主観的ノイズキャンセリングイヤホン
鶏=Chicken
主観的ノイズキャンセリングイヤホン
私は今、一対のイヤホンを前にして肩を落としている。これは三万円もの大金を支払って購入した、高級ノイズキャンセリングイヤホンである。高校生である私が少ない小遣いを一生懸命貯めて買ったそれは、私の期待を大いに裏切ってくれた。
私は騒音が大嫌いだ。だからこそ、大金を出して騒音が除去できるイヤホンを買ったわけだが、どうやら私の考える「騒音」は、メーカーの考える「騒音」とは決定的に違っていたらしい。電源を入れた瞬間、心地の良い風の音や電車の音は消え去り、吐き気を催すような人間の話し声がクリアに聞こえてきたのである。私は愕然とした。なぜこの機械は環境音を削除し、騒音を堂々と通過させているのか。不良品かと思い商品レビューを見て、私は目を疑う。
「騒音は消せるのに、話し声は聞こえます」
そんな感想と共に、星五つの評価が並んでいた。そして、私はようやく気付かされることになる。
私以外の人間にとって、人の話し声は騒音ではないのだ。
しかしどうしても納得がいかない私は、このことを両親に話した。二人は苦笑いを浮かべると
「せっかく買ったんだから大切にしなさい」
と咎めるように言った。二人に理解してもらうことは初めから期待していなかったので、私は小さく唇を尖らせるだけでその場を離れた。
自室に向かう途中、突然背後から生意気を具現化したような憎たらしい声が聞こえてきた。
「クソ姉貴、また変な買い物したのかよ。いや、変なのは物じゃなくて、姉貴の頭の方だったな!」
ニヤニヤと薄ら笑いを浮かべるこの男は、私の弟、
私は大袈裟にため息をつくと、律斗を無視して足を進める。しかし奴はしつこく私に付き纏ってきた。
「姉貴にいいイヤホンなんてブタに真珠だよなぁ?そうだ、俺が代わりに使ってやってもいいぜ。その方がイヤホンも喜ぶだろ」
ここで私が言い返すと、律斗は調子に乗って増長してしまう。徹底的に無視を貫きながら、自室への道を急ぐ。
ふと思い立って、例のイヤホンをつけ、電源を入れてみた。環境音が消え、忌々しい律斗の声がクリアに聞こえる。
「この不良品……!」
私は小さく呟き、イヤホンを踏み潰したい衝動を必死に抑えた。
◇ ◇ ◇
翌日登校した私は、唯一の友人である
「三万円も払ったのに残念だったね……。それに弟さんのことも。色々お疲れ様」
「ありがとう沙良!ほんと、イヤホンも弟もまとめて消してやりたい。あーあ、三万あったら狙ってたドライヤー買えたのに!」
そう言って小さく息を吐くと、沙良はふと何かを思い出したかのようにスマホを操作し、画面を私に見せてきた。表示されていたのは、あるイヤホンの紹介ページだ。
「なにこれ?『主観的ノイズキャンセリングイヤホン』?」
「そうそう!今SNSで話題になっててね、その人にとっての『騒音』をAIが判断して、自動で削除してくれるんだって。
沙良の説明を聞いて、自分でも商品の紹介を確認してみた。読めば読むほど、自分の目が輝いていくのがわかる。これだ。まさに私が欲しかったものだ。しかし、大きく膨れ上がった期待は、イヤホンの値段によって打ち砕かれた。
「よ、四万五千円⁉︎小遣い九ヶ月分⁉︎」
つい大声を出して立ち上がってしまった。周囲の注目を浴び、顔を伏せてもう一度席に座る。
こんなもの買えるはずがない。しかも今の私は例のイヤホンのせいで金欠なのだ。
落胆する私を見て、沙良は私の肩に手を乗せると頼もしい笑みを見せた。
「実はね、私の知り合いがこれの開発に関わっていて、私にプレゼントしてくれたの。でも私は使わないから、莉央ちゃんにあげる」
沙良はそう言うと、通学カバンからイヤホンを取り出して私に差し出した。それはまさに、先ほど画面で見たあのイヤホンだった。咄嗟に受け取ってしまったが、値段が頭をよぎって震え上がる。
「こんな高いものもらえないよ!」
そう言って返そうとしたが、沙良は柔らかい笑みで首を横に振った。
「いいんだよ。莉央ちゃんにはいつもお世話になってるし、私が持っていても使わないから勿体無いし。あ、そうだ。莉央ちゃんもうすぐ誕生日でしょ?少し早いけどプレゼントにさせて!」
