16.白き子の祈り
洞の空気そのものが震えた。まず視界を満たしたのは、白銀の光。風もないのに微かな圧が肌を撫で、金属にも似た冷たい匂いが鼻先を掠めた。
鱗のひとつひとつが淡く脈動し、明かりのない洞窟を昼のように照らしている。その正体を認識した瞬間、白雅の呼吸は止まった。
胸の奥がひどく静まり返り、自分という輪郭が世界から切り離されるような感覚。
そこにいたのは、伝承に語られる『竜神』そのものだった。
それは、本当に巨大な竜だった。美しい白銀色に輝く鱗を連ねて、その長大な身体を優美にくねらせている。
白雅は思わずその存在の荘厳さに見惚れてしまった。こちらを見つめる眼は金色で、瞳孔は縦に長い。生き物ではなく自然そのものの視線だ。五本爪の前肢には光り輝く白い珠、竜珠を抱えていた。
「竜神……」
思わず白雅の唇から声がこぼれた。
『数多の困難と、我が眷属、虹、蛟、蜃の試練を潜り抜けて、よくぞ我が前まで辿り着いた』
白雅は竜神に見入っている。竜神のほうも白雅を見つめているようだった。
「どういうことだ?」
忉李の疑問には紫闇が答えた。
「霧の中の魔物は虹の仕業。蛟はさっき襲われただろう? 蜃はその名の通り蜃気楼を見せるのさ」
紫闇は、昔から知っていた秘密をようやく打ち明けるかのように肩を竦める。
「そうか……」
竜神を憚って会話は小声だったが、そもそも竜神はあまり頓着していないようだった。
『蜃の幻術が通用しない人間が、いちどきに二人もいるとはな……』
二人と言われて、白雅は紫闇と景葵を見る。紫闇は当たり前のように、景葵は少し困ったように答えた。
「当たり前でしょう? アタシはこれでも呪術師の端くれでねぇ。呪術師が幻術に溺れてどうすんのさ」
「俺は……何故かわからないが、そもそも蜃気楼そのものが見えていなかった。だから、皆の会話を聞いてもなにが起きているのか、さっぱりで……」
「そうなのか!?」
景葵の言葉に、忉李が驚く。紫闇が呆れたように景葵を見た。やっぱりね、とでも言いたげな、探るような視線だった。
「世の中には、呪術や幻術の類がまったく効かない人種もいるんだけど……景葵もそうだとは思わなかったわ。なに、アンタたち、アタシに喧嘩でも売ってんの?」
「そんなつもりは……それより、俺も、ということは、もしかして赤鴉も……?」
景葵の言葉に紫闇が頷く。少しだけ寂しげに笑って、白雅は再び竜神を見上げた。
『そなた、『白い子供』か。久方ぶりに見る』
竜神の金色の瞳がわずかに和んだような気がした。その眼差しは、親しみとも、興味ともつかない。古い記憶の影が揺れている。
白雅は気になっていたことを訊いてみようという気になった。
「……会話を許してもらえるか?」
『許す』
短い返答に、白雅はやや緊張しながら言葉を選んで口を開いた。
「いつのことかわからないが、昔、この山に入った『白い子供』がいるだろう? その人はどうなったんだ?」
竜神の眼差しが、束の間、昔を懐かしむようなものになった。
『その者のことはよく覚えている。凄腕の呪術師だった。暫しの時をともに過ごし、我が憂いを払ってくれたのでな。礼に白化現象を治して故郷に送り届けてやった』
「なんだ。じゃあ、その人は麓の村に降りて来なかっただけで、無事に故郷で天寿をまっとうしたんだな」
安心するように笑った白雅に、竜神は不思議そうに尋ねた。
『その昔に存在した『白い子供』のことを、何故、そなたが心配するのだ?』
「だってさ、麓じゃ『怒った竜神に捧げられた子』なんて噂があるんだよ。そりゃ気になるだろ? 本当だったら後味悪すぎるし」
そう言って、カラリと笑った白雅に、慌てたのは紫闇だ。
「ちょ……ちょっと、白雅……」
『ふむ、そなたはなかなか興味深いことを言う。その者が人身御供であろうがなかろうが、そなたには関係なかろう。何故、そのように思う?』
竜神は白雅の直接的な表現にも気に留めた様子はなかった。白雅はにこりと笑って答えた。
