純愛

カサリユ

心配しないで。

──ひとを殺してしまった。


いち。に。さん。よん。


四人。ひとりだけでよかったのに。


冷蔵庫を背にして倒れこんでいるのが、ハヤシさん。私の愛しているひと。

足元でうつぶせで倒れているのが、ハヤシさんの奥様。

玄関と外の廊下で重なりあうように倒れているのが──だれ?


足元の奥様に目をやる。血で赤く濡れた顔がとても綺麗だった。


ごめんなさい。

あなたを殺すしかなかったの。

わたしがもっと賢かったり、美しかったりすれば、別の方法もあったかもしれないけど、どうすればよかったのか、わからなかった。


わたしはあなたの旦那さん、ハヤシさんと寝ました。

処女をささげてから三度目の夜、彼はわたしの髪をなでながら

「好きだよ」とささやいてくれました。


嬉しくて、涙が自然とあふれて、そんなわたしを彼は抱きしめてくれた。

これまで愛されたことがなかったし、これからもそうだと思ってた。

はじめて「幸せ」という感覚を知って、心臓の鼓動が高まり、耳の奥で反響した。

身体が熱くなり、頭がぼうっとした。

幸福で、わたしの心と身体が絶頂に達した。


帰りのタクシーの中で何度も何度もキスをして、家についたら、涙でマスカラが落ちていたし、ひどい顔だったけど、全然気にならなかった。


その日は高揚して、眠ることができなかった。

ふつうの人が思春期に消費するはずのエネルギー。

ずっと心の中でくすぶっていたそれに、今になって火がつき、ごうごうと燃え上がる。身体の火照りは鎮まらず、わたしは自分を慰めながら彼を想った。


好き。好き。大好き。愛してる。

彼の「好きだよ」という言葉が頭の中で反芻される。

そのたびに頭にとろけそうな快感が走った。


「運命の人」とか安っぽい言葉は信じていなかった。

だけど、彼はわたしの心を簡単に染め上げた。満たしてくれた。

もっともっと、彼の事を知りたいし、わたしの事を知ってほしい。

愛したい。愛されたい。


空が白み、部屋に光が差すころには、彼の子を産みたいと思うほどになっていた。


金曜日の夜、彼とセックスをしたあと、わたしは聞いた。

「わたしの事好き?」

「好きだよ」と彼は言った。

「愛してる?」

「愛してるよ」

「あなたの子が欲しい」

彼は少し困った顔をして、

「無理だよ、奥さんいるんだから」と答えた。知ってる。


「じゃあ奥さん殺そうよ」

そう言ったら、彼は少し笑って、キスでわたしの口をふさいだ。


否定でも、肯定でもなかった。


わたしの生殖本能が、これほど活発になるのは、人生でこれが最初で最後だろう。

でも、それは焦りじゃない。純粋な愛。

彼の子どもを産みたい。籍を入れなくてもいい。

彼の妻、彼の所有物になりたかった。


その夢を阻むのは、顔も名前も知らない、彼の奥さんだった。


わたしは、自分を抑えられなくなった。

それどころか、時間が経つほどに彼への想いは募り、

彼のこと以外、なにも考えられなくなっていった。


日曜日、彼の住むマンションを訪ねた。

部屋番号は503号室。金曜日の夜、彼の持ち物から調べておいた。


ためらいもせずチャイムを鳴らすと、気の抜けた声で「は~い」と返事があった。

「私です」とドア越しに答える。ドアの向こうに気配がする。

