セクション2

 ミコと誠司がカフェスペースへ戻った時、そこにはつまらなさそうにパンを齧るフィニスの姿があった。

 カフェスペースの自動販売機で購入できる、妙に賞味期限の長いアルコールのにおいがするパンだった。


「フィニス、またそんなの食べてるのかい。せめて、表のカフェでサンドイッチでも買ってくればいいだろう」


「めんどくさいだろ。別にこれでもカロリーは賄える」


「まったく、君って奴は」


 ミコはそう言いながら椅子へと座り、その対面の席を誠司へと勧める。


「さて、改めて特定魔力生物管理者資格試験の合格、おめでとう」


「ありがとうございます」


「ここからの流れだが、まず君は資格試験に合格した時点で、冒険者仮免許持ちだ」


 ミコの言葉に誠司は頷く。


「ここからはギルド……この中央ギルド庁舎から給料が発生する。ただし、その給料は月に一五万イェン。所得税はそのうち五パーセント、消費税も五パーセントだ」


 ミコの説明を、誠司はミコが残していった紙へと必死に書き留める。その様子に、ミコは思わず笑うのだ。

 誠司がこの国へ辿り着いた時、彼はメモなんてひとつも取ろうとしなかったのだから。


「君はいま中央ギルド庁舎の居住区域に住んでるが、家賃は五五〇〇〇イェン、水道代は二二〇〇イェンで固定だ。光熱費は二二〇〇イェンが最低で、使用量に応じて加算される」


「は、はい」


「食事はここの不味いパンか、食堂の比較的マシな料理か、外の喫茶店があるが……あのカフェは高いから、暫くはこの中で食べるといい」


「分かりました」


 しっかりとメモを取った誠司に、ミコはにんまりと笑う。


「いい顔をするようになったな、若造。これからの人生が楽しみかい」


「……はい、いままでまともに生きてこなかったので、これから先は生まれ変わった気持ちで頑張ります」


 ミコはわははと笑って「それはいいことだ」と告げる。


「さて、仮免許になると部屋がいままでの納屋のようなものから変わるぜ。鍵を取りに行こう。フィニスは一緒に行くかい」


「まだ食ってる」


「了解だ」


 ミコは軽く「行こうぜ」と告げて歩き出す。それに、誠司は小さくフィニスへとひとつ礼をし、ミコに続いて歩き出す。

 着いたのは三階の転送装置前にある窓口だった。

 そこにはセイレーンのヴェリタス・アストルムが座り書類の確認をしている。紫にも銀にも見える長い髪に、伏し目がちな赤い瞳をした美しい女性だった。


「なんだ」


「おいおい、まだ何も言ってないのに声が硬いな」


「ミコはいつも面倒を持ってくるだろう」


 静かなヴェリタスの声に、ミコは肩を竦めて彼女の前へと座る。


「いままでフィニスが保証人をしていた移民のセージー・カーミャーが無事に特定魔力生物管理者資格試験に合格してな、仮免許になったから部屋をBにしてやってくれ」


 ヴェリタスは音もなく誠司を見て、それから立ち上がる。大きな翼を器用に畳み、書類を崩すことなくガラスケースへ掛けられた鍵を取り出して戻ってくる。


「これが三階奥の〇〇七Bの鍵だ。付属家電は魔導コンロ、冷蔵庫、映像照射水晶、ベッドだ。他に必要なものは自分で買うように。こっちは納税に使うための魔導タブレットだ」