「そうだな。もし、人身御供なら、そんなの神様だって認められない。貴方がそれを望んだのではなくて、本当に良かった。安心したよ」
「白雅!」
ついに紫闇は小さく叫んでしまった。だが、次いで聞こえたのは笑声だった。
『くっくっく……そなた、我に説教でもする気か? 小娘』
「小娘じゃない。白雅だ」
竜神相手でも、白雅は一歩も引かなかった。もし竜神が流血を好むような神だったら、たとえ願いを叶える力を持っていたとしても、そんな神は願いさげだった。
『……面白い。では、白雅よ。そなたは対価と引き換えに、我になにを願う? その願いの強さ、純粋さ、ともに叶えるに値しよう』
ようやく竜神がその話題を口にした。白雅は喜びに目を輝かせた。
「ここにいる忉李の病を完治させてほしい。ついでに貴方の加護をこの子に与えてもらえれば嬉しいな」
白雅は真っ直ぐに竜神を見つめた。竜神もまた、白雅を真っ直ぐに見据える。白雅はわずかに肩を震わせた。竜神の視線が、内側まで射抜くようだった。
「ちょっと待て、白雅! なにを言っている。お前の叶えたい願いとはそれか!?」
忉李の驚いたような声が白雅の耳に届いたが、白雅は竜神の金色の瞳から目を離さなかった。ややあって、竜神は嘆息したようだった。
『……よかろう。確かに、それがそなたの一番強い願いのようだ。だが、願いを叶える前に聞きたいことがある』
「なんでも聞いてくれ」
白雅の返事にはためらいがない。竜神はひとつひとつ、疑問を確認していった。
『何故、そなた自身のことではなく、他人のことを願う? そなたとて、その白化現象を治せるものならば治したいと思っているはずだ』
紅の瞳が、かすかに揺れた。静かな洞の空気が硬くなる。
「確かに、いろいろと不都合もあるが、十八年間この身体と付き合ってきたからな。もう慣れた。背負うべき使命もないことだしな。それに比べて、忉李は桜花国の王太子で、たくさんの民の存在を背負っている。それなのに、難病に侵され歩くことさえままならない。子供にとってこれほどつらいことがあるか? 遊びたい盛りの年頃なんだ。それに、王になってからのほうが大変なのに、病気まで抱えていたら、忉李の心が潰れてしまう。私は、この瞳と髪の色を気味悪がらないどころか、褒めてくれる相手に生まれて初めて出会った。忉李が大切なんだ。だから、忉李には幸せに生きてほしい。忉李の病気が完治することは、彼のこれからにとって必要なことだ。それは貴方にしか叶えられない」
「白雅……」
忉李は呆然と呟いた。予想していた紫闇と景葵はなにも言えなかった。
竜神はしばし黙した。白雅の言葉を測るように、ゆっくりと瞼を伏せる。
『では、次の問いだ。何故、対価のことを我に聞かぬ? その願いと引き換えになにを要求されるのか、そなたは知りたいとは思わぬのか?』
「それは知りたいさ。だが、事前に聞くことはこの場合、意味がない。私は貴方に忉李の病を治してもらいたい。それは動かしようのない事実だ。それと引き換えにするのなら、どんなことでもするさ。それが、たとえ自分の命を差し出すことであったとしてもな」
「駄目だ、白雅! 僕はそんなこと、望まない! 僕が望むのは、これからも白雅や景葵や紫闇たちと一緒にいたい、ただ、それだけなんだ……」
忉李の泣き声が聞こえる。あぁ、あの子を泣かせるつもりなんて、微塵もないというのに。どうしてか、自分は上手くやれない。
『よかろう。最後の問いだ……我に申した言葉に嘘偽りはないな?』
「ない」
即答だった。竜神はわずかに瞑目した。
『……そなたの願い、叶えよう』
「感謝する、竜神よ」
白雅はようやく安堵の表情を見せた。竜神の表情は曖昧で、読み取れない。
「あ……」
忉李が声をあげた。手足と身体の芯が熱い。まるで燃えるようだ。忉李の肌が淡く紅潮し、その小さな胸が上下するたび、白い息がほのかに光を帯びるようにも見えた。全身を駆け巡る血潮が脈動となって、忉李の小さな身体を震わせた。
「嫌だ……嫌だ……白雅──!」
