第11話:台風接近に伴う「お泊まり(避難)」インシデント



太平洋の荒波(物理)


放課後の教室。

窓の外は暴風雨。

黒い雲が空を覆い、雨がバケツをひっくり返したように叩きつけている。

教室内の生徒たちがスマホの警報音にざわついている。

美咲は窓際で、絶望的な顔をして外を見ている。


「……前言撤回します」


私は窓ガラスを叩く激しい雨を見つめながら、心の中で呟いた。

夏祭りの夜、「チームも悪くないかも」なんて思った私を殴りたい。


台風12号の直撃。

交通機関は麻痺し、電車は全線運転見合わせ。

校内放送が「生徒は安全確保のため、校内待機」を告げている。


つまり、帰れない。

この学校という名の監獄に、閉じ込められたのだ。


「美咲! 大丈夫か! 怖くねぇか!」


ドカドカと足音を立てて、剛田猛次くんが現れた。


「気圧の急激な低下が観測されている。偏頭痛などの症状はないか?」


氷室慧吾くんが、気圧計アプリを見ながら現れた。


「おい美咲! 窓際から離れろ! ガラスが割れたら危ないだろ!」


間宮陽人が、私の腕を引いて廊下側へ避難させる。


三人が私の周りに防壁(バリケード)を築く。

クラスメイトたちは「あーあ、また始まった」「避難所があそこじゃなくてよかった」と安堵の表情で去っていく。


(……帰りたい。お家の布団という名のシェルターに帰りたい)


私の「手漕ぎボート」は今、荒れ狂う太平洋(台風)と、巨大なサメ(彼ら)に囲まれて、転覆寸前だった。


VIP避難所という名の檻


理科準備室の隣にある「資料室」。

普段は使われていない小部屋だが、なぜか毛布や非常食が完備されている。

窓には鉄格子(防犯用)。

薄暗く、閉塞感がある。

美咲と男子三人が、理沙によってここに誘導されている。


「やあ、遭難者諸君」


廊下で途方に暮れていた私たちを回収したのは、やはりこの人――九条理沙だった。

彼女は懐中電灯を片手に、理科準備室の奥にある「資料室」の扉を開けた。


「一般教室は人口密度が高く、酸素濃度も低い。君たちには特別に、この『VIP避難所』を提供しよう」


「VIP……?」


中を覗くと、そこはただの狭い資料室だった。

しかし、床には清潔な毛布が敷かれ、水や乾パンも用意されている。

確かに、騒がしい教室よりはマシかもしれない。


「ただし」 理沙は不敵に笑った。

「外は危険だ。私が外から施錠する。用がある時は内線で呼ぶように。……では、良い夜を」


ガチャン。

重厚な金属音が響き、鍵がかけられた。


「えっ、ちょっと理沙!? なんで鍵かけるの!?」


「セキュリティだ。……あるいは、密室における人間心理の実験だ」


扉の向こうから、楽しそうな声が遠ざかっていく。


(騙された! これ避難所じゃない! 実験用の檻だ!)


