第17話 青の妖精、囁きに触れられる

 その日、セリアは朝から胸の奥がざわついていた。


(……黒さまの魔力が……少し、揺れてる……)


 黒の巣の空気はいつも通り静かだ。石壁に沿って並ぶ淡い灯り、整頓されたロープや道具。黒アレスが帰ってきて、その気配が満ちた部屋は、いつもなら安心に包まれるはずだった。



 ギルド《グランド・タスク》では、三人娘がいつも通り騒いでいる。


「セリアさん! そのマントやっぱり似合います!」

「黒の悪魔さまとの距離、さらに縮まってません!?」

「……そのうち……同居……?」


 セリアはうつむきながら、かすかに首を横に振った。


「……黒さまとは……そんな……」


 だが声は震えていた。


(黒さま……ずっと隣にいてほしいって……言ってくれた……)


 その言葉が胸の中心であたたかく、同時にひどく怖い。“奪われてしまいそう”な気がした。



 昼の依頼は、アレスが同行した。


「セリア、今日は妙に落ち着かない顔してるな」


「……わからない。胸が……冷たくなる……」


 アレスは森の中を進みながら、周囲を警戒し、低い声で言った。


「感じているんだろう。……“視線”を」


「……視線?」


「殺意までは向けてないようだが、たまに感じないか?」


 セリアは足を止めた。


(わたしなんて……狙われる理由……)


 ない。

 自分は弱い。

 森で隠れて生きてきた、ただのエルフ。


 だけど──


(黒さまの“隣”を……許された……から……?)


 そう思っただけで、背中に冷たい汗が伝う。



 その時だった。


 かすかに、風の向きが変わった。

 セリアの背筋が凍りつく。


(……いる……!)


 見えない。

 音もしない。

 魔力もほとんど感じないのに──


“誰かが、わたしの名前を呼んだ気がした”


 アレスが即座に剣を抜いた。


「下がれ、セリア!」


 セリアの手が震える。


「……アレスさん……いま……だれかが……」


「わかってる。だが姿がない。気配も……完全に消している」


 アレスでさえ見つけられない相手。

 それはつまり──


(黒さまみたいな……“影の人”……!)


 視線が一点に向いた。


 森の木々の間。

 夕陽が差し込む光と影の境目に──


 金色の光 が、一瞬だけ揺れた。


「アレスさん! あそこ──」


 だがアレスが振り向く頃には、もう何もなかった。


「……気のせいじゃないよな?」


 アレスの声が低い。

 見えていなかったが、彼も確信した。


「……危険だ、セリア。今日はここまでだ。戻るぞ」


 セリアは小さくうなずく。


(怖い……でも……黒さまのために……強くならないと……)



 夜。黒の巣。


「おかえり〜セリア〜♪」


 黒アレスの声はいつも通り軽い。

 だが目は笑っていなかった。


「セリア〜。今日は……何かあった~?」


 セリアは小さく震えながらうなずいた。


「見えない誰かに……名前、呼ばれた気が……した……」


 黒アレスはセリアの肩を軽く掴む。

 その指先はやわらかいのに、いつもより少し強い。


「セリア。よく聞いてね〜?」


 黒アレスの声が低くなる。


「君を狙ってるのは……俺が昔、壊した“組織”の残党かもしれない〜」


 セリアの顔から血の気が引く。


「……イヤだ……わたし……黒さまの……邪魔……」


「違うよ〜♪」


 黒アレスは、ためらいもなくセリアの頬に手を添えた。


「セリアはね〜……“俺の隣に置きたい”って思った、大事な子なんだよ〜?」


 その言葉で、セリアの喉がつまる。

 胸の奥が熱く、苦しく、嬉しくて息ができない。


(わたし……黒さまの……隣……?)


「だからね〜……狙われちゃったんだと思う〜」


 黒アレスは軽く笑っているが、その目は刃のように鋭かった。



 その直後。


 黒の巣の外。井戸の外壁に、そっと影が落ちた。

 金色の瞳が、静かに輝く。


「……やはり、“隣”は本物なんですね。黒の悪魔さん」


 風と影の境界に溶けながら、リンドが静かに囁く。


「次は……もう少し近くに行きましょうか」


 その声は、決して届かない距離のはずなのに──


 セリアは、黒アレスの腕を掴んだまま震えた。


(……いま……誰かの声が……)


 黒アレスはセリアの頭にそっと手を置く。


「セリア〜……怖いなら、ちゃんと俺にくっついてていいよ〜?」


「……はい……黒さま……」


 セリアは震えたまま、黒アレスの胸元に額を寄せた。


 黒アレスは笑う。


「大丈夫〜♪ 俺が守るからね〜?」


 だがその瞳の奥では──

 すでに“戦いの影”が、深く、冷たく広がっていた。


 誰かが、セリアを奪いに来ている。

 黒アレスも、セリアも、それを確かに感じていた。

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