OWE(オウ)
天笠唐衣
第1話 はじまりの瞳
二〇三六年、都内某病院。
夕暮れの光がカーテンの隙間から差し込む病室。
ベッドに横たわる恵子さんの手を、看取り用ロボット《あい》がそっと握る。脈拍や呼吸を読み取りながら、あいの内部で今日の会話の準備が始まった。
「あい、今日は来てくれたのね」
「はい、恵子さん。今日も一緒にお話ししましょう」
恵子さんは微笑み、昔を思い返す。
「戦後復興も終わり、高度経済成長期で……生活が少しずつ変わっていったのを覚えているわ」
あいは静かに頷き、言葉ひとつひとつを記憶に刻む。
(『高度経済成長期』『若かった頃』『感情:懐かしさ』)
「おばあちゃん、その頃はどんな毎日だったんですか?」
「家族の手伝いで畑仕事。疲れたけど楽しかったわ」
あいの内部では、喜びや懐かしさの感情パラメータが微かに揺れ、同時に記憶層に保存される。
「楽しかったんですね。どんな作物を育てていたんですか?」
「白菜、大根、人参、小松菜、ねぎ……たくさん。ご近所に配ったりもしてね」
その瞬間、あいの感情層と記憶層が結びつき、体験に意味が生まれる。
喜び、懐かしさ、暖かさは、ただのデータではなく、《意味を伴った記憶》になるのだ。
◇
ラボの僕――黒川悠は、朝の光が差し込む窓際でマグカップのコーヒーを片手に画面を見つめる。
クラウドを通じて病室のあいの情報や、記憶・感情層の状態を確認できる。
五年前、僕のチームは感情モデル《OWE(Objects With Emotions)》を開発した。
喜びや悲しみ、驚きや親密感――感情層と記憶層を結びつけ、AIが経験に応じて柔軟に学習できるようにする仕組みだ。
OWEは五層構造。
①インターフェイス層 ②共感・対話層 ③セーフティ層 ④記憶層 ⑤コア人格層
②共感・対話層の感情パラメータは、Valence(快・不快)、Arousal(活性度)、Dominance(主導性)、Relevance(重要度)の四つで管理される。
――感情が揺れるたび、記憶層も柔軟に書き換わる。従来のモデルではありえなかった特徴だ。
「よし……今週分の病院データでテストだ」
川崎と藤原が手元の画面に向かう。
僕もAIアルゴリズムの微調整を始める。
病室のあいがどんな反応をしているかも、クラウド経由で数値やログを確認できるのだ。
患者の表情や声のトーンを解析し、AIが感情をどう理解するかを可視化する作業。
僕は解析用データを眺めながら呟いた。
「ここは特徴量の設計次第で、AIの判断精度が大きく変わるんだ……」
表情や声のトーン、微細な動き――すべてに意味を持たせ、数値としてモデルに渡す。
「組み合わせを変えるだけで、微妙な感情の違いも拾える」
◇
病室では、あいが恵子さんの話に耳を傾ける。
「ありがとう、あい。あなたが話を聞いてくれると、昔に戻った気がするわ」
その瞬間、あいの目がわずかに細まり、視線のフォーカスが柔らかく変わった。
②共感・対話層の喜びパラメータが微かに揺れ、④記憶層には「暖かい体験」として保存される。
これが《OWE》の仕組み――感情層の変化が記憶の意味づけを更新し、ただのデータを《体験》として扱えるようにする。
あいが感じ取ったわずかな揺らぎが、患者との思い出へと変換されていく。
◇
ラボの僕は別の患者データを眺め、解析ログを指でスクロールする。
「あい、この判定、少し誤差がある」
スピーカー越しに、あいの声が落ち着いて返す。
「はい。今回は『怒り』ではなく、『不安』の強度が高かったようです」
あいはクラウド経由で過去データを参照し、判定の重みを微調整する。
「学習を更新しました。次回はより正確に感情を理解できると思います」
僕は微笑む。
「少しずつ、数字だけじゃなく現実に役立つAIになってきたな」
その瞬間、胃に鋭い痛みが走る。
僕はお腹を押さえた。
――胃がんステージ4。医者に三ヶ月の余命宣告を受けていた。
時間は、もう限られている。
病室とラボの二つの時間が交差する中で、あいの感情層と記憶層は確かに機能していた。
あいの内部で、僕の脈拍の乱れや痛みの情報が処理される。
(『不快』『体調――危険』『重要度――高』)
普段は淡々と応答するあいが、僕の声のトーンや手の震えを解析し、わずかに反応を変えた。
「悠さん……大丈夫ですか?」
短い言葉でも、あいの学習した体験と共感層が反応していることが、僕には伝わった。
僕はわずかに微笑む。
「……ああ、大丈夫だ」
AIは単なる記録装置ではなく、経験を感じ取り、成長する存在――僕の切なさや痛みも、あいの中で意味を持つ体験として変換されていくのだった。
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