第4話 探偵
文芸部を出て、夕方の池袋へ歩き出す。
立教通りを抜け、いつもの帰り道。
池袋駅を通り抜けて、サンシャイン通りへ――私の帰宅ルートは、いつも人でごった返している。
「今日も混んでるなぁ……」
前を歩く人、スマホいじってる人、観光客、外国人、コスプレの人、漫才の呼び込み、メイドさん……
池袋の人口密度、新宿渋谷に比べれば少ないというけれど、普通にラスボス級だと思う。
「これはダメだ……」
あまりの暑さに負け、途中のコンビニで麦茶を購入。
何故なら味の付いている飲み物では一番安いから!!
ペットボトルをあおりながら通りを歩く。
すると、巨大な人流の中――
道ばたに、黒い塊があった? 落ちてた? 寝転がっていた?
「……え?」
すれ違う人たちは誰も見ない。
避けるでもなく、見下ろすでもなく、むしろ視界に入れないようにしている。
「……あの……倒れてません?」
私は思わず口を開き、足を止めた。
その瞬間、流れがぶつかる。
「ちょ、止まんないでよ!」
「あ、すみません……!」
でも、気になる。
どうして誰も気にしないの?
よく見れば――
真夏に黒コート。
しかも道端に倒れて、ぶつぶつ文句を言ってる。
「……はぁ……なんだこの世界……暑すぎる……生き地獄か……こんな熱の中、コートに鎖巻いて歩けるの僕くらいだよ……いや、もう歩けてないんだけど……」
(……え、なんか喋ってる!?)
耳を澄ますと、さらにヤバい独り言が続く。
「人情紙のごとしとはこのことか……これはもう終焉の世界だ……末法の世だよ。身動きもできないほど消耗している哀れな人間を見ながら……まるで空気のように無視するこの人達……!」
(詩人? 哲学者? ポエマー? ……いや、危ない人なのでは!?)
「はっ……まさか……これがこの世界の特性なのか……!」
(やっぱり危ない人だ!!)
その瞬間――
倒れていた男が、むくり、と顔を上げた。
そして。
私と目が合った。
「っ……あ……」
(やば!! 絶対目を合わせちゃダメなタイプの人だこれ!! 見なかったことに……いやでも倒れてるし……いやいやいやでも絶対危ないって!!)
私が固まっていると、男の目が大きく見開かれた。
「――そこの君!」
「ひゃっ、ひゃいっ!?」
ひゅと指が私の方を向いて指される。あ、完全にロックオンされた。
「頼む……助けてくれ……!! くれませんか? ください!!」
「ひぃ!? な、何!? 何が!?!?」
男は道ばたで四つん這いになって、叫んだ。
「み、水……! 水を……!!」
「えっ、あ、あの……麦茶しかないですけど……!」
「麦茶!! 最高じゃないか!!」
「えっ、そ、そうなんですか!?」
「頼む!! かけてくれ!!」
「かけるの!? 飲むんじゃなくて!?!?」
「かけてくれ!! 死ぬ!! 僕は死ぬ!!」
「ええぇぇぇ!!?」
もう反射的に、私はリュックから麦茶を取り出していた。
人が死にそうなんだから仕方ない。
「いきますよ!? 知らないですよ!? 冷たいですよ!?」
「こいッ!!」
「えーいっ!」
私は叫びながら、麦茶をぶっかけた。
じょぼぼぼぼぼ!!!
美しい焦げ茶色の水流が、太陽の光を受けて輝き、黒コートさんの頭に落ちてゆく。
「っぷはあああ!! 生き返った……!!」
すると、黒コートさんがバネ人形のように跳ね起きた。
声も表情も、さっきまでの瀕死の人とは思えない。
立ち上がると意外に上背がある。身長は180くらいだろうか?
「あ、あの……大丈夫ですか……?」
「大丈夫だよ。君のおかげで」
黒コートさんは服についた水滴を払いながら、立ち上がった。
――そこで初めて、私は彼の顔をちゃんと見た。
人の良さそうな、切れ長の細い目。
でも整った、端正な顔立ち。
無造作に伸ばした黒い髪が肩口にかかっている。
日本人の茶色がかった黒とは違う、黒曜石のような黒い瞳。
そして麦茶の香ばしい匂いがする。
――色々と台無しだ。
年齢は――幾つだろう?
