12.竜神の棲む山
突然出てきた師匠の話に、景葵と忉李は戸惑いを隠せなかった。
「師匠というのは、白雅が以前に言っていた『旅の武人』というヤツか」
「景葵、知っているのか?」
「おやまぁ、よく知っているね。そうだよ……白雅、アンタが自分の過去を他人に話すなんて、珍しいねぇ」
「うるさい」
白雅の機嫌は直らない。目深に被った外套をさらに深く被り直して馬を進める。それを無視して紫闇は語り出した。
「白雅がその武人に拾われたのは六歳のときさ……」
紫闇は言葉を区切り、山風に揺れる白雅の外套をちらりと見た。
「当時、若干十八歳ながら、すでに名の知れた武人だった」
ここに至って、紫闇の瞳にも痛みの色が滲んだ。
「名は、赤鴉(セキア)」
赤鴉の名を聞いた瞬間、白雅の指先がかすかに強張った。
景葵は首をかしげた。
「赤鴉? どこかで聞いたことのある名前のような……」
「まぁ、有名だったからね。アンタが聞いたことあっても不思議じゃないさ。生きていればアイツも三十か。十二年も経てば、互いに年取ったもんだわ」
「どうして、その赤鴉の話で、白雅の機嫌が悪くなったんだ?」
忉李の言葉に、紫闇は寂しげに笑った。
「白雅は、自分がアイツに捨てられたって思っているのさ──」
景葵が息を呑む。紫闇は続けた。
「赤鴉は当時の白雅にとってすべてだった。路地裏に落ちていた幼子を拾い、白雅と名付け、武術を教え込んだ。そして、赤鴉は幼い白雅を連れて異国を旅して回った。つまり、白雅にとって赤鴉は世界そのものだったんだよ。だけど、赤鴉はいなくなった。ある日、突然に。アタシに白雅を預けてどこぞへ消えちまったのさ。あのときの白雅の落ち込みようったらなかったね」
話を聞いていた景葵と忉李は驚きを隠せなかった。いつも朗らかな白雅にそんな過去があったとは。
「それから白雅はずっと世界を旅してる。アタシはそれが赤鴉を捜すためだと今でも思ってる。いや、思ってたんだけどねぇ……変われば変わるもんさ。まさかアンタに、他に大事にしたいもんができちまうとは」
「紫闇、喋りすぎだ」
白雅は紫闇を睨めつけるが、当の紫闇はどこ吹く風だ。
「他に大事にしたいものって……」
「アンタたちのことさ、全、景葵……特に景葵は、本当は全然違うんだけど、包み込むような雰囲気っていうか、一緒にいて安心する空気感っていうか、どっか赤鴉に似てるとこ、あんだよねぇ。だから、白雅も余計に……」
「紫闇! 余計なことを言うな!」
明らかに喋りすぎの紫闇を白雅は制する。
「はいはい、悪かったよ」
「絶対に悪いと思っていないだろ、お前」
「あれまぁ、疑り深くなっちまって。お姉さんは悲しいわ。昔はあーんなに素直な可愛い子だったのに。ま、アンタは今でも充分可愛いけどね」
さすがの白雅も幼い頃を知られている紫闇には頭があがらないらしい。顔を赤くしてそっぽを向いている。
「白雅は、今でも赤鴉に会いたいのか?」
忉李の問いに、白雅は少し迷ったあとで、素直に答えた。
「……あぁ。会えるなら、会いたい。会って、直接聞きたいんだ。何故、私を置いて急に出て行ったのか。私は、赤鴉にとってなんだったのか。今でも、聞いてみたい」
「そうか……」
何故か、忉李がしゅんと落ち込んでいる。紫闇がクスクスと笑い声を立てた。
「気にするんじゃないよ、ボウヤ。ボウヤの存在は白雅にとって、ちゃんと大事なものになっているんだからね。もっと自信をお持ち」
「ボウヤって言うな。小さいって言われるのと同じくらい嫌いだ」
「おや、そうかい? 可愛いボウヤにはちょうどいいと思っていたんだけど」
忉李は説得を諦めた。紫闇はなにがなんでもボウヤで通すつもりだと気づいたからだ。
「……まぁいい。で、ここから歩くのか?」
いつの間にか村に着いていた。茅葺きの屋根が夕陽に照らされ、山の影が村全体に長く伸びていた。その奥に、異様なまでに巨大な山が聳えている。
「そういうことだ。その前に少し休もう」
「何故だ? 僕はまだ平気だ」
「今は平気そうに思えても、後でガクッとくることがあるからな。少し休んだほうがいい。眠れるようなら寝ろ」
白雅の言葉に、旅慣れている紫闇も同意したため、忉李と景葵は素直に休むことにした。
*
村の宿で身体を温め、短い休息をとると──四人は再び山道へと向かった。