狭い部屋。

窓の外で唸る暴風雨。

そして、人口密度の高い三人の男たち。

酸素が……酸素が薄い……。


非常食という名の苦行


資料室の中。

長机を囲んで四人が座っている。

中央には配給された乾パンの缶詰が「3つ」置かれている。

薄暗い部屋で、男子たちが深刻な顔で乾パンを見つめている。


「……食料の配分を決める」


最初に動いたのは、氷室くんだった。

彼は乾パンの缶を検分し、冷静に言った。


「備蓄は3缶。我々は4人。……つまり、一人当たり0.75缶だ」


「はぁ!? ふざけんな!」


剛田くんが叫んだ。


「0.75缶だぁ? そんなの小鳥の餌じゃねぇか! 俺の筋肉が維持できると思ってんのか!」


「黙りたまえ。これはサバイバルだ。感情論でカロリーを消費するな」


「うるせぇ! こんなカチカチのパン、こうしてやる!」


剛田くんは乾パンを缶から出し、袋の上から拳で粉砕した。


「ほら見ろ! 粉にすれば流し込める! カロリーゼロ理論だ!」

「理論が破綻している」


二人が揉めていると、陽人がポンと手を打った。

彼は自分の取り分である乾パン(0.75缶分)を、そっと私の掌に乗せた。


「……美咲、俺の分はお前にやるよ」


「えっ、陽人!? ダメだよ、陽人がお腹空いちゃうじゃん!」


「いいんだ。俺はお前が腹一杯なら、それだけで満たされるからな。……喉詰まらせないように、俺が水を含んでふやかしてやろうか?」


「それはやめて!」


すると、それを見ていた二人の目の色が変わった。


「……抜け駆けはさせん。僕の分も譲渡する。僕の脳は糖分がなくともケトン体で稼働する」


氷室くんが自分の分を乗せてくる。


「ズリぃぞお前ら! 俺だって! ……ほら食え美咲! 俺の筋肉を食わせたいくらいだが、今は乾パンで我慢してくれ!」


剛田くんが粉々になった乾パンの袋を乗せてくる。


私の手の上には――いや、私の目の前には、ほぼ3缶分の巨大な乾パンタワーが完成した。


「ちょ、ちょっと待って! 多すぎるよ! 砂漠だよ! みんな食べてよ!」


「いいから食え!」(剛田)

「君の生存確率を上げることが最優先だ」(氷室)

「俺の愛だと思って受け取れ」(陽人)


誰も受け取らない。

私の目の前には、口の中の水分をすべて奪い去るであろう、大量の乾いたパン。

水は一人一本しかないのに。


(……どうしてこうなった)


私は涙目で、パサパサの乾パンを詰め込んだ。

善意が重い。

そして喉が渇く。

これが「愛の重さ」の物理的な味か。


トイレ脳内シミュレーションと消えた1缶


美咲がモジモジしている。男子三人は乾パン論争を終えて少し落ち着いている。美咲の頭上に吹き出しが出て、それぞれの男子とトイレに行った場合の惨劇がイメージされている。


乾パン地獄を乗り越えて数時間。

私に、最大の危機が訪れた。


(……トイレ行きたい)


生理現象。

それは理沙の計算でも止められない自然の摂理。

しかし、ここは施錠された密室。

トイレに行くには、理沙を呼んで鍵を開けてもらい、暗い廊下を移動しなければならない。

一人で行くのは怖い。

かといって、彼らに頼むと……?


私の脳内シミュレーションが開始された。


【ケース1:剛田猛次の場合】

『剛田くん:よし美咲! 足が疲れるだろ? 俺が持ち上げててやる! 赤ちゃんみたいにな! さあ、安心してしろ!!』 → 判定:羞恥死(社会的に抹殺)


【ケース2:氷室慧吾の場合】

『氷室くん:ストップウォッチ始動。……平均排泄時間より12秒長い。消化器官に異常の疑いあり。帰還後、詳細な問診を行う』 → 判定:尊厳死(人としての誇りが消滅)


【ケース3:間宮陽人の場合】

『陽人:(ドア越しに)美咲、大丈夫か? 紙あるか? お腹痛くないか? 変な音してないか? 俺が歌っててやろうか?』 → 判定:精神死(ノイローゼ)


(……詰んだ。全員無理!)