私には沙良の顔が仏のように見えた。持つべきものは友達だなんて言うが、まさか今世で実感する日が来るとは。私は沙良の手を取り、強く握りしめた。
「沙良、ありがとう。この恩は一生忘れない。私、沙良のために命かけるよ」
「もう、大袈裟だよ」
沙良は困ったように、しかし嬉しそうに笑った。
「ね、ね。よかったら早速使ってみて」
沙良に言われて、私はイヤホンを両耳に装着する。今現在聞こえている音は、沙良の声、黒板を消す音、廊下の足音、同級生の話し声だ。あの不良品の場合、黒板消しの音と足音を消して、不快な話し声を残すところだが、果たしてどうなるか。
電源を入れた。すると、しん、と教室が静まり返る。黒板を消す音と足音だけがクリアに聞こえてくる。
「どうかな?うまくいった?」
そこに沙良の声が入ってきた。私は何度も大きく頷き、サムズアップをする。
「完璧!環境音と沙良の声しか聞こえない!」
「よかったぁ。大成功だね」
安堵したような沙良の声が、耳に流れるように入ってきた。
そんな私たちのもとに、二人の女子が何やら雑談している様子で近づいてきた。その時は何も聞こえなかったが、一人が私の方を向いて話を始めた瞬間、声が聞こえてくるようになる。
「莉央さん、ちょっといい?来週の係について相談したいんだけど……」
「いいよ。どうしたの?」
女子と話をしながらも、私は脳内でイヤホンのことを考えていた。どうやら騒音判定は、時と場合によって都合よく切り替わるらしい。これはすごい技術だ。私は心の中で、開発者に大きな拍手を送った。
◇ ◇ ◇
学校が終わり家に帰ると、洗い物をしていた母に話しかけられた。
「莉央、おかえり。今日プリンもらったのよ。用意するから手を洗ってきて」
「はーい」
返事をして手を洗い、ダイニングの椅子に座ると美味しそうなプリンが出てきた。プリンを食べていると、向かいの椅子に座った母が話を始める。
「そういえば、もうすぐテストって言ってたわね。勉強は……」
うわ、これはお説教だ。そう思った瞬間、母の声が聞こえなくなった。口をぱくぱく開けているが、何一つとして聞こえない。安心してプリンを食べ進めていると、あるタイミングで再び声が復活した。
「そうそう、来月おばあちゃんの家に行くから、予定空けといてちょうだいね」
お説教が終わって、話が変わったことを認識したAIが、また聞こえるようにしたのだ。騒音かどうかの判定はリアルタイムに行われ、すぐに反映されるようだ。
「わかった、予定空けとく。ごちそうさま」
私はそう言って食べ終わったプリンの皿を下げると、自分の部屋に向かった。
部屋に着くと、扉の前で律斗が待ち構えていた。何やら誇らしげな顔で私に一枚の紙を見せびらかしている。見ると、九十五点のテスト用紙だった。何も声は聞こえないが、この自慢と嘲笑が入り混じった顔を見ればわかる。
「去年姉貴が惨敗してたテスト、俺はこんだけできたんだぜ」
どうせこんなことを言っているのだろう。私は律斗を扉の前からどかし、部屋に入ってすぐさま扉を閉めた。
「主観的ノイズキャンセリング眼鏡もあればいいのに。顔も見たくない」
気づけばそう呟いていたが、実はいつもほどの不快感はない。やはりあの声を聞かなくて済むのは、精神衛生上良い効果があるようだ。
私はベッドに横になると、イヤホンを外してまじまじと眺めた。これは私の救世主だ。そう思って微笑みかけたが、外から子供のはしゃぐ声が聞こえて顔を顰める。もう一度イヤホンをつけると、不快な音は消えて無くなっていた。
◇ ◇ ◇
それから数週間、私はイヤホンのおかげで驚くほど快適な日常を過ごした。特に嬉しいのは、律斗の不快な話を聞かずに済むことだ。イヤホンをつけ始めてから何故か律斗との遭遇率が上がったのだが、声が聞こえなければなんてことはない。
ある時は、朝からひどく不機嫌な顔で話しかけられた。イライラしている時は大抵、友達と喧嘩したか、部活で失敗したかのどちらかだ。まともに取り合っても仕方がない。私は律斗の顔をちらりと見て、すぐにその場を離れた。