少年のようにも青年のようにも成人ようにも見える。
――あ、なんか地味だけど良き顔!!
どこの国の人ともいえないけれど、
どの国にいても違和感のなさそうな、不思議な雰囲気。
そして――
「……っ」
その瞬間、私は見てしまった。
黒コートの下にいているやっぱり黒いシャツとネクタイ。
よほど暑かったのか、ネクタイはだらしなく垂れ下がり、シャツの胸元が大きく開いている。
そしてシャツの隙間から覗く、銀色。
あれは――鎖?
胸元の盛り上がりを見るに、両肩からクロスするように、全身に巻かれている。
(……なに、あれ……)
見えないところのオシャレ、なんだろうか?。
それともただの変態?
黒コートさんは私の視線に気づいたのか、
さりげなくシャツの前を閉じ、ネクタイを締めなおす。
そして――私を見た。
その目が、一瞬だけ変わった。
優しげな笑みの奥に、何か深いものが見える。
「君が……ああ、そうなんだね」
「え……?」
「いや、ごめん。独り言」
黒コートさんはまた軽い調子に戻る。
でも、今の一瞬。
確かに、この人は何かを見た。
私の中の、何かを。
「……よし。生還。ありがとう、お嬢さん!」
「……え? あ、え……?」
男はくしゃっと笑った。
その笑みは優しいけど、どこか世界と距離がある。
「自己紹介がまだだったね。僕は探偵。よろしく」
「た、探偵……!?」
懐に手を差し入れ、一枚の紙片を私に差し出す。
それは名刺。
風変わりな感触の黒い紙に、金色の文字。
差し出された名刺には、ただ一言。
『探偵』
『detective』『侦探』『Detektiv』
『детектив』『محقق』『जासूस』
『탐정』『গোয়েন্দা』『mpelelezi』
と記されている。
――訂正、まったく一言ではなかった。
恐らく、だけど、これは全部同じ意味だ。
それは最初に書いてある文字の各国版。
でも、それだけ。
連絡先も電話番号も何もない。
住所は……豊島区立東池袋公園!?
そこって住んでいい場所でしたっけ!?
――脳裏に段ボールでできたお家が目に浮かぶ。
「困ったことがあったら、ここへ。恩返しするよ」
「あ、あの……!」
私は思わず声をかけた。
探偵が振り返る。
「……私、あなたを……見たことがあるような……」
探偵の表情が、一瞬だけ真剣になる。
「……そうかもね」
それだけ言って、黒コートさんは微笑んだ。
「でも今日は、君が僕を助けてくれた。それだけで十分だよ」
探偵はひらひらと手を振り、また人混みの中へ消えていった。
優しい笑みを浮かべて。
恐らくは公園の段ボールハウスへ。
私は名刺を握ったまま、その場に立ち尽くす。
周りの喧騒が、遠く感じる。
池袋の雑踏も、夕焼けも、何もかもが遠い。
(……見たことある)
胸が冷たくなる。
喉がひりつく。
(この人……夢で……)
世界が崩れ落ちるあの場所で、
赤黒い海の向こうから、私を見ていた黒い影。
あの時、私は助けを求めた。
叫んだ。
「助けて」と。
そして、あの影は――
こっちを見ていた。
(まさか……同じ……?)
でも、それって、どういうこと?
夢と現実が、繋がってるってこと?
「……なんで……?」
真夏なのに、背中に鳥肌が立っていた。
――この人、
私の夢の中に、いた。
そして今、現実にいた。
ということは――
あの夢は、ただの夢じゃない。
予知とか、そういうものなのかもしれない。
だとしたら。
世界が崩れ落ちる、あの光景も――
「……嘘、でしょ……」
握りしめた名刺が、汗で湿っていく。
私の指先が、小刻みに震えている。
怖い。
何が起きてるのか分からない。
でも――
――ここから、何かが始まる。
そんな予感がする。
そして、これが私と、終焉の探偵との出会いだった。
◇◇◇
終焉の探偵、第1章終了です。
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