絶叫、そして、静寂。忉李は景葵の背中で気を失っていた。景葵がそっと忉李をおろすと、白雅は忉李の傍に近寄った。手足を触って確かめ、瞳孔を確認する。胸元に耳を当てれば、呼吸も鼓動も乱れがなかった。
「治っている……」
白雅は呆然と呟くと、泣きながら気を失った忉李の涙の跡を拭い、その小さな身体をギュッと抱き締めた。
「良かった……忉李、本当に良かった……」
白雅は、しばらくそのままで忉李の温もりを心に刻む。竜神は、白雅が忉李を離して景葵に預けるまで待っていてくれた。
その静謐な金色の瞳は、ただ白雅だけに向けられていた。
『願いは叶えた。対価をもらおう』
その瞬間、洞の空気が凍りついた。光の脈動がピタリと止まり、竜神の巨大な影だけがゆっくりと揺らめく。紫闇と景葵が息を呑んだ。
「あぁ、どうすればいい?」
だが、白雅の表情は晴れやかだった。
『対価は──』
告げられた瞬間、白雅の眉がピクリと動いた。心臓が一拍分、脈を打つのを忘れた。世界が一瞬、沈黙する。
だが驚きは一瞬だけ。次には、腹の底からフッと笑みが溢れる。
「……そっか。いいよ。それなら、私にぴったりだ」
竜神は深い声音で名乗った。
『我が名は──璙王(リョウオウ)。この世界を統べるものなり』
*
「忉李。忉李、いい加減に起きろよ」
「う……ん……白雅……?」
暗がりの中で、白雅の白い髪と紅い瞳はほのかに発光しているかのようだった。闇に慣れた忉李の視界には、その白だけが浮かびあがり、夢か現か判別できないほどだった。
忉李は笑みを浮かべた。
「白雅……綺麗だ……」
白雅は瞬きを一度だけして、ポツリと返した。
「はぁ?」
「あらまぁ、やるじゃないの、ボウヤ」
紫闇の声に、忉李の意識が見る間に覚醒する。
「は……白雅!? 竜神は……」
白雅は、しぃー、と人差し指を唇に当てた。声は驚くほど穏やかで、落ち着いたものだった。
「いるよ。さぁ、一緒に帰ろう」
「へ? 帰る?」
頭が混乱している。白雅は竜神に願いを叶えてもらったはずだ。今まで頼りなかった忉李の手足には、正常な感覚が戻ってきているのだから。何故、白雅は平気な顔をしてここにいるのだ? ふと、忉李はあるものに気がついた。
「なんだ、これ?」
それは、白雅の左の二の腕に巻きついた蛇の形をした銀色の腕輪だった。鱗にあたる部分が微かに脈打ち、生き物のように呼吸している。白雅が笑った。
「これ? 竜神さ」
「へ……えぇっ!?」
思わず忉李は叫んだ。腕輪はそれ自体がキラキラと煌めいているようだった。
白雅はそっと腕輪に触れた。冷たくも温かい、不思議な脈動が指先に伝わった。
「まったく、驚いたよねぇ。まさか、白雅が倒れる前に呟いていた言葉に、こんな意味があったなんて……」
紫闇が呆れたように呟くと、景葵がまったくだ、と言わんばかりに頷いた。
「な……なにがあったんだ?」
忉李の不安そうな言葉に、白雅は穏やかな笑みを浮かべた。白雅の胸の奥で、あの瞬間の残響だけが、まだ消えずに震えていた。言葉にすれば壊れてしまうような、かすかな震えだった。
『私と、一緒に行かないか? ……一緒に、いろんな夢を見よう……?』
自分が口にした独白の意味を噛み締めながら。
*
帰りは行きと違い、竜神が地下からの抜け道を教えてくれたお陰で、最短経路で地上に戻ることができた。抜け道は河川に通じていた。
地上に出た瞬間、まばゆい光と水の匂いが四人を包んだ。湿った風が頬に触れ、ようやく現実に戻ってきたのだと実感した。
「久しぶりの外の空気だー。美味しー!」
「本当。よく帰って来れたわねぇ」
彼らの間を清涼な風が吹き抜ける。
「歩けるようになったなんて、今でも信じられないな」
「ようございました、殿下」
四人がそれぞれ感想を口にしていると、あたりが急に騒がしくなった。
草を踏む音、金属の擦れる気配。
「いたぞ! 河川敷だ!」
それは、韋煌国の正規の武官たちだった。
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