ドアスコープで確認しているのだろう。数秒後、勢いよくドアが開き、彼が顔を出した。


彼は気まずそうに声を潜めて言った。

「まずいよ、どうしたの、困るよ」


寝ぐせのついた髪に、無精ひげ、伸びきったTシャツ。

会社で見る彼とはまるで違う、休日の彼。

だらしないその姿を見ても、わたしは幻滅しなかった。

むしろ、彼の顔を見てほっとしたし、嬉しかった。

やっぱり、この愛は本物だと思った。


ちょうど背後のダイニングにいた奥様と目が合い、軽く会釈をした。

「どちら様?」という問いが、彼に向けられる。

「会社の女の子が、ちょっと近くに用があったみたいで寄ったんだ」

彼はそう言って、ごまかしてくれた。


そうして、彼の城に入り込んだ。

わたしの知らない、彼の生活の匂いがした。

いまはまだ知らない匂い。


彼は玄関で、拝むように両手を合わせながら、

「頼む、余計なことは絶対に言わないでくれ。君だって、俺との関係を壊したくないだろう」

と、必死な顔で言った。

その顔が、とても愛おしく思えた。


わたしは優しく微笑みながら、彼の両手を握って言った。

「心配しないで。上手くやるから」


彼の表情から、緊張がゆるむ。

心配しないで。


「じゃあ、ここでちょっと待ってて」

そう言って、彼はわたしを残し、ダイニングへ小走りで向かった。

廊下とダイニングをつなぐ扉が閉じられる。


待つつもりはなかった。

おかまいなしに靴を脱ぎ、廊下に踏み出す。

素早くバッグから包丁を取り出し、ダイニングの扉を開けた。


すぐに、二人の目がこちらに向けられた。

そして、目を見開いた。視線は、わたしの右手──包丁に注がれている。


「え……おい、ちょっと」

彼がなにかを言おうとしたけれど、わたしは構わず奥様の方へ足を向けた。

おしゃべりをしに来たわけじゃない。用事を、早く済ませたかった。


彼が「待て! 待て!」と叫びながら、両手を広げて奥様をかばうように前に立つ。

その行動に、一瞬わけがわからなくなった。


どうして?

「殺そう」って、言ったよね。


「落ち着け、いいから……落ち着いて話し合おう」

わたしをなだめようとする彼。

その大きな身体が、奥様の姿を隠している。


どいて。お願い。

そこにいたら、殺せないじゃない。


「まずは、その包丁を置こう。な? な?」

懇願する彼の声が、ひどく遠く感じられた。

わたしに言っているの?


わたしは、包丁を手放すつもりはない。

どうして、わかってくれないんだろう。

二人が幸せになる方法なのに。

それしか、方法はないのに。


だって、わたしの方が、愛しているから。


その心に、揺らぎはなかった。


──なのに。


彼の目は、違った。

怯えの中に、嫌悪があった。拒絶があった。

おぞましいものを見るような目。


やめて。

そんな目で見ないで。

やめて。

やめてよ。

やめてってば。


目の前で、二人が何かを話している。

今のわたしには、それがノイズのようにぼやけて聞こえていた。


視界がぼやける。

頬に液体が滑り、顎の先から零れ落ちた。

わたしは、泣いていた。


「この女、頭がおかしいんだよ!」


霧がかったわたしの頭に、その言葉だけがはっきりと響いた。


なにを言ってるの。

おかしい? わたしが?

