第6話 少年は、指を弾いて霊を払う
二合分の『悪魔のおにぎり』を完食した直人は、満足げに膨れた腹をさすりながら、焚き火の炎を見つめていた。
体内では糖質と脂質のケミストリーが猛威を振るい、心地よい倦怠感が全身を包んでいる。思考はトロトロに溶け、進路の悩みなどという高尚な問題は、一時的に彼方へと吹き飛んでいた。
その時、ジャリッ、と砂利を踏む足音が近づいてきた。
「こんばんは」
声の主は、里奈だった。後ろには遥も続いている。
二人の手には、湯気を立てるシェラカップが握られていた。
「さっきは本当にありがとう! おかげで命拾いしたよ。これ、お礼にコーヒー淹れたから、よかったら飲まない? ノンカフェインだから眠れなくならないよ」
里奈が差し出したカップからは、深煎りの豆の芳醇な香りが漂っている。
本来なら、一人の時間を邪魔されるのは御免被るところだが、満腹の直人は精神的にも武装解除されていたし、何より温かいコーヒーの誘惑には抗えなかった。
「……あ、どうも。いただきます」
直人はお礼を言ってカップを受け取り、二人にも焚き火の周りの空いているスペースを勧めた。
初対面、しかも年上の女性二人組。
普段の直人なら貝のように口を閉ざす場面だが、腹を満たしたことによる心理的な余裕と、やはり彼女たちの『シチュースパゲッティ全滅事件』のインパクトが強すぎたせいか、ふと疑問が口をついて出た。
「……お姉さん達は、大学生ですか?」
沈黙を破った直人の問いに、二人は顔を見合わせて微笑んだ。
「うん、そうだよ!」
里奈は、遥と目を合わせて自己紹介をする。
「私は平山里奈。こっちは大川遥。二人とも大学生よ」
「よろしくね、救世主くん。……で、あなたは?」
遥に訊かれ、直人は居住まいを正した。
「僕は、一条直人。高校生です」
「へえ、高校生なんだ」
里奈が目を丸くして感嘆の声を上げ続ける。
「ていうか、高校生でソロキャン? 渋いね~! 私なんて高校の頃は街中を遊び回ってたよ~」
里奈の言葉に、遥が続く。
「里奈と一緒にしないであげて。……でも、確かに珍しいわね。一人でこんな山奥に来て、怖くないの?」
遥の質問に、直人が答えようとした時だった。
不意に、焚き火の炎が不自然に揺れ、嫌な冷気が3人の間を吹き抜けた。
「……ッ!」
里奈がビクリと肩を震わせ、瞬時に顔を強張らせて遥を見る。
遥もまた、鋭い視線を闇の奥へと向けていた。
「遥、今……」
「ええ。来てるわね。……また、変なのが」
二人の声色が、先ほどまでの明るいものから一変して、緊張感を帯びたものになる。
直人は少し驚いた。一般人なら気づかないレベルの微弱な気配だ。それをこの二人は、はっきりと感知している。どうやら彼女たちは、ただの女子大生キャンパーではないらしい。
直人の視線の先、里奈の背後の闇から、
――浮遊霊だ。
悪意はないのだろう。直人が作った『悪魔のおにぎり』の強烈な香りと、楽しげな笑い声に釣られて、森の奥からふらふらと寄ってきただけの、空腹で寂しがり屋な霊。
だが、放っておけば憑かれて体調を崩すし、何よりせっかくのコーヒータイムが台無しだ。
「……あー、もう! なんで私たちっていつもこうなの!」
里奈が頭を抱え、遥が諦めたように溜息をつく。彼女たちがどう対処しようか身構えた、その時だった。
直人は何気ない動作でシェラカップを置き、右手の人差し指と親指を静かに擦り合わせた。
刹那、直人の指がパチンッ、と乾いた音を鳴らした。
【
特に密教や禅宗で用いられる。
密教において、場を清め、不浄なものを退けるため行われる作法。
通常は手の指をグーのように組み、親指で人差し指の腹を強く圧迫する。
人差し指を勢いよく弾き出すと、親指が中指の側面に当たって「パチッ」と音が鳴る。
許諾、歓喜、警告、入室の合図などを表す。
また場合によっては排泄後などの不浄を払う意味で行う。これが後に
元は密教の行法の一つだったが、縁起直し、魔除けの所作として僧以外の人々に広まった。
直人の指先から放たれた霊的の衝撃波が、黒い影を直撃する。影は悲鳴のような音なき音を上げて弾け飛び、夜の闇へと溶けて消滅した。
同時に、まとわりついていた嫌な冷気も霧散する。
「……え?」
突然の霊の霧散に、里奈は驚く。
「消え……た?」
遥も続く。
二人が、目を丸くして直人を凝視した。
今、目の前の高校生が何をしたのか。指を鳴らしただけで、あの嫌な気配を瞬殺したことを、彼女たちは確かに目撃していた。
「一条くん、今のって……」
恐る恐る尋ねてくる遥に、直人は何事もなかったかのようにコーヒーを一口
「ただの虫払いです。……この辺、質の悪い『虫』が居るみたいなんで」
その言葉の真意を悟ったのか、遥は瞳を驚きに光らせ、里奈は「マジか……」と感嘆の声を漏らす。
直人はカップを手にし、先程の遥の質問にようやく答えた。
「……まあ、こういうのには慣れてるんで。怖くはないです」
その答えを聞いた二人の顔には、単なる年下への親しみだけでなく、同じく《怪異》を知る者への仲間意識と、頼もしさを感じる色が浮かんでいた。
直人は生まれつき霊感が強く、幼い頃は『視える』ことに怯え、周囲からも『嘘つき』呼ばわりされて孤立していた。
