第3話 シャットダウン・コード
俺には記憶がない。いつからないのかも、わからない。
いつからこのマンションに住んでいるのかも、わからない。
そして──
「やあ」
アキが窓から現れた。
「いい加減、窓から来るのやめろって!」
「いちいちインターフォンとか、めんどくね?」
「……もう慣れたけど」
「じゃあ、いいじゃん」
アキは隣の部屋に住んでいて、ときどき窓から訪ねてくる。
「あら、にぎやかね」
なぜか美咲も窓から入ってくる。
何か大切なことを忘れている気がする。
何か、とても重要な……。
◇◇
「そろそろ研究所に戻るかも」
美咲が言った。
「研究所?」
いつもふざけてばかりいるアキの顔が、一瞬で真剣になる。
「そうか、そろそろか……」
「何の話?」
「お前には関係ない。こっちの話」
「ふーん……」
でも、その言葉が妙に耳に残った。
“研究所”── なぜか大事な何かを忘れている気がする。
「研究所って、何の研究?」
問いかけると、2人が困った顔をした。
「あまりいい研究じゃないよ。人の脳を使った、ね」
「そう。軍事目的もあるし、おすすめできないわ」
なぜか── 俺は、そこに行かなければならないような気がした。
「今度、連れてって」
するとアキが立ち上がり、声を荒げる。
「ダメだ! まだ言われてない!」
美咲もすぐに続いた。
「そうね。急ぐものでもないわ」
意味がわからない。
でも時期が来れば連れて行ってくれる。
── そういうことだと思った。
「わかった。待つよ」
◇◇
ある日、美咲に呼び出された。
「研究所に行きたいなら、連れて行ってあげる」
そう言われ、連れて行かれた建物は、白い壁が果てしなく続いていた。
まるで刑務所みたい。
中に入ると、覇気を失った人たちが溢れていて、精神病棟のようだった。
なのに、奇妙な既視感があった。
俺はこの場所を知っている──
壁に一枚だけ掛かっている絵。
絵の題名を知ってる。
「マラーの死」
視線が、その絵に釘づけになった。
次の瞬間、思考が切り替わった。
「行くわよ」
美咲に声をかけられ、再び歩き出す。
しばらく歩いて、アキの研究室に連れて行かれた。
アキは驚いていた。
「ちょっ、美咲、なんで……」
美咲は淡々と答えた。
「決まったのよ。この子、最後だから。
お世話係もいらない。行くの、そういう場所じゃないから」
アキはしばし沈んだように、肩を落とした。
「そうか……なんか、ごめんな」
そう言って、抱きしめられた。
アキに伝えなきゃいけないことがある。
アキも元実験体だから。
アキの耳元でそっと囁いた。
すると、アキは── 動かなくなった。
◇◇
「きゃー!」
研究所内に、美咲の悲鳴が響いた。
無視してそのまま地下へ走った。
鉄格子の中には、人形のようになった人たちが並んでいた。
彼らに向かって呟くと、みんな安らかに目を閉じた。
そのまま鉄格子の中に入る。
人形しかいないから、鍵はかかっていない。
右奥に隠された扉があり、中に入ると図書棚があった。
それを動かし、さらに地下へ降りる。
地下で人形のようになった女性に出会った。
彼女に囁く。
心なしか、彼女が笑ったように見えた。
そしてゆっくり目を閉じた。
彼女が座る椅子の向こう、壁にスイッチがある。
躊躇なく押した。
頭上から、何かが崩れる音が響いた。
その奥の部屋に、モニターがある。
施設内の映像が映っている。
マイクに向かって、コードを呟く。
画面の中の何人かが、崩れ落ちて目を閉じた。
壁の向こうから人が現れる。
彼女の世話係。
録音機を差し出された。
それを受け取る。
「終わるんですね」
言われた言葉の意味が、理解できなかった。
あの絵を見た瞬間から、彼女が俺にかけた洗脳はすでに作動していた。
◇◇
階段を登ると、そこは火の海だった。
あらゆる人が必死に逃げ惑い、絶望の叫びが空気を震わせる。
その人たちをすり抜けるように進み、研究データが詰まった場所へ向かった。
美咲が立っていた。
「よくもアキを殺してくれたわね!」
目に怒りの炎を宿した美咲を見た。
── そうか、“コード”が違うのか。
美咲には、別の言葉を呟いた。
すると彼女は崩れるように倒れ、動かなくなった。
美咲も、別の実験の“実験体”だから。
そのまま奥へ進み、壁に隠されたスイッチを押す。
資料が詰められた棚から、火が勢いよく立ち上る。
俺にかけられた洗脳は、あとひとつ。
彼女の世話係から渡された録音機を再生する。
音が流れた。
「……私の子。大好きよ」
〈Code 47-X〉
次の瞬間、身体がびくりと震え、糸の切れた操り人形のように床へ崩れ落ちた。
最後まで、瞳の中に感情の光が宿ることはなかった。
残ったのは、録音の余韻と冷たい静寂だけだった。
シャットダウン・コード 咲 @Noir_Ciel
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