宿を出ると、朝の冷えがまだ地面に残っていた。山風が浅く吹きおろし、四人の足元で落葉が小さく転がっていく。
途中で老婆に呼び止められた。呼び止めた老婆は、古びた杖をつきながらも、目だけは鋭く光っていた。
「あんたたち、山に入るつもりかい? 悪いことは言わないよ。やめときな。山には昔から魔物が棲んでいるんだ。今まで入って生きて帰ってきた者はいないんだよ。年寄りの言うことは聞いておくもんだ」
「ご忠告感謝するよ。だが、もうここに行くしかないんだ」
白雅が苦笑を向けると、老婆はやれやれと首を横に振った。紫闇が思いついたように老婆に話しかける。
「あ、そうだ。ねぇ、おばあさま。このへんで竜神に纏わる伝承とかない? どんなことでもいいから知ってることあったら教えてほしいんだけど……」
老婆がさっと顔色を変えた。
「あんたたち、まさか竜神様に会いに来たのかい? やめときな。どんな願い事を抱えているのか知らないけど、竜神様の逆鱗にだけは触れちゃあいけないんだ。竜神様は無断で御山に立ち入った人間をお許しにはならない。そういうものなのさ。昔々、その昔、あたしらの先祖はずっとそうやって御山を守ってきたんだ。そっとしておくのが一番なのさ。わかったらもうお帰り。幸運の『白い子供』でもいるんなら話は別だけどさ」
「幸運の……『白い子供』? 『白い子供』はただの異形じゃないのか?」
目を瞬いた白雅を、老婆は食い入るように見つめた。
「おや、あんた、よく見たら『白い子供』じゃないか。驚いたねぇ。あたしが生きている間に拝めるときが来るなんて」
老婆は空を見上げた。雲間から細い光が差し、皺だらけの手が淡く照らされた。老婆は遠い昔を懐かしむように目を細める。
「このあたりでは昔から、『白い子供』は幸運のお守りだと言われているんだよ。なんでも、昔、竜神様が酷くお怒りになったことがあってね。そのとき、外国から流れてきた『白い子供』が竜神様の怒りを鎮めると名乗り出て、御山に入っていったんだよ。そして──二度と帰っては来なかった。だけど、それからピタリとお怒りは鎮まり、村には平穏が訪れたんだよ」
なんだかそれは人身御供のような話ではないか。だが、よくよく考えてみれば、最悪の場合、それで竜神の怒りは鎮まるのだ。白雅にとってはそう悪い話でもなかった。
「なるほど……滅多にいないからこそ、『幸運』って言われるのか」
白雅がポツリと呟くと、紫闇は白雅の袖を軽くつまんで引いた。目だけが鋭く、老婆の反応を測っている。
「しー、余計なこと言いなさんな……おばあさま、どうもありがとう。とても勉強になったわ。とりあえず、竜神様にお伺いを立てて、許可を得てから山に入ることにするわ」
丁寧に礼を言った紫闇に、老婆は目を丸くした。
「おや、じゃあ、あんたは呪術師かい。こんな派手ななりをした呪術師なんぞ、見たことも聞いたこともないがね」
そう言ってカッカッと笑う老婆に、紫闇のこめかみに青筋が浮いたが、誰もなにもツッコまなかった。
老婆と別れ、一行は山の裾野にやって来た。裾野には薄い霧が立ち込め、木々の間から冷たい湿気が流れ出していた。
鳥の声もなく、どこかで枝がパキリと折れる音だけが響いた。
「さてと……今の話からわかったのは、入山するのに竜神の許可がいるってこと。それから、場合によっては『白い子供』の人身御供も効果があるってことだね」
「ヒトミゴクウってなんだ?」
「簡単に言えば、人を使った生贄ってことだ。祭りのときや安全祈願のときなんかに動物でやるだろ? アレ」
ケロリとした白雅の答えに、忉李は盛大に固まった。そして、思わず大声を出した。
「馬鹿を言うな! そんなことのためにお前と一緒にいるわけじゃないぞ!」
忉李の声が山肌に反響し、近くの梢に止まっていた鳥がばさりと飛び立った。
「わかっている。万が一の場合の話だ……」
白雅は冗談に聞こえるほど淡々とした声で続けた。
「誰かが道を開かなきゃならないときもある。私は、その役目でも構わない。最悪でもお前くらいは生き残ってもらわないと」
景葵には、それがまるで他人事のように聞こえた。景葵はおかしいと思った。これではまるで、そのことをあらかじめ知っていたかのような。
「……そうか。白雅、お前、最初からそういう可能性も計算に入れていたんだな?」
「え?」
景葵の言葉に、忉李が絶句した。だが、白雅は小さく肩を竦めて言葉を濁した。