小学生の頃、悪質な霊障に悩まされていた直人を救ったのが、近所の
「その眼を閉じることはできないが、身を守る術と、迷えるものを送る術なら教えられる」
と諭した。
直人は自分の心と体を守るために、放課後に寺に通い、印と真言による密教呪術を必死に学んだ。
彼がソロキャンプで静寂を好むのは、街中だと『視えすぎて』疲れてしまうため、霊気の澄んだ自然の中に身を置きたいという本能的な欲求もある。
体質のことや、住職との修行のことを詳しく話せば長くなるし、普通なら変人扱いされるのがオチだ。だから短く切り上げたのだが、どうやらこの二人には、余計な説明は不要だったらしい。
里奈は「凄い!」と、焚き火の音に負けないくらい大きな音で膝を打ち、興味津々といった様子でグイッと身を乗り出してきた。
その瞳は、新しいおもちゃを見つけた子供のようにキラキラと輝いている。
「へえ~、やっぱり慣れてるんだ! だよね、あの手つき、タダモノじゃないと思った! 実は私たちもさ、結構そういうのと縁があるっていうか……ぶっちゃけ、巻き込まれ体質なんだよねぇ」
「里奈、あんまり怖がらせないの。初対面の高校生相手に何をカミングアウトしてるのよ」
遥が呆れたように眉を寄せ、持っていたシェラカップを傾ける。
だが、里奈の暴走機関車のような勢いは止まらない。
「えー、だって事実じゃん! 私達もさ、スイカに追いかけ回されて死にかけたり、頭のデカイ奴らが住む地図にない変な村に迷い込んだりして……ろくな目に遭ってないよね?」
里奈は両手で大きなスイカの形を作ったり、自分の頭の周りで手を回して頭のデカイ奴を表現したりと、身振り手振りを交えて力説する。
直人は思わず瞬きをした。
冗談なのか本気なのか測りかねて遥の方を見ると、彼女はふう、と白い息を吐きながら遠い目をしていた。
「……まあ、船に乗ってて、サメの化け物に騙されたりもしたし、否定はしないけど」
遥はコーヒーを啜りながら、さも昨日のランチが不味かった程度のことのように呟く。
どうやら冗談ではないらしい。この美人な女子大生二人組は、見た目に似合わず修羅場をくぐり抜けてきた歴戦の猛者(?)のようだ。
スイカに追いかけられる?
頭がデカイ奴ら?
サメの化け物?
幽霊を見た程度とはベクトルの違う、随分とアグレッシブかつシュールな怪異体験だ。
「だからさ、直人くんみたいなプロがいると、すっごく安心感あるんだよねぇ」
里奈は、美しい苦手師のことを思い出し、しみじみと言いながら、直人の顔を覗き込んでくる。
その距離の近さに、直人は少し赤くなって視線を逸らした。
里奈は、それから直人の足元に置かれた道具たちへと視線を移した。
「それに、怪異対策だけじゃなくて、キャンプギアの選び方もプロっぽいし」
里奈の指摘に、直人は自分のギアを見る。
「え?」
「さっきから気になってたのよ。この焚き火台、使い込まれてるけど手入れが行き届いてる。それに、テントのペグも、付属のアルミじゃなくて
里奈の言葉に、遥も頷く。
「……確かに。一人で連泊する装備にしては無駄がないし、配置も機能的。……もしかして、何かあった時にすぐ撤収できるようにしてる?」
図星だった。
直人のキャンプスタイルは、住職の教えに基づいた実戦仕様だ。いつ天候が崩れても、あるいはいつ招かれざる客(霊)が現れても、すぐに対処できるように配置を計算している。
「……まあ、用心するに越したことはないんで」
「やっぱり! ほら遥、私の言った通りでしょ? この子、絶対『ガチ勢』だよ!」
少し興奮気味に、里奈はなる。
「はいはい、分かったから。でも本当に助かったわ。今の霊のことだけでなく、一条くんがいなかったら、私たち今頃、食パンをかじりながら泣いてたかもしれないし」
遥が冗談めかして笑う。その笑顔には、年上の余裕と、純粋な感謝の色が混じっていた。
直人は照れ隠しにコーヒーを一口
こうして焚き火を囲んで話していると、彼女たちが特別な存在ではなく、ただの等身大の人間であることが伝わってくる。
その安心感が、直人の頑なだった心の鍵を少しずつ緩めていくようだった。
「……実は、進路希望調査の提出があるんです」
気がつけば、直人はそんなことまで話し始めていた。
直人はコーヒーの黒い水面を見つめながら、自嘲気味に笑った。
「机に向かってても何も浮かばなくて。だから、ここに来れば頭の中をリセットできるかなって思ったんです。余計なノイズを消して、真っ白な状態で完璧な計画を立てれば、きっと正解が見つかるはずだって……」
口に出してみると、自分の考えがいかに幼く、独りよがりなものだったかが浮き彫りになる気がした。直人は続ける。
「でも、結局こうやって逃げ回ってるだけで……完璧な計画なんて、立てられそうにありません」
直人の言葉は、焚き火の煙と共に夜空へと吸い込まれていく。
住職から教わった密教呪術や、特殊な能力。それらは「生きる力」にはなるが、『社会で生きる肩書き』にはならない。その矛盾をどう埋めればいいのか、直人にはまだ見えていなかった。
重苦しい空気が流れるかと思いきや、隣から聞こえてきたのは、意外なほど明るい笑い声だった。
(続く)
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