第41話 地下防衛戦と、最強の「入浴客」

「不潔! 不潔不潔不潔ゥゥゥッ!! 私の神聖なスパになんてものを持ち込むのよ、あの汚物教師ィィッ!!」


 地下スパの更衣室に、私の絶叫が木霊した。


 今、私の目の前には、この世の終わりのような光景が広がっている。

 壁の通気口、床下の配管、ありとあらゆる隙間から、黒い濁流のようなネズミの群れが溢れ出していたのだ。


 チュー、チュー、ガリガリガリッ!


 赤く発光する目。

 科学薬品とドブ川を煮詰めたような悪臭。

 そして何より、私のピカピカに磨き上げたフローリングを、汚れた足で踏み荒らしていくという冒涜行為!


「許さない……! ここは私の城よ! 私の老後資金を生み出す楽園なのよ! 一匹たりとも生かして帰すもんですか!」


 私はモップを薙刀のように構え、戦闘態勢に入った。


「ぷるんちゃん! プランB『超強力ゴキブリホイホイ作戦』決行よ!」


「きゅイッ!(ラジャー!)」


 私の号令と共に、黒いスライムの相棒が弾け飛ぶ。

 ぷるんちゃんは体を薄く、広範囲に広げ、床一面を覆う『粘着質のカーペット』へと変形した。


 ベチャッ、ベチャチャチャッ!


「チュ!? チューッ!?」


 先陣を切って飛び込んできたネズミたちが、次々と黒い粘液に足を取られて転倒する。

 ぷるんちゃんの進化した粘液は、一度触れたらドラゴンでも剥がせない(かもしれない)超・強力接着剤だ。


「いいわよぷるんちゃん! そのまま拘束して、胃袋(ディメンション)に収納しちゃって!」


「きゅ~(まずい~)」


「我慢しなさい! 後で高級な魔石を食べさせてあげるから!」


 ネズミたちは必死にもがくが、動けば動くほど粘液が絡みつき、黒い沼へと沈んでいく。

 ふふん、見たか。これが我が社の誇る『絶対捕獲システム』よ!


 だが――敵の数は、こちらの予想を遥かに超えていた。


 ガリッ、バキンッ!


「えっ?」


 天井のエアコンダクトが破られ、そこから新たな数百匹が降ってきたのだ。

 まるで黒い雨だ。

 ぷるんちゃんの展開範囲外に着地したネズミたちが、雪崩を打って店内へ侵入してくる。


「嘘でしょ!? どんだけ放ってるのよ! あいつ、給料の全額を使い魔(ネズミ)に課金してるんじゃないでしょうね!?」


 多勢に無勢。

 私のモップ捌きと、ぷるんちゃんの捕食速度が追いつかない。

 一匹、また一匹と、防衛ラインを突破したネズミが、施術室(VIPルーム)へと向かっていく。


 まずい。

 非常にまずい。


 今日の予約客は、よりにもよって『あの方』なのだ。

 もし施術室にネズミが入ったことがバレたら、スパの衛生管理責任を問われ、営業停止処分……いや、物理的に首が飛びかねない。


 その時だった。


 カラン、カラン♪


 入り口のドアベルが、軽やかに鳴り響いた。


「…………」


 時が止まった。

 私と、ぷるんちゃんと、そして数百匹のネズミたちが、一斉に入り口を見た。


 そこには、分厚いバスローブを身に纏い、頭にタオルを巻いた、長身の女性が立っていた。

 湯上がり……ではなく、これから入る気満々の、完全なるオフモード。


 王国近衛騎士団長、ベアトリクス・ガードナー様である。


「……む」


 ベアトリクス様は、きょとんとした顔で店内を見渡した。

 床でもがくネズミたち。

 モップを振り上げた私。

 壁を食い破ろうとしている増援部隊。


 地獄絵図である。


「あ、あのっ、ベアトリクス様!? こ、これはその、新しいアトラクションと言いますか、動くぬいぐるみのパレードでしてぇ!!」


 私は必死に言い訳を叫んだ。

 無理がある。どう見ても害獣パニックだ。


 ベアトリクス様は、ゆっくりと眉をひそめた。


「アリア。……今日は『マグマ・スライム岩盤浴』の予約をしていたはずだが」


「は、はいぃ! もちろんでございます! ただいま急ピッチで準備を……というか、害獣駆除をしておりまして!」


「害獣……?」


 彼女の視線が、足元をチョロチョロと走り抜けた一匹のネズミに向けられた。


 そのネズミは、あろうことかベアトリクス様の足元で止まり、彼女が履いている『マイ・スリッパ(可愛いクマの刺繍入り)』を、ガリッとかじった。


 プチッ。


 何かが切れる音が、静寂の店内に響いた。


「…………」


 ベアトリクス様が、ゆっくりと目を見開いた。

 その瞳の奥で、灼熱の業火と、絶対零度の吹雪が同時に吹き荒れるのを見た気がした。


「……私の、安息を」


 ドォォォォォン……!


 彼女の全身から、覇気という名のプレッシャーが噴出した。

 空気がビリビリと震え、ネズミたちが本能的な恐怖で硬直する。


「激務の果てにようやく手に入れた、週に一度の『癒やし』の時間。……それを、薄汚いドブネズミごときが、土足で踏み荒らすか」


 彼女の手が、近くにあった掃除用具立てに伸びる。

 掴んだのは、聖剣『ドラゴン・スレイヤー』――ではなく、ただの『床用水切りワイパー』だった。


 だが、彼女が構えた瞬間、その安っぽいワイパーが、神話級の武具に見えた。


「――万死」


 ヒュンッ!


 音が置き去りにされた。


 私には見えなかった。

 ただ、一陣の風が巻き起こり、銀色の閃光が部屋中を駆け巡ったことだけが分かった。


 キィィィィィン……!


 甲高い風切り音が遅れて聞こえてくる。


 ベアトリクス様は、ワイパーを振り抜いた姿勢のまま、静止していた。

 バスローブの裾さえ乱れていない。


 そして。


 ボト、ボトボトボトボトッ……。


 宙を舞っていたネズミたちが、壁を這っていたネズミたちが、そして床を走っていたネズミたちが、一斉に「機能停止」して落下した。

 斬られてはいない。

 ワイパーの峰(ゴム部分)による、寸分違わぬ正確無比な「打撃」によって、すべて気絶させられていたのだ。

 体液の一滴も飛び散らせない、完璧に制御された暴力。


「…………す、すご」


 私は口をあんぐりと開けていた。

 数百匹だよ? 一秒足らずで? しかもワイパーで?


 ベアトリクス様は、ふぅ、と小さく息を吐き、ワイパーを元の位置に戻した。


「掃除の邪魔が入ったな、アリア。……片付けておいたぞ」


 彼女はくるりと振り返り、何事もなかったかのように微笑んだ。


「さて。汗を流したい。岩盤浴の温度は高めで頼む」


「は、はいぃぃぃッ! ただちにぃッ!!」


 私は直立不動で敬礼した。


 怖い。

 騎士団長、マジで怖い。

 戦場じゃなくてエステに来てくれて本当によかった。敵に回したら人生終了のお知らせだわ。


「ぷ、ぷるんちゃん! 今のうちにこの『ゴミ』を回収して! お客様が着替えて出てくるまでに、痕跡を完全に消すのよ!」


「きゅッ!(アイアイサー!)」


 私たちは大慌てで、山積みになったネズミの死骸(気絶体)の処理に取り掛かった。

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