 ヴェリタスはまず鍵をカウンターへ置き、次に魔導タブレットを取り出す。タブレットの初期設定を終わらせてからそれもカウンターへ置く。


「洗濯機は無いから五階のコインランドリーを使うように。以前の部屋の鍵は今日中に返却するように」


「分かりました。説明、ありがとうございます」


 誠司の礼に、ヴェリタスは数度瞬くと小さな笑みを浮かべる。


「もし、何か分からないことがあれば俺に聞くと良い」


「君、笑えたのかい。セージー、君はセイレーンたらしだな、ヴェリタスがこんなこと言うなんて、俺は初めて聞いたぜ」


 ミコがおどけるように言うと、ヴェリタスはカウンターに“対応中”の札を置き書類の整理を始めてしまう。


 カフェスペースへ戻った誠司は、ミコとフィニスへ深々と頭を下げる。


「あの日、初めて会った日、俺を見限らずにいてくれてありがとうございました。おかげで、ここで生きていけそうです」


「気にするなよ、顔を見合うも縁の内って言うだろう」


 ミコの言葉に、誠司はこめかみを掻いてから顔を見る。


「あの」


 それに、ミコは「なんだい」と問い掛ける。


「研修って、フィニスさんのところで受けるのはできないんですか?」


 誠司がそう告げた瞬間に、フィニスは苦虫を噛み潰したような顔をして不味いコーヒーを一気に呷る。


「先戻ってるからな」


 そう告げたフィニスに、ミコは「ああ、後でな」と告げる。


「うちのフィニスはな、冒険者になりたくなくて捜査官になったタイプなんだ。やめてやってくれ」


「すみません、そうとは知らず」


「良いさ。研修、頑張れよ」


 ミコはそう言い、フィニスが向かった方向へと歩き始める。



────


 フィニス・ネブラはセレニティの中で最も格式高い五大公爵家の内の一角であるネブラ公爵家の三男であった。

 厳格な父と気位の高い正妻との間には四人の兄妹がおり、フィニスは妾の子であった。


 魔力を持たずに生まれてきた、父親に似て厳格な長男、レグルスは見目も父親に似た金髪に青い瞳をしていた。身長も一九〇センチメートルほどあり、強い魔力を持って生まれてきた妾腹のフィニスに対して強いコンプレックスを抱いていた。


 次男として生まれたサピエンスは、家督も継げぬことから勉学を修めていた。正妻であるアクアに似たホワイトゴールドの髪に思考の見えない細い目をしたサピエンスは、毎日一二時間以上を勉強に費やしてなお、フィニスに勝ることはできなかった。


 末の娘として生まれたレージーナは正妻の生き写しかのような長いホワイトゴールドの髪に父親譲りのブルーの瞳をしていた。甘やかされて生きてきたレージーナは、しかし兄である妾腹のフィニスが父から大切にされていたために、より我儘になっていく悪循環へと入っていた。


 フィニスを産んだ妾はウォルプタースという、絶世の美女であった。

 艶やかな黒髪に射干玉のような瞳、白い肌、強い魔力を持ち生まれたものの、神聖皇国からの移民二世であったことと捜査官であった両親が亡くなったことで娼館で働く以外に無くなってしまった女性であった。

 そんなウォルプタースを、シレント・フォン・ネブラ公爵は見初めて家へと迎えたのだ。


 正妻からの嫌悪と凄惨な虐待にウォルプタースは心を病み、このような状況へと追いやったシレントへの恨みと、そのシレントとの間に生まれた子に嫌悪すら覚え、フィニスを視界に入れることすら拒絶したのだった。

 フィニスは侍女にすらまともな世話もされず、兄妹たちには詰られ、実母には嫌悪され、それにも関わらず実父は家督すら三男のフィニスへ継がせようとするほどに愛したのだ。


 フィニスがその地獄から這い出したのは、フィニスが一八歳になった皇歴三二〇年のことだった。



 ベッドから起き上がったフィニスは、膝へ額を押し当てる。


「起きたのかい、フィニス。君、魘されてたぞ」


「……なんでもない」


 言葉を飲み込んだフィニスに、ミコはその頭を軽く撫でて部屋を出て行く。

 フィニスは、夢に見た過去に、吐き気すら覚えていた。は、と吐息が漏れる。涙が滲む。

 風の噂で、ネブラ公爵家の正妻、アクア・ヴィテ・フォン・ネブラが亡くなったということは聞いていた。その後、実母であるウォルプタースが正妻になったということも、シレントが家督を長兄に譲ったことも、セレニティにいれば必ず耳に入ったのだ。