「そんなことはどうでもいいじゃないか。今、大事なのは、ほら……」
白雅の視線の先を追えば、紫闇が地面に『可』と『不可』と五十音のかな列を書くと、心臓型の板のようなものを荷物から取り出してその上に置いたところだった。
板を置いた瞬間、山気がヒヤリと揺らぎ、周囲の音がどこか遠のいた。
紫闇の目がふっと鋭くなった。いつもの軽口は消え、呪術師の顔になっている。
それは二個の脚輪と一本の棒とで支えられた板だった。いわゆる狐狗狸板と呼ばれるものである。そして、その板の上に手を置いて、なにやらブツブツと祈祷をし始めた。よくよく聞けば、神へ捧げる祝詞のようでもある。
板を支える棒が地面の上を動き出した。
『不可』
紫闇は顔をしかめた。もう一度。
『不可』
結果は変わらない。さらにもう一度試そうとしたとき、それまで黙って見ていた白雅が板に手を伸ばした。
「白雅? いったいなにを……」
戸惑ったような紫闇の声にも構わず、白雅は板の上に置いてある紫闇の右手に自分の右手を重ねた。白雅が手を重ねた瞬間、見えない膜が張るように、周囲の風が一斉に止んだ。空気が変わる。紫闇も小さく息を呑んだ。
「幸運の『白い子供』なんだろ? 竜神にお願いしてみるさ」
白雅はニヤリと笑うと、深く息を吸い込み、心の内で名も知らぬ竜神に頭を垂れた。
「竜神よ、願わくは我が声を聞き届け給え。我が願いは御身にしか叶えられぬもの。それ故に御山に踏み入ることを許し給え。畏み、畏み、申す……」
板がゆっくりと動いた。
『可』
白雅と紫闇は顔を見合せて笑った。その様子に、忉李と景葵も結果を悟ったようだった。
「よし、お許しも出たことだし、さっそく行こうか……どうした? 景葵」
景葵は振り向いた瞬間、背筋を細い刃物で撫でられたような感覚に襲われた──ただの勘で済ませるには、鋭すぎる気配だ。
山肌に沿って吹いていた風が、一瞬だけ逆向きに流れたように感じられた。
「……いや、視線を感じたような気がするのだが……気のせいか」
「視線だと? ……どっちからだ?」
景葵が指差した方角には村があった。白雅は彼方を見はるかすように目を細めると、首を横に振った。
「駄目だ。確認できない」
「白雅でも駄目なら、気のせいだったんじゃないの?」
紫闇の言葉に、白雅は眉根を寄せた。
「だが、景葵ほどの使い手が感じた視線だ……気になるな」
「いいじゃない。山に入れば追っては来れないわよ。なんていっても許可を得ていないんだもの」
それもそうか、と思い直すと白雅は忉李を景葵の背に預け、山へと分け入った。
木々の影は濃く、踏み入れた途端に昼の光が背後へ遠ざかっていくようだった。
*
急峻な道なき道を、紫闇を先頭にして進む。次が景葵と忉李、最後に白雅だ。
「そうだ、紫闇。今のうちに残りの矢をすべてお前に渡しておく」
「アラ、助かるわぁ。使い過ぎてどうしようって思っていたとこだったの」
うふっと笑う紫闇は、戦闘となると意外に後先を考えない性質だ。一方で、白雅は自身が暗器を使うこともあって、大雑把に見えるが武器の残数には気を使う。矢を温存したのも、このためだった。
「帰りの分もちゃんと残しておけよ」
「はぁい」
素直に返事をするものの、一旦戦闘となるとコロッと忘れるのが紫闇だ。まったく、好戦的で困る。
「白雅、さっきからなにをしているんだ?」
「赤い布の端切れを、木の枝に結んでいるのさ。これで帰り途がわかるだろ?」
「へぇー」
景葵に背負われた忉李が感心する。赤は森の中で最も見つけやすい色だった。
「お伽噺だと、食べ物の屑とか光る石ころとか、そんなだけど、実際にはそうやって道しるべを作るのか」
「時と場合によるけどな。食べ物の屑では鳥に食べられてしまうし、光る石では日中は他の石に紛れてしまう」
「なるほど」
忉李は見るもの聞くものすべてが初めてで新鮮だった。このまま四人でずっと一緒に過ごすことができればいい。そんな思いが胸をよぎる。けれど、その願いが叶う日はきっと来ない──そう、どこかでわかっていた。
山風が吹き、周囲の気温が少しさがる。濃くなり始めた霧が、足元の岩肌を白く曇らせていた。
「……霧、か」
白雅の呟きが聞こえた。
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