私は震える手で内線電話を取り、理沙を呼び出した。


「……理沙、トイレ行きたい。鍵開けて」

『おや、誰と行くんだい? ナイト達が喜んでついていくと思うが』


「一人で行く! 理沙、ついてきて!」


『ふふ。いいだろう。……ただし、私とトイレに行くということは、「第4勢力(百合ルート)」へのフラグが立つかもしれないよ? 私、手つきは優しいからね』


「ッ!? ……い、いいから早く来て!」


理沙の冗談(?)に戦慄しながら、私は解錠されたドアを飛び出した。


暗い廊下を理沙と歩きながら、私はふと気になったことを聞いた。


「ねえ理沙。さっきの乾パンなんだけど……」


「うん?」


「なんで3缶だったの? 4人なら普通、偶数にするか、4缶用意するでしょ? ちょっと中途半端じゃない?」


理沙は懐中電灯を揺らしながら、あっけらかんと言った。


「ああ、それはね。……私が待ち時間に1缶食べたからだよ」


「……はい?」


「小腹が空いてね。君たちの観察(映画)のお供にはポップコーンが最適だが、手元に乾パンしかなかったんだ。意外とイケるよ、あれ」


「……」


私は絶句した。

私たちが極限状態で分け合った(押し付けられた)非常食を、この人はおやつ感覚で消費していたのだ。

悪魔だ。

この人は間違いなく悪魔だ。


デリカシーの欠如と束の間の平和


トイレから戻ってきた美咲。スッキリした顔だが、部屋に入った瞬間、陽人の一言でムッとする。男子三人は「自分たちも行く」と言い出し、互いを牽制しながらぞろぞろと出て行く。


トイレから戻ると、三人が待ち構えていた。


「……遅かったな、美咲」


陽人が心配そうに、しかし無神経に言った。


「お腹壊したのか? 乾パン食べすぎたか?」


「……っ! うるさい! レディに対して『遅い』とか言わないの! デリカシーなさすぎ!」


「えぇ……心配したのに……」


私はプンスカしながら席に戻った。

すると、剛田くんが立ち上がった。


「よし、俺も行ってくる!」


「待て剛田。一人で行く気か? 抜け駆けして理沙と接触するリスクがあるな」


氷室くんが眼鏡を光らせる。


「はぁ? しねぇよ!」


「いや、信用ならん。俺も行く」


陽人も立ち上がる。


「僕も行こう。相互監視が必要だ」


結局、彼らは「連れション」することになった。

ぞろぞろと部屋を出て行く男たち。


ガチャン。

ドアが閉まり、部屋に私一人だけが残された。


「……はぁ」


静寂。

猛獣たちがいない空間。

私は毛布にくるまり、大きく息を吐いた。


「……平和だ」


嵐の音さえ、彼らの騒がしさに比べれば静かな環境音だ。

私はこの束の間の自由を噛み締めた。


暗闇のパニックと接触事故


資料室の中。

男子三人が戻ってくる。

その直後、稲光が窓の外を白く染める。

バリバリという轟音と共に停電が発生。

部屋が完全な闇に包まれる。

美咲の悲鳴。


「おーい美咲、戻ったぞー」 「暗い廊下だったな」


彼らが戻ってきた、その瞬間だった。


ピカッ! 窓の外が真っ白に光った。


ドガァァァァン!!


「ひぃっ!!」


耳をつんざく雷鳴。

と同時に、蛍光灯がフッと消えた。


停電。

完全なる闇。

窓からの微かな光も、分厚い雨雲に遮られている。


「うわっ、マジか!」(剛田)

「送電網がダウンしたか……」(氷室)

「美咲! どこだ美咲! 動くなよ!」(陽人)


暗闇の中で、彼らの声だけが響く。

私は雷が大の苦手だ。

「怖い」とか「可愛い」とかじゃなく、生存本能が「死ぬ!」と叫ぶレベルで苦手なのだ。


「いやぁぁ……! 怖い……!」


私はパニックになり、手探りで何か掴まれるものを探した。

壁? 机? 誰か? 誰でもいい、この恐怖から繋ぎ止めてくれる何かを!


ガシッ。


私の手が、誰かの腕を掴んだ。

硬い。岩のようにゴツゴツしている。

そして、熱い。


(剛田くんだ!)


私の脳内データベースが瞬時に照合した。

この筋肉の鎧は、剛田猛次くんだ。


普段ならすぐに離す。

でも、雷の恐怖で指が固まって動かない。

それどころか、次の雷鳴に怯えて、さらに強く爪を立てて握りしめてしまった。


(ひぃぃ! ごめんなさい! 握力調整できない! 怒られる! 「痛ぇんだよ!」って殴られる!)


