?」
「太陽と地球の距離。見てただろ、今、これ」
「何、そんなの……、憶えてるんだ?」
「そう。天体のことは、まあまあ頭に入れてる」
好きだから、そう続けられた途端に心臓が跳ね上がる。
落ち着け。
今のは、言葉の、言葉の響きの、せいだ。
おれはどうしたいんだ? 自問する。
誤魔化す。逃げ出す。突っぱねる。受け入れる。頷く。保留する。否定する。逸らす。肯定する。怒る。喜ぶ。無視する。笑う。騒ぐ。黙る。歩み寄る。等しくする。理解する。
選択肢は浮かぶ、けれど全部、違う気がする。
惑う。
惑っている。
それは、事実で、本当だ。
まず嬉しいのか嫌なのか、それすらも、自分でさえ判別ができない。
さらにその向こう、つまり相手に対する自分の感情、どうかたちにすれば伝えられるのか考えも及ばない。
何を思っていたっけ。
どう想っていたっけ?
自分で自分の胸の内を、探る。
口からこぼれ出るのは、どうでもいいような、それでいて何か大切なような、声の欠片だ。
「遠い、よな。なんかその、1億キロだっけ? でかすぎて、よく、わかんなくないか?」
そうだ。
太陽と、地球、その距離みたいに。
ずっと変わらずに、交わらないし触れもしないし、そういうふうには、考えていた。
漠然として掴みどころのない、しかし心地のいいものだとばかり。
無意識で、今までそうだと決めていた、ように感じる。
けれど、違ったんだろう。
小さく、笑われた。
「確かに、距離だとわかりにくいな。それなら」
「……、……うん」
「8分19秒。これは、わかると思う」
「時間……?」
「そう。太陽の光が、地球に届くまでの時間」
8分19秒。
彼方のような場所で生まれたものが、たったそれだけの時間で、ここまでやって来る。
言った。
「知らなかった……」
だから、もっと教えて欲しいのか、無知なままでいいのか、その結論は出せない。
壁掛けの時計。
長い時間が経った心地でいたのに、長針は細かな目盛で五つ分しか動いていない。
秒針が規則正しく弧を描いて進んでいく。
窓の外、校庭で誰かが何かを叫んでいる声がする。
そういえばいつの間にか全て落ちていた、植えられている木の、葉たち。
今日は快晴。
風はない。だから雲も流れてはこない。
陽のひかりは遮られず、断たれもせず注いできている。
儚くて弱いようなのに、長く浴びていた手の甲が淡くあたたまる。
飽きもせず、天体儀は稼動し続けている、止めなければ電池が尽きるまで同じだろう。
『友達』だった相手は、こっちを静かに見つめてきている。
自分は、まだ、惑っている。
太陽から地球までの距離は、光の速度で8分19秒。
好きだと思ってた前から、と打ち明けられたのが、5分前。
その瞬間にできた光がここに届くまで、残り3分と少し。
わずかばかり、でも、ほんの少しある猶予。
そっと瞼を閉じてみた。
皮膚を透かして、冬の陽は明るい。
少年、冬の陽 佐藤アサ @sato_asa
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