またある時は、玄関先で沈んだ表情をして待ち構えていた。こういう時はいつも金をせびってくるのだ。断るのも面倒なので、声が聞こえないのはありがたい。私は目を合わせないように自室に急いだ。
そして今朝、目が覚めると私の部屋に律斗がいた。
「えっ⁉︎ちょ、なんで⁉︎」
反射的に枕を投げると、律斗は軽く片手でキャッチした。もう片方の手には謎の箱を持っている。
「あのさ、姉貴……」
数週間ぶりに律斗の声が聞こえてきた。寝る時だけはイヤホンを外していたのだ。私は急いで枕元のイヤホンを手に取る。そんな私に律斗は謎の箱を差し出していた。
「これ、開けてみろよ」
いつになく真剣な表情でそう言う律斗に、私の不信感は最大限まで高まっていた。どうせこれはびっくり箱か何かだ。開けて私が驚いたら、コイツは腹を抱えて笑うに違いない。高校生にもなってくだらないことしやがって。
私はイヤホンをつけると、律斗を部屋の外へ突き飛ばした。
「二度と勝手に部屋に入らないで」
まさか反撃されるとは思っていなかったのだろう。律斗は尻もちをついたまま、目を見開いて呆然としていた。私は舌打ちをして、その場を後にした。
最悪な気分のまま学校に行くと、沙良が満面の笑みで迎えてくれた。
「莉央ちゃん、お誕生日おめでとう!」
そんな沙良の手には、二つ折りのバースデーカード。開くと、誕生日を祝う軽快な音楽が流れ出した。すっかり忘れていたが、今日は私の誕生日だったのだ。沙良の優しさが疲れた心にじんわりと沁みて、気付けば私は沙良を抱きしめていた。
「ありがとう、沙良。もう唯一の癒し!大好き!」
「莉央ちゃんったら、苦しいよー」
沙良は嬉しそうにそう言った。やはり沙良は、私の唯一の理解者だ。そう思っていた、この時までは。
昼休み、沙良は珍しく真剣な面持ちで私の向かいの椅子に座った。言いにくそうに指をもてあそび、少しすると決意したように顔を上げ、しかしまた顔を伏せる。気まずい沈黙の時間が流れる。数分後、決意に満ちた目をした沙良が、ようやく重い口を開いた。
「あのね、莉央ちゃん。申し訳ないんだけど、この前あげたイヤホン、返してほしいんだ」
「え……?」
私は言葉を失った。冗談だと思った。思いたかった。しかし、沙良の目はどうしようもなく本気だった。
「ど、どうして……?沙良も使いたくなったの?」
聞くと、沙良は小さく首を横に振り、あるネットニュースを見せてきた。その見出しには、衝撃的なことが書かれていた。
「『SNSで話題のイヤホンに重大な欠陥』って記事。有名な研究者の人が発表したんだって。それで親に、危ないから捨てろって言われたの」
沙良に言われて、私はその記事を読んでみた。知らない研究者が、もっともらしくイヤホンのネガティブキャンペーンをしている。耐え難いほどの不快感に襲われた。こんな奴に、このイヤホンの何がわかるというのだ。私はスマホを沙良に返し、心からの笑みで言った。
「この人は多分、他のイヤホンの利益を享受していた人だよ。だから革新的な発明を潰そうとしているの。こんなの信じちゃダメだよ」
しかし、沙良は悲しげな表情で首を横にふる。
「そんなことないよ。このままだと莉央ちゃんが危ない。私が代わりのイヤホン買ってあげるから、だから……」
ああ、うるさい。結局沙良もそうなのか。私のことより、訳のわからない研究者や叔父のことを信じる。私に害を与えようとする。
そう思った瞬間、沙良の声が聞こえなくなっていた。沙良の言葉など必要ないと、明らかになった瞬間だった。いまだに何かを必死に訴えている沙良を残して、私は教室を出た。聞こえるのは、風がそよぐ音だけ。人の声も、動く音も、呼吸の音すら聞こえない。初めてイヤホンをつけた時から、聞こえる音は随分減った。それでも構わない。聞こえない音は、いらない音。騒音だ。
◇ ◇ ◇
最近姉貴の様子がおかしい。