 そして、シレントとウォルプタースの間に愛娘が生まれたことすら、フィニスの耳には入ってきていた。終焉を意味するフィニスと名付けられた自身とは違い、富の意を持つディーウィティアエと名付けられた妹。

 それに、何を思うことも無かった。無かったはずだったのだ。


 いつの間にか外へ行っていたフィニスが、紙袋からサンドイッチとコーヒーを取り出す。

 ブラックコーヒーと、いつものトマトサンドイッチ。


「フィニス、食べよう」


 ミコの静かな声に、フィニスはいつだって救われるのだ。立ち上がって、ダイニングの真ん中へと置かれた小さなテーブルへと座る。

 ブラックコーヒーを吸い上げる。


「苦いな」


「当然だろう、君の好きなブラックだぜ」


 フィニスは「ああ」と返す。


「どうしてそんなにブラックが好きなんだい、君は」


「……人生が苦いと、コーヒーくらい屁でもないからな」


 静かな声だった。

 それに、ミコは「そうか」と返してサンドイッチを頬張る。


「今日の仕事も、クソみたいな気持ちになりそうだぜ」


「いつだってそうだろ。嫌な仕事に、嫌な上司に、嫌な政治だ」


「ははっ、言えてるな。……もう少し気分の良い仕事もしたいもんだ」


 ミコの言葉に反応もせず、フィニスはサンドイッチの最後の一口を口へ放り込む。

 トマトの果汁が噛む度に溢れて、パンへと染み込んでいく。

 世界のどこかには、パンを食べることもできない者もいるのだろうと、フィニスの頭の片隅に浮かぶ。

 しかし、だからと言ってフィニスにそういった者を救う力など無いのだ。


 フィニスはただ、毎日を仕事をしながら過ごすだけなのだから。



────


 エヴィスィング国とゼムルヤ・スネガとの戦争において、重要となるのは海を渡る力であった。ゼムルヤ・スネガはガドール大陸であり、エヴィスィング国はヴォーゲン大陸にあるため、渡る力が必要であったのだ。

 海を渡るには魔導船が必要となる。魔導船の最大輸出国は神聖皇国であった。それにいち早く気付いていたエヴィスィング国は、神聖皇国へと魔導船を数多く注文していた。


 魔導船へと乗り込んだヘンリー・ビルソンが口を開く。


「誇りあるエヴィスィング国の兵士たちよ。今日、我々は非人道的国家ゼムルヤ・スネガと開戦する。

 我々の多くが、祖国の礎となるだろう。我々の多くが、祖国の土を踏まず海の藻屑となるだろう。

 だが、誇りあるエヴィスィング国の兵士たちよ。我々は、家族を、友を、愛する者たちを救う喜びを得るのだ」


 静かなヘンリーの言葉に、エヴィスィング国の兵士たちは腕を挙げ声を上げる。


「エヴィスィング国に!」


「エヴィスィング国万歳!」


 自分を奮い立たせるように上がる声に、ヘンリーは涙を流さぬよう目を閉じる。

 一番に死ぬのは、ヘンリーの下にいる数多の兵士たちなのだ。そんな彼らが戦士した時、骨すら持ち帰ることもできず、ただ国旗と階級章だけを持ち家を回る悔しさを、ヘンリーはよく知っていた。


「大佐、時間です」


 静かなケリー・アーキンの声に、ビルソンは「ああ」と囁くような声で言う。


「私は、彼らに国のために死んでくれとしか、言えない」


「大佐、それは誰しもそうです。そして、私たちは志願したその日から国のために死ぬ、その覚悟ができているのです」


 ヘンリーは、静かに静かに息を吐く。その吐息は震えていたが、ケリーはそれに気が付いていないかのように振る舞っていた。


「どうか、ドゥルー神の加護あらんことを」


 エヴィスィング国の誰もが、そう願っていた。

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