第40話 ギデオンの警告と、忍び寄る使い魔

グレイブス教諭による「モップ追跡事件」から数時間が経過した、放課後のこと。


 私は校舎裏の洗い場で、バケツを洗っていた。


 秋の夕暮れは早い。茜色の空が、カラスの鳴き声と共に急速に紫色へと沈んでいく。


「……ふぅ。今日も一日、よく働いた(稼いだ)わ」


 私は腰を伸ばし、トントンと叩いた。


 表向きは「薄汚れた清掃員」として校内を這いつくばり、裏では「スパの女帝」として貴族から金を巻き上げる。この二重生活も、板についてきたものだ。


 ただ、一つ懸念があるとすれば――あの潔癖教師グレイブスの動向だ。


 私の「洗剤への狂気的な愛」アピールで一旦は退いたものの、あの粘着質な視線は忘れることができない。彼は間違いなく、まだ私を疑っている。


「ま、証拠は全部『洗浄』しちゃったし。現行犯で捕まらなきゃどうとでもなるわよね」


 私は楽観的に呟き、バケツの水を捨てようとした。


 その時だ。


「……アリアさん」


 背後の茂みから、地の底から響くような男の声がした。


「ひぃッ!?」


 私は反射的にバケツを取り落としそうになった。


 またグレイブスか!? と身構えて振り返ると――そこにいたのは、丸眼鏡を光らせた学級委員長、ギデオン・アイアンサイドだった。


 彼はなぜか、校舎の壁に背中を預け、片手で顔を覆うという、安っぽい演劇のポーズを決めていた。


「ギ、ギデオン様……? こんなところで何を……?」


 私が恐る恐る尋ねると、彼は眼鏡をクイッと押し上げ、深刻な表情で私を見つめた。


「待っていたんだ。君に、伝えなければならないことがあってね」


「は、はぁ……」


 なんだろう。ゴミの分別のことだろうか。それとも、私のモップが廊下にはみ出していたとか?


 ギデオンは周囲を警戒するように見回した後、声を潜めて言った。


「単刀直入に言おう。……『奴ら』が動き出した」


「奴ら?」


「ああ。君の命を狙う、闇の組織……『黒いバラ』だ」


 …………はい?


 私は瞬きを繰り返した。

 黒いバラ? お花屋さん? それとも新しい園芸部の勧誘?


「君は気づいているはずだ。あの男……グレイブス教諭が、その尖兵であることに」


 ギデオンが熱っぽく語りだす。


「彼は君の『浄化』の力を恐れている。君がこの学園の膿を出し、偽りの虚飾を剥ぎ取ったあの『審判の日(測定試験)』以来、奴の殺意は君に向けられているんだ」


 ああ、なるほど。

 この委員長、また妄想の世界に入っちゃってるのね。


 私は内心で盛大なため息をついた。

 グレイブスが私を狙っているのは事実だけど、それは私が彼の「実験廃棄物(金づる)」を横領したからであって、正義とか浄化とか、そんな高尚な理由じゃないのよ。


「君は一人で背負いすぎだ、アリアさん。……その小さな背中に、世界の命運を乗せて戦うなんて」


 ギデオンが一歩、距離を詰めてくる。


「だが、もう心配はいらない。僕がいる。僕が君の『盾』になろう。奴らの魔の手から、君を必ず守り抜いてみせる……!」


 彼の瞳は、使命感という名の狂気に燃えていた。


 うわぁ、重い。物理的にも精神的にも距離感が重い。


 私は一歩後ずさりし、営業用スマイル(引きつり気味)を張り付けた。


「え、えっとぉ……お気持ちはありがたいのですがぁ……」


「遠慮することはない! さあ、共に戦おう! まずは作戦会議だ。僕の部屋で……」


「あ、すみません! 私、これからトイレ掃除のノルマがありまして! それでは失礼しますぅ!」


「あっ、アリアさん!?」


 私は逃げた。

 脱兎のごとく、その場からダッシュで逃走した。


 後ろから「待ってくれ! 君を一人にはさせない!」という熱い叫び声が聞こえたけれど、聞かなかったことにする。


 ごめんね委員長。あなたのその純粋すぎる正義感、今の私には「洗剤の訪問販売」よりもしつこくて厄介なのよ!


◇◇◇


 一方その頃。


 魔法薬学準備室の奥にある、隠し扉の向こう側。


 薄暗い地下研究室で、グレイブスは苛立ちに爪を噛んでいた。


「クソッ……! あのアマ、どこまで私をコケにすれば気が済むのだ……!」


 机の上には、反応の消えた追跡魔具と、組織からの督促状が散乱している。


 『黒いバラ』への納期は、あと三日。それまでに「キマイラ由来の濃縮魔力」を納品できなければ、彼の地位はおろか、命すら危うい。


「魔法による追跡は失敗した。……ならば、物理的な手段に出るまで」


 グレイブスは歪んだ笑みを浮かべ、部屋の隅にある檻の覆いを取った。


 チュー、チュー……。


 そこには、数百匹ものネズミが蠢いていた。


 ただのネズミではない。眼球が赤く発光し、背中から不気味な魔力の蒸気を発している、錬金術によって強化された「偵察用使い魔(ファミリア)」だ。


「行け、私の可愛い子供たちよ」


 グレイブスが檻を開け放つ。


「学園の床下、天井裏、配管の隙間……ありとあらゆる『穴』を潜り抜け、あの掃除婦の隠れ家を探し出すのだ。奴が盗んだ『私の宝』の臭いを辿れ!」


 ザザザザザッ……!