最初に違和感を感じたのは、数週間前のことだった。去年姉貴が酷い点数を取ったテストで、俺は運良く九十五点を取った。悔しがる顔を見ようと自慢してみたが、やけに反応が薄い。いや、反応がなかった。確かに姉貴は、いつも俺のことを無視している。でもその無視は、完全な無視ではない。苛立ったりため息をついたり、ちゃんと聞いてくれている無視だった。でもあの日は違った。姉貴は、俺の声を聞いてすらいなかった。
話を聞いてもらえなかったという事実に、俺は想像以上に傷ついていた。姉貴に生意気な態度ばかり取っていた俺が悪いのかもしれない。でも、完全に無視するなんてあまりにも酷い。考えるうちに腹が立ってきて、俺は朝から姉貴を待ち伏せした。
「おいクソ姉貴!俺を無視するなんてどういうつもりだ⁉︎」
部屋から出てきた瞬間、そう怒鳴った。しかし姉貴は、俺の顔を一瞬見ただけで何の反応もせずに去っていった。
姉貴は、父や母とは普通に話している。俺の声だけを聞いていない。それが寂しくて、気付けば脳内で姉貴との思い出が走馬灯のように流れていた。
そしてふと思い出した。一度だけ、姉貴に本気で相談をしたことがあった。高校受験を控えて、思うように点数が伸びなかった時。いつもは俺を面倒くさそうに扱う姉貴が、その時だけは別人のように優しかった。
「律斗が頑張っているのはよく知ってるよ。今は苦しいだろうけど絶対うまくいく。私はいつでも応援してるから」
そう言って、お守りの代わりにと、大切にしていたシャーペンを貸してくれた。子供の頃みたいに頭を撫でられて、照れ臭かったけど嬉しかった。
だから、もしかしたら今回も。そんな期待を込めて、俺は玄関先で姉貴の帰りを待った。玄関にある鏡を見てみると、思った以上に沈んだ顔をしていた。こんなことになってようやく気付いた。姉貴は俺にとって、想像以上に大きな存在だったのだ。
それからすぐに姉貴は帰ってきた。
「あの、姉貴、ちょっと相談があって……」
そう声をかけた。できるだけ冷静に、落ち着いた声になるように心がけた。挑発だと思われないようにした。しかし、姉貴は目も合わせずに俺の横を通り過ぎ、自分の部屋へと戻っていってしまった。
「……っ、なんでっ……」
遠くなる姉貴の背中を見て、唇を噛んだ。こちらを見てもくれなかった。存在ごと無視された。涙が滲んで、袖で目元を拭った。
その時ふと、姉貴の耳に見慣れないイヤホンがついていたことを思い出した。散々文句を言っていたあの三万のものではなかった。
「まさかあれが……?」
ネットで調べてみると、思いの外すぐに見つかった。「主観的ノイズキャンセリングイヤホン」。使用者が騒音だと思った音を、自動的に削除する。
「姉貴にとって、俺の声はただの『騒音』なのか……」
一人呟いたその声は、誰にも聞かれることなく虚空に消えた。
◇ ◇ ◇
それでも、諦める気にはなれなかった。イヤホンのせいで声が届かないなら、イヤホンをつける前に話しかければいい。流石に寝る時は外しているはずだから、朝一番なら希望はある。
さらに、もうすぐ一大イベントがある。姉貴の誕生日だ。誕生日の朝一番、寝起きの姉貴にサプライズプレゼントを渡せば、少しは話す気になってくれるかもしれない。そのために、俺は姉貴がずっと欲しがっていたドライヤーを購入した。三万円は痛い出費だったが、姉貴のためだ、仕方がない。箱を綺麗に包装して、準備は完了。その日は緊張して、一睡もできなかった。
翌朝、俺はこっそり起床前の姉貴の部屋に入った。目覚めた姉貴は、俺の姿を見て目を白黒させた。
「えっ⁉︎ちょ、なんで⁉︎」
動転した姉貴は俺に枕を投げた。姉貴に反応してもらえたことが嬉しかった。俺はそれをキャッチし、プレゼントを差し出した。
「あのさ姉貴、これ、開けてみろよ」
しかし姉貴は汚いものを見るような目で俺を見ると、すぐにイヤホンをつけた。そして、気付いた時には俺は部屋の外で尻もちをついていた。
「二度と勝手に部屋に入らないで」
吐き捨てるように言って舌打ちをすると、姉貴は不機嫌そうに去っていった。
しばらくの間、何が起こったのか理解できなかった。しかし、鈍い痛みが俺を現実に引き戻す。姉貴に突き飛ばされたんだ。あの時の姉貴の目は、心からの憎悪だった。
