第17話 青の妖精、囁きに触れられる
その日、セリアは朝から胸の奥がざわついていた。
(……黒さまの魔力が……少し、揺れてる……)
黒の巣の空気はいつも通り静かだ。石壁に沿って並ぶ淡い灯り、整頓されたロープや道具。黒アレスが帰ってきて、その気配が満ちた部屋は、いつもなら安心に包まれるはずだった。
◆
ギルド《グランド・タスク》では、三人娘がいつも通り騒いでいる。
「セリアさん! そのマントやっぱり似合います!」
「黒の悪魔さまとの距離、さらに縮まってません!?」
「……そのうち……同居……?」
セリアはうつむきながら、かすかに首を横に振った。
「……黒さまとは……そんな……」
だが声は震えていた。
(黒さま……ずっと隣にいてほしいって……言ってくれた……)
その言葉が胸の中心であたたかく、同時にひどく怖い。“奪われてしまいそう”な気がした。
◆
昼の依頼は、アレスが同行した。
「セリア、今日は妙に落ち着かない顔してるな」
「……わからない。胸が……冷たくなる……」
アレスは森の中を進みながら、周囲を警戒し、低い声で言った。
「感じているんだろう。……“視線”を」
「……視線?」
「殺意までは向けてないようだが、たまに感じないか?」
セリアは足を止めた。
(わたしなんて……狙われる理由……)
ない。
自分は弱い。
森で隠れて生きてきた、ただのエルフ。
だけど──
(黒さまの“隣”を……許された……から……?)
そう思っただけで、背中に冷たい汗が伝う。
◆
その時だった。
かすかに、風の向きが変わった。
セリアの背筋が凍りつく。
(……いる……!)
見えない。
音もしない。
魔力もほとんど感じないのに──
“誰かが、わたしの名前を呼んだ気がした”
アレスが即座に剣を抜いた。
「下がれ、セリア!」
セリアの手が震える。
「……アレスさん……いま……だれかが……」
「わかってる。だが姿がない。気配も……完全に消している」
アレスでさえ見つけられない相手。
それはつまり──
(黒さまみたいな……“影の人”……!)
視線が一点に向いた。
森の木々の間。
夕陽が差し込む光と影の境目に──
金色の光 が、一瞬だけ揺れた。
「アレスさん! あそこ──」
だがアレスが振り向く頃には、もう何もなかった。
「……気のせいじゃないよな?」
アレスの声が低い。
見えていなかったが、彼も確信した。
「……危険だ、セリア。今日はここまでだ。戻るぞ」
セリアは小さくうなずく。
(怖い……でも……黒さまのために……強くならないと……)
◆
夜。黒の巣。
「おかえり〜セリア〜♪」
黒アレスの声はいつも通り軽い。
だが目は笑っていなかった。
「セリア〜。今日は……何かあった~?」
セリアは小さく震えながらうなずいた。
「見えない誰かに……名前、呼ばれた気が……した……」
黒アレスはセリアの肩を軽く掴む。
その指先はやわらかいのに、いつもより少し強い。
「セリア。よく聞いてね〜?」
黒アレスの声が低くなる。
「君を狙ってるのは……俺が昔、壊した“組織”の残党かもしれない〜」
セリアの顔から血の気が引く。
「……イヤだ……わたし……黒さまの……邪魔……」
「違うよ〜♪」
黒アレスは、ためらいもなくセリアの頬に手を添えた。
「セリアはね〜……“俺の隣に置きたい”って思った、大事な子なんだよ〜?」
その言葉で、セリアの喉がつまる。
胸の奥が熱く、苦しく、嬉しくて息ができない。
(わたし……黒さまの……隣……?)
「だからね〜……狙われちゃったんだと思う〜」
黒アレスは軽く笑っているが、その目は刃のように鋭かった。
◆
その直後。
黒の巣の外。井戸の外壁に、そっと影が落ちた。
金色の瞳が、静かに輝く。
「……やはり、“隣”は本物なんですね。黒の悪魔さん」
風と影の境界に溶けながら、リンドが静かに囁く。
「次は……もう少し近くに行きましょうか」
その声は、決して届かない距離のはずなのに──
セリアは、黒アレスの腕を掴んだまま震えた。
(……いま……誰かの声が……)
黒アレスはセリアの頭にそっと手を置く。
「セリア〜……怖いなら、ちゃんと俺にくっついてていいよ〜?」
「……はい……黒さま……」
セリアは震えたまま、黒アレスの胸元に額を寄せた。
黒アレスは笑う。
「大丈夫〜♪ 俺が守るからね〜?」
だがその瞳の奥では──
すでに“戦いの影”が、深く、冷たく広がっていた。
誰かが、セリアを奪いに来ている。
黒アレスも、セリアも、それを確かに感じていた。
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