 ネズミの群れが、黒い濁流となって部屋から溢れ出す。


 それらは壁の亀裂や通気口へと吸い込まれ、学園の深部へと散っていった。


「フフフ……。いくら掃除が得意でも、数百の目と鼻からは逃げられまい。今夜中に引きずり出し、あのふざけた口を聞けなくしてやる……!」


◇◇◇


 そんなこととは露知らず。


 私は地下スパの事務室(兼・私の楽園)で、至福のティータイムを過ごしていた。


「ん~っ! 一仕事終えた後のハーブティーは格別ね!」


 私はソファに深々と沈み込み、カップを掲げた。


 目の前のテーブルには、今日の「泥パック」の売上が詰まった革袋が置かれている。


「きゅ~(おいし~)」


 隣では、ぷるんちゃんが高級な磁器の皿に乗ったクッキーを、器用に触手で包んで溶かしている。


 平和だ。


 地上の勘違い男たちの騒音も、ここまでは届かない。分厚い石壁と、何重にも張り巡らせた防音・防臭結界のおかげで、ここは完全なる聖域となっている。


「さて、そろそろ開店準備をしましょうか。今日の予約は……おっ、ベアトリクス様ね」


 近衛騎士団長のベアトリクス様は、前回の施術ですっかり常連(リピーター)になってくれた。


 今日は「最近、部下の訓練で肩が凝って」とのことで、新メニュー『マグマ・スライム岩盤浴』をご所望だ。


「ぷるんちゃん、温度設定は50度でお願いね。発汗作用を高めて、デトックス効果を……」


 私が業務連絡をしようとした、その時だった。


 ピクリ。


 私の耳が、微かな異音を拾った。


 カリカリ……カリカリカリ……。


 壁の向こう。

 あるいは、天井を通る排気ダクトの中から。


 何か硬い爪で、石材を引っ掻くような音が聞こえる。


「……ん?」


 私はカップを置いた。


 音は一つじゃない。


 カリカリ、ガリガリ、チューチュー、ザザザザ……。


 無数だ。


 まるで、大量のビー玉を床にぶちまけたような、あるいは雨あられが降ってきたような、細かくて、それでいて密集した気配。


「きゅッ!?(てき!?)」


 ぷるんちゃんが警戒色(赤)に変わり、私の肩に飛び乗った。


「落ち着いて、ぷるんちゃん。……『精密洗浄眼』、起動」


 私の目が青く光る。


 視界が透過され、壁の向こう側にある配管内部が映し出された。


 その瞬間。


 私は全身の毛が逆立つのを感じた。


「――っ!?」


 映し出されたのは、赤く光る無数の点。


 配管の中を、黒い塊が埋め尽くすように押し寄せてきている。ドブのような悪臭と、不潔な魔力の残滓を撒き散らしながら。


 ネズミだ。


 それも、ただのネズミじゃない。魔力で強化され、特定の臭いを追跡するようにプログラムされた、生体兵器。


「うわ……うわわわわ……ッ!!」


 私は口元を押さえ、悲鳴を噛み殺した。

 怖いんじゃない。

 気持ち悪いのだ。


「不潔! 不潔不潔不潔ッ!! 何あれ!? 保菌率1000%くらいのドブネズミじゃない! 私の神聖なスパに向かって、なんてものを流し込んでくるのよ!!」


 これはテロだ。

 バイオハザードだ。


 あのアホ教師、魔法がダメなら物理(害獣)で攻めてくる気か!


 ガリッ! バキッ!


 部屋の隅にある通気口の格子が、内側から食い破られる音がした。


 錆びた鉄の隙間から、赤い目と、黄色い前歯が覗く。


 チューッ!


 一匹のネズミが、私のピカピカに磨き上げたフローリングに飛び降りた。

 その足跡が、床に泥のシミを作る。


 ブチッ。


 私の中で、何かが切れる音がした。


「……よくも」


 私は立ち上がった。

 手には、愛用のモップ(戦闘形態)が握られている。


「よくも土足で……私の城を……!」


 お客様(ベアトリクス様)が来るまで、あと十分。


 それまでに、この数百匹の害獣を駆除し、床を消毒し、完璧なアロマの香りで満たさなければならない。


 これはもはや掃除ではない。防衛戦争だ。


「ぷるんちゃん! 『超強力粘着モード』展開! 一匹たりとも逃がさないわよ!」


「きゅイッ!(ラジャー!)」


 地下スパに、開戦のゴング代わりのネズミの鳴き声が響き渡った。

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