俺は震える足で自室に戻り、声をあげて泣いた。姉貴に慰められた、あの時以来だった。でも今は、優しい姉貴はいない。あの温もりは無くなってしまった。嗚咽を堪える気にはなれなかった。どうせ姉貴には聞こえないのだから。
◇ ◇ ◇
その後、俺はインターホンの音で目を覚ました。泣き疲れて眠っていたらしい。時刻は午後五時を過ぎている。机の上には、母からの書き置きが残されていた。
「学校には欠席連絡しておきました」
何も聞いてこなかったのはありがたかった。親が介入したら、姉貴はもっと俺を嫌うかもしれないから。
来客を思い出し、寝ぼけた頭で玄関に向かう。扉を開けると、そこにいたのは姉貴の友人、沙良さんだった。玄関には姉貴の靴がないので、まだ帰っていない。それを伝えると、沙良さんは困ったように微笑んだ。
「今日は律斗くんに用があって来たの。よかったらお話聞いてくれない?」
「え、あ、はい。どうぞ」
突然の出来事に、寝起きの頭では理解が追いつかなかった。とりあえず沙良さんを家にあげ、お茶を差し出す。沙良さんはお茶を一口飲むと、真剣な顔で話を切り出した。
「律斗くんは『主観的ノイズキャンセリングイヤホン』の危険性、知ってる?」
「いえ、名前くらいしか……。姉貴が使ってるのは知ってますけど」
俺が答えると、沙良さんはイヤホンの危険性を解説した記事を見せてくれた。
「このイヤホンは、本人が『騒音』だと思ったものを消す。つまり、本人にとって都合のいいことしか聞けなくなるの。それにこのイヤホンの特性上、消された音がもう一度聞こえるようになる可能性は限りなく低い。聞こえなくなったら、弁明のしようもないからね。今の莉央ちゃんはこんな状況。私の声も聞こえなくなっちゃったみたい」
そう言って微笑んだ沙良さんの顔には、深い悲痛が浮かんでいた。沙良さんは姉貴を本当に大切にしている。だからこそ、消されてしまった。
沙良さんは小さく息を吐いた。お茶をもう一口飲むと、強い眼差しと共に顔を上げた。
「だから律斗くん、あなたに、莉央ちゃんを助けてほしい」
「え、お、俺が……?」
この時の俺は、さぞ間抜けな顔をしていただろう。だって、俺は姉貴に心から嫌われているのだ。助けるなら沙良さんの方が適任に違いないと、そう思ったから。しかし、沙良さんは力強く頷いた。
「そう。律斗くんだからこそできるはず。莉央ちゃんは、律斗くんのこと大切に思っているから。いつも愚痴言ってるけど、律斗くんの話するとき、すごく楽しそうだよ」
そんな沙良さんの言葉は、深い闇に沈んだ俺にとって、確かな希望の光だった。俺は沙良さんの目をまっすぐ見て、首を縦に振った。
「わかりました。俺が、姉貴を助けます。……その代わり、沙良さんもここにいてくれませんか」
「もちろん。よろしくね」
こうして俺たちは、二人で姉貴の帰りを待つことになった。
◇ ◇ ◇
家に帰ると、律斗と沙良が私を待ち構えていた。これは面倒なことになりそうだ。私は目を合わせないよう、駆け足で自室に向かう。意外にも、二人は引き留めてこなかった。
部屋の扉を閉め振り返ると、机の上に律斗が持っていた謎の箱が置いてあった。あのびっくり箱だ。まだ諦めていなかったのか。あまりのしつこさにため息が出る。しかしまあ、ここまでやるということは、相当気合を入れて作ったのだろう。私は扉が閉まっていることを確認し、箱を開けてやることにした。
半目で箱を開ける。しかし、いつまでたってもおもちゃが飛び出してこない。恐る恐る中を見てみると、入っていたのは私が狙っていたドライヤーだった。
「えっ⁉︎どうして……?」
驚いてドライヤーを取り出すと、一枚のカードがひらひらと落ちてきた。そこには律斗の汚い字で、こう書かれていた。
「姉貴、誕生日おめでとう。生意気なこといっぱい言ってごめんなさい。信じてもらえないかもしれないけど、姉貴のこと大好きです」
気付けば、カードを持つ手が震えていた。あの律斗が、ありえない。信じられない。しかしこれは確かに律斗の筆跡だ。十何年も見てきた、馴染みのある文字。ではまさか、このドライヤーは律斗が買ったのか?あの時渡そうとしていたものは、びっくり箱などではなく、誕生日のプレゼントだった?