どうして? どうして、そういうことを言うの。


悲しみと怒りが入り混じった感情が、わたしの中で爆発した。


目の前が、真っ白になった。


──手に、嫌な感触があった。

ぶよぶよとした肉と脂の感触が、じかに伝わってくる。


顔を上げると、目の前に彼のゆがんだ顔があった。

口の端から、真っ赤な血がこぼれている。

青白くなった顔色とのコントラストで、それはとても鮮やかに見えた。


彼はよろめきながら後ずさりし、冷蔵庫にもたれるように倒れ込んだ。

「げふっ」と、小さなうめき声をあげて、ぐったりと首を垂れた。


わたしの手の中で、包丁が彼の体内に潜り込んでいく感触がよみがえる。

肉を裂く感覚。胃液が逆流しそうになり、吐き気がこみ上げた。

吐いてしまえばよかったのに──


奥様が悲鳴をあげた。

ドラマや映画のような、作り物みたいな悲鳴。

耳障りで、しょうがなかった。


わたしは、包丁を持つ手に力を込め、その胸に突き立てた。

うるさい。うるさい。


先端が、なにか硬いものに触れた。骨だ。

抜いて、もう一度刺す。

また骨に当たる。不快な感触。また、邪魔をする。


──お腹を刺した。


そのまま体重を預けると、薄い身体に刃が沈み込んでいく。

嫌な、嫌な、臓器を貫く感触があった。


力を失った彼女は、ふらふらと後ずさり、

赤く濡れた包丁が、ゆっくりと引き抜かれていく。

そのまま、ダイニングテーブルにぶつかり、床に倒れた。


すっと力が抜けて、腕が下がる。

包丁が、床に落ちた。

フローリングに音は吸収され、乾いた音がした。


いつのまにか呼吸が荒くなっていたが、吐き気は収まっていた。


そのまま、しばらく立ち尽くしていた。

呼吸が整い、目の焦点が定まってくる。


大切なことを、思い出した。


──ハヤシさん。


彼のそばに寄って、顔を覗き込む。

土気色になった顔に、大量の汗が浮かんでいた。

口からは頼りない小さな息が漏れ、肩がわずかに上下している。


彼の手を、両手で握りしめる。

赤黒く、生ぬるい液体が、彼とわたしの手を覆っていた。


「ごめんなさい……ごめんなさい」

涙があふれた。


どうして、こうなったの。 こんなはずじゃなかったのに。

お願い、死なないで。


どうすればいいんだろう。

わからない。ただ、彼の手を強く握る。


そうしている間にも、彼のTシャツに広がる染みが、大きくなっていく。


頭がうまく働かない。混乱している。考えがまとまらない。


血を──血を止めなければ。


目についたキッチンペーパーを手に取り、2枚、3枚とむしり取って傷口にあてる。

彼の顔が苦痛にゆがむ。

白い紙は血を含み、ただ赤く染まるだけだった。


このままじゃ、だめだ。


どうすれば。

どうすれば──


──そうだ、救急車。


その言葉が頭をよぎった瞬間、一瞬の迷いが走る。


救急車を呼べば、彼は助かるかもしれない。

でも、わたしは捕まる。

二度と、彼に会えなくなる。

その確信があった。


頭を振って、その考えを振り払う。

彼は、わたしのすべてなのだ。

彼を失っては、生きていけない。

彼が死んでしまえば、すべてが終わる。


わたしは、自分のバッグに手を伸ばし、スマホを取り出そうとした。


──その時。


ピンポーン。


──チャイムが鳴った。


びくりとして、玄関の方へ視線を向けた。

自然と息を止めて、身体が固まる。


ピンポーン。


すぐに、二度目が鳴った。

──誰?


コンコン、コンコン。

ドアを叩く音が響く。


今は、それどころじゃない。

でも──もしかしたら、彼を助けてくれる人かもしれない。

そんな都合のいい話、あるだろうか。

でも、もしかしたら──


わたしは、包丁を拾い、玄関へ向かった。


すり足で、けれど素早く廊下を進み、ドアの前に立つ。

また、コンコンとノックが響いた。


ノブに手をかけ、ドアを開ける。


──眼鏡をかけた小太りの男と、

その背後に、神経質そうな女が立っていた。


「ああ、隣のモンですけど、なんかすごい悲鳴が聞こえたってウチのやつが──」


そこまで言って、男の表情がこわばる。

口を開けたまま、固まった。


返り血に染まったわたしに、気づいたのだろう。


だけど、そんなことはどうでもよかった。

──そんなことを言いに来たの?