私は震えながら、心の中で謝罪を繰り返した。

剛田くんの腕が、ピクリと強張るのを感じた。

筋肉が収縮している。これは攻撃の予備動作だ。

握りつぶされる!


……しかし。 剛田くんの内心は、私の予想とは真逆の銀河にあった。


(……美咲……?)


暗闇の中で、剛田は息を呑んでいた。

二の腕に感じる、小さくて冷たい手の感触。

小動物のように、カタカタと震えている。


(怖がってる……。雷が怖くて、無意識に一番頼れる俺を選んで、すがりついてきたのか……?)


彼の脳内で、都合の良い解釈が爆発した。

俺は筋肉バカだと思われてると思ってた。

でも、いざという時、こいつが命を預けるのは俺なんだ……!


(その震え、俺が止めてやらなきゃ男じゃねぇ!)


「……安心しろ」


暗闇に、低く、力強い声が響いた。


「え?」


「俺がいる。雷なんて、俺が全部弾き返してやる」


剛田くんの反対の手が、私の震える手をそっと包み込んだ。

握り潰すような力じゃない。

壊れ物を扱うような、優しくて大きな手。


「……剛田くん……?」


「今は、こうしてていいぞ」


(……あれ? 殴られない?)


恐怖でパニックになっていた私の心が、その体温で少しだけ解けていく。

剛田くんは動かない。

ただ、私が震え止むまで、じっと「柱」になってくれている。


「……おい、剛田。抜け駆けは協定違反だぞ」


暗闇の向こうから、氷室くんの冷たい声がした。

気配でバレたらしい。


「うるせぇ。緊急事態だ。……今は、俺がアンカーだ」


「くそっ、俺が近くにいれば……!」


陽人の悔しそうな声。


私は剛田くんの腕にしがみついたまま、申し訳なさと安堵感でいっぱいになった。

怖い。

でも、この岩のような腕は、確かに最強の避難場所だった。


夜明けの生存確認


翌朝。

台風一過の青空。

資料室のドアが開く。

朝日が差し込む部屋の中はカオス。

美咲は剛田の腕を枕にして寝ている。

剛田は顔を真っ赤にして固まっている。

理沙が入り口でその様子を撮影している。


「……んぅ」


鳥のさえずりで目が覚めた。

眩しい朝日。

台風は過ぎ去ったらしい。


私は重い体を起こそうとして……何かにガッチリと固定されていることに気づいた。


「……うお、起きたか」


目の前には、剛田くんの胸板があった。

私は彼の腕を枕にして、一晩中しがみついて寝ていたらしい。

剛田くんは顔を真っ赤にして、視線を逸らしている。

右腕には、私の爪の跡がくっきりと残っていた。


「あ、あわわわ! ご、ごめんなさい!」


飛び起きると、反対側には氷室くんが座ったまま寝ていた。

私の足元には、陽人が自分の上着を掛けてくれて、寒そうに丸まっている。


「……おはよう、実験動物たち」


ドアのところで、理沙がスマホを構えていた。

カシャ、というシャッター音が、静かな朝に響く。


「停電時の密着率、および心拍数の同調データ……実に見事だったよ。特に剛田、君の体温上昇は異常値だ」


「う、うるせぇ!」


「り、理沙! 鍵開けてよ!」


「もう開いている。……さあ、現実(日常)にお帰り」


私たちはよろよろと資料室を出た。

私の髪はボサボサ、服はシワシワ。

剛田くんは腕をさすりながらニヤニヤしているし、陽人と氷室くんは「俺の近くにいれば……」と殺気立っている。


窓の外には、嘘みたいに綺麗な青空が広がっていた。

私の「手漕ぎボート」は、なんとか転覆せずに朝を迎えた。

ただし、船員(彼ら)との距離感という名のバラストは、完全に狂ってしまったけれど。


私のパニック観察日記。

今日は「緊急避難」の日。

そして、剛田くんの筋肉が意外と寝心地が良いことを知ってしまった、罪深い朝だった。

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