理性の最後の糸

唇が離れた瞬間に訪れたのは、世界が引き裂かれるような喪失感だった。

しかし、それも束の間のことだ。

荒い呼吸を整える間もなく、彼の熱い吐息が私の首筋へと滑り落ちてくる。

敏感な皮膚を湿った唇が這う感触に、私は声にならない悲鳴を上げ、彼の背中のシャツを強く握りしめた。


「……名前を、呼んで」


耳元で囁かれた掠れ声は、懇願というよりも呪縛のように響いた。

私が震える声で彼の名を紡ぐと、それに応えるように腕の力が強まる。

肋骨がきしむほどの抱擁は、痛みさえも快楽の一部に変えてしまう。


彼の大きな手が、私の腰から背中へと這い上がってきた。

指先が背骨をなぞるたびに、体の中に電流が走るような痺れが広がる。

シャツの裾が捲れ上がり、冷房の冷気と彼の掌の熱が同時に肌に触れた。

その温度差が、頭をおかしくさせそうだった。


もはや、自分と彼との境界線がどこにあるのかも曖昧だ。

衣服というわずかな隔たりが、ひどく邪魔なものに感じられる。

私の焦燥を読み取ったのか、彼の手が胸元のボタンに触れた。

一つ、また一つと留め金が外されるたびに、理性を繋ぎ止めていた最後の糸が音を立てて切れていく。


窓の外で一際大きな雷鳴が轟き、白い光が室内を一瞬だけ照らし出した。

その光の中で見えた彼の瞳は、昏く、深く、私を飲み込もうとしていた。

私は逃げるように、いや、自ら飛び込むようにして、再び彼の唇を求めた。

雨音だけが、堕ちていく私たちを包み込む唯一の証人だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る