言葉を失っていると、部屋の扉がゆっくり開いて律斗が入ってきた。律斗は私の前に立ちはだかると、深々と頭を下げた。
「ちょ、急になんなの?」
思わず口に出ていた。それを聞いた律斗は、顔を上げて目を見開く。そしてその瞳から、大粒の涙が溢れ出した。律斗は泣きながら何かを必死に訴えている。聞こえない。何も聞こえない。つまりこれは騒音、いらない音。そのはずなのに、なぜか「聞かなくてはいけない」と、強く思った。
私はそっと律斗に近づくと、イヤホンを外して優しく頭を撫でた。
「律斗、ごめんね。私、話も聞かずにあなたのこと突き飛ばした。それに、ずっと無視してた。最低だったね。ごめんなさい」
すると、律斗は涙を流したまま、にっこりと笑みを浮かべた。
「姉貴が最低なわけないだろ。だって、俺の大好きな姉貴なんだから」
そんな律斗の言葉が、なんの障壁もなく耳に入ってくる。大切な弟の声に、憎しみも嫌悪も感じなかった。
ふと扉の方を見ると、沙良が柔和な、嬉しそうな笑みを見せていた。
「莉央ちゃん、よかった。目が覚めたんだね」
沙良はそう言って、私の隣に並んだ。私は外したイヤホンを沙良に手渡した。
「ごめんなさい。私、沙良にも酷いことしちゃった。沙良はずっと私のこと思ってくれてたのに……」
言うと、沙良はいたずらっぽく笑った。
「んー、じゃあ、今度クレープ奢ってくれたら許そうかな?」
「俺も食べたい。トッピング全部載せる!」
いつの間にか泣き止んでいた律斗まで便乗してきた。
「私金欠なのに!仕方ないなぁ」
私がそう言って笑うと、沙良と律斗も笑って、しばらくの間、三人で笑い合っていた。二人の声が騒音に思えることは、二度となかった。
◇ ◇ ◇
その後、あのイヤホンは製造中止になり、流通していたものも全て回収された。使用者たちはイヤホンを手放すことを嫌がり、様々な事件が起きたため、回収は非常に難航したそうだ。かくいう私も、律斗と沙良が助けてくれなければきっとそうなっていただろう。二人には感謝してもしきれない。
沙良はその後も、私の友達でいてくれている。そんな彼女にあの頃のことを話すと、決まってこう言う。
「あのイヤホンを渡した私の責任もあるからね。莉央ちゃんが悪いなら、私も悪い。もしかしたらあれは、私たちの仲を試すための神様の試練だったんじゃない?」
冗談まじりにそう言う沙良の笑顔は、いつものように優しかった。私は沙良の笑顔に救われている。彼女を、それこそ命をかけて大切にしたいと、今なら胸を張って言える。
律斗との関係性は、少しだけ改善したのかもしれない。律斗はいまだに生意気だし、私に絡んでくることもよくある。
「姉貴また赤点?俺の姉貴とは思えないな。優秀な弟が教えてあげましょうかー?」
ニヤニヤ笑ってそんなことを言ってくるのは変わらないが、今の私は彼の本当の気持ちを知っている。だから、ようやく関わり方もわかるようになった。
「はいはい、律斗がお姉ちゃん大好きなのはわかってますよー」
そう言って頭を撫でてやると、律斗は真っ赤になって走り去っていった。その耳には、例の三万円のイヤホンがつけられている。ドライヤーのお返しとしてプレゼントしたのだ。
満面の笑みで喜ぶ律斗の顔を思い出した。それと同時に、私に泣きながら必死に訴えかけていた、あの時の顔も。それを思い出すたびに、罪悪感で胸が痛む。姉として、二度と弟を泣かせるようなことはしない。私は深く心に誓ったのだ。
今の私は、優しい友達と、生意気だけど可愛い弟の声と共に過ごしている。かつての「騒音」に囲まれた生活は、削除のしようがないほど幸せだ。
主観的ノイズキャンセリングイヤホン 鶏=Chicken @NiwatoriChicken
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