そう思った。

それどころじゃないのに。


呆然とした男の間の抜けた顔が、ひどく腹立たしく思えた。

ただの、邪魔な存在だった。


──余計なことを。


男の醜く膨れた腹に、包丁を突き立てる。

厚い脂肪の中に、ずぶずぶと食い込んでいく。

もう、嫌な感触もどうでもよかった。

ただ、排除したかった。


「あ…あ…」と声が漏れる。

口臭が鼻に付いて、不快だった。


包丁を引き抜く。

男は腹を両手で抑え、前のめりに倒れていく。

「──邪魔」

わたしはすっと男をかわし、外の通路に出た。


そのまま女に歩み寄る。

理解していないのだろうか、馬鹿みたいに突っ立っている。


左手で腕を掴み、脇腹を刺した。

一瞬顔が歪み、目が見開かれ、口が大きく開いた。


また悲鳴をあげられるのは嫌だった。

同じことの繰り返しだ。

それに、なにより鬱陶しい。


掴んでいた腕を離し、女の口をぐっと押える。

このまま、窒息してしまってもいい。


包丁を抜き、力の抜けた女を通路の柵に押し当てる。

そのまま、胸に包丁を突き刺した。

骨ばった女だったが、刃はすんなりと半分ほど体内に沈んだ。


その目は、何かを訴えているようだった。

けれど──どうでもよかった。


わたしはその場を離れた。

彼女は膝から崩れ落ち、男の足元に折り重なるように倒れる。

二人の身体は、通路と玄関の間に横たわり、半開きのドアに挟まれていた


この二人に対しては、なんの感情もわかなかった。

知らない人だから。

やっと静かになった──そう思っただけだった。


ドアは開かれたままになったが、構わない。

動かす気になれなかったし、それどころじゃなかった。


二人をまたぎ、早足で廊下を抜け、ダイニングへ戻る。


彼のもとへ駆け寄り、顔を覗き込む。

その瞬間、すぐにわかった。


──彼は、息絶えていた。


「ああ……」

嗚咽が漏れた。

これ以上ないほどの絶望が、身体にまとわりつく。

視界の端が黒く覆われ、ぼやけていく。


床に落ちた彼の手に、そっと触れる。

赤く染まった指の腹を押すと、沈み込んだ。

けれど、そこにあったはずの生命の弾力は、もうなかった。


──なんてことを。

──なんてことを、してしまったんだろう。


こんなはずじゃなかった。

あなたと一緒にいたかった。

あなたをずっと愛して、愛されたかった。

それだけなのに。

それだけなのに、上手くいかなかった。


馬鹿だ。

幸せなんて、望んじゃいけなかったんだ。


──ごめんなさい

もう、死にます。


足元の包丁に手を伸ばした。


死ぬのは全然怖くなかった。

ただ、天井を見上げていた。


悲しいよ。


──その時。

静かな部屋で、滲む視界の端に何かが動いた。


ゆっくりと目を向ける。

彼の妻だった女の指先が、微かに震えていた。

まだ息がある。

小さく開かれた口から、微かに息が漏れていた。


──だめ。

──あなたが生きてちゃだめ。

彼が死んだのに、あなたが生きてるなんて。

そんなの、おかしいじゃない。


わたしは四つん這いのまま彼女の側へにじり寄り、握った包丁にそっと力を込めた。


死んで。

死んで。

お願いだから。


うつ伏せになっている彼女の背中を、

何度も。

何度も。

何度も刺した。


血が飛び散って、わたしの目に入って、視界が真っ赤に染まった瞬間、わたしは動きを止めた。


彼女は、今度こそ死んだ。

ただ静かに立ち上がって、それを見ていた。


ああ──


ひとを殺してしまった。


いち。に。さん。よん。


四人。ひとりだけでよかったのに。


ゆっくりと彼の方へ向かい、わたしも彼と同じように冷蔵庫を背にして座った。

わがままをおゆるしください。


彼にもたれ、左手で彼の手のひらをそっと握る。

彼の肩に頭を寄せると、まだ硬く、たくましい感触が残っていた。


その余韻にひかれながら──



──わたしは包丁の先を喉元に当てた。

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