第9話:校内における「悪女」疑惑とその鎮静化



58点の奇跡と悪魔のささやき


放課後の教室。

テスト返却が行われている。

美咲の机には「数学 58点」と書かれた答案用紙がある。

美咲は安堵で脱力している。

その周りを三人の男子が囲み、それぞれの「手柄」を主張している。

窓際では理沙がその様子をニヤリと眺めている。


「……た、助かった……」


私の手の中にあるのは、奇跡の証書だ。

数学、58点。 クラス平均点ジャスト。

赤点回避。

あの地獄の勉強会(キメラ教育法)は、無駄ではなかったのだ。


「ほら見ろ! 俺の『ループシュート理論』がハマったんだよ! Xの放物線はお前の頭に叩き込んだ通りだろ!」


剛田猛次くんが、自分の手柄だとばかりに胸を張る。


「訂正したまえ。君の直感的な放物線を、僕が物理数式として修正した結果だ。僕の作成したサマリーの勝利と言える」


氷室慧吾くんが、涼しい顔でメガネを拭いている。


「俺の『いい国(1192)』は間違ってたけどな……。まあ、語呂合わせのリズム感は役に立っただろ?」


間宮陽人が、少しバツが悪そうに、でも嬉しそうに笑う。


三人が私の赤点回避を自分のことのように喜んでいる。

その光景に、私は少しだけ感動……しかけた時だった。


「……よかったね、美咲」


背後から、聞き覚えのある冷静な声がした。

九条理沙だ。

彼女は私の答案用紙を覗き込み、耳元で囁いた。


「もし赤点を取っていたら、君は今頃、エアコンの効かない蒸し風呂のような補習室に隔離され、汗だくの彼らと密着して夏休みを過ごすことになっていた。……私の『却下』に感謝したまえ」


「……ッ!」


私は息を呑んだ。

そうだ。

私は「赤点を取って逃げる」という浅はかな計画を立てていた。

もし理沙が止めてくれなかったら、今頃私は「補習」という名の、もっと過酷な密室地獄に落ちていたのだ。


(ぐぬぬ……確かに、今の状況の方がマシ……いや、どっちも地獄だけど、エアコンがあるだけマシ……!)


私は理沙に向けて、悔し涙を浮かべながら無言で拝んだ。

理沙は満足げに、「礼には及ばないよ」とばかりに手を振って去っていった。


三大勢力の呼び出し


廊下。

美咲が歩いていると、行く手を遮るように三人の女子生徒が立ちはだかる。

それぞれ異なる制服の着こなし(スポーティ、お嬢様、あざと可愛い)をしており、背後には取り巻きがいる。

廊下の空気が一瞬で凍りつく。


テストの安堵も束の間。

私の日常に、新たなアラートが鳴り響いた。


「……ちょっと、いいかな?」


廊下の真ん中で、行く手を阻まれた。

立ちはだかったのは、この学校の裏社会を牛耳る(と噂される)三大勢力のトップたちだ。


中央に立つのは、剛田猛次ファンクラブ「ストライカーズ」代表、葛城莉緒(かつらぎ りお)。

ポニーテールに、腰に巻いたジャージ。

勝気な吊り目が私を射抜いている。

「猛次くんのゴールを邪魔するディフェンダーは、私が排除する」が信条らしい。

怖い。


右手に立つのは、氷室慧吾ファンクラブ「インテリジェンス」代表、西園寺麗華(さいおんじ れいか)。

サラサラの黒髪ロングに銀縁メガネ。

手には扇子を持っている。

「氷室様の演算リソースを食い潰すバグは、私がデリートしますわ」というオーラがすごい。


左手に立つのは、間宮陽人親衛隊「幼馴染守る会」代表、橘優奈(たちばな ゆうな)。

ゆるふわボブに萌え袖。

一見守りたくなる小動物系だが、目が全く笑っていない。

「陽人くんの家庭的な平穏を乱す異分子は……排除、だよね?♡」という隠れヤンデレの気配がする。


「あ、あの……なんでしょうか……?」


「顔、貸してもらえる?」


葛城さんが顎をしゃくった。

断れば、この場でフィジカル・ブレイクされる予感がした。

私は震える足で、彼女たちについていくしかなかった。


魔女裁判の開廷


放課後の第1視聴覚室。

薄暗い部屋。

美咲が椅子に座らされ、三人の代表と取り巻きたちに囲まれている。

美咲は必死に弁明している。

女子たちの視線は冷ややか。


連行された先は、第1視聴覚室。

防音完備。

叫んでも誰も助けに来ない密室だ。


「で? あんた、どういうつもり?」


西園寺さんが扇子をパチリと閉じて、私を見下ろした。


「剛田くんにおんぶさせたり、氷室さまに勉強教わったり、間宮くんにお弁当作らせたり……。自分が何様のつもりか、理解できてますの?」


「い、いや、あの……!」


「陽人くんは優しいから、断れないだけだよね? あんたが脅してるんじゃないの?」


橘さんが首をコテンと傾げて、ナイフのような言葉を投げる。


「違います! 脅してないです! むしろ私が脅されてます!」


「はぁ? 被害者ぶるつもり?」 葛城さんが机をドンと叩く。


「違います! 被害者なんです! ……あ、あの、これ! これあげますから許してください!」


私はパニックになり、財布の中身を机にぶちまけた。

出てきたのは、あとスタンプ一個で満タンになるスーパーのポイントカード、期限切れの割引券、そして10円玉が数枚。


「……は?」


三人が顔を見合わせた。

西園寺さんが、汚いものをつまむように私のポイントカードを持ち上げた。


「なにこれ。『スーパーあおぞら』のポイントカード……?」


「私、これしか持ってなくて……! 魔性の女とかじゃないんです! ただの貧乏で地味なモブなんです! 毎日半額のパンを食べて生き延びてるだけの小市民なんです! だから命だけは……!」


私は机に頭を擦り付けた。

プライドなんてない。

あるのは生存本能だけだ。


「……ねえ、ちょっと」


葛城さんが毒気を抜かれたように呟いた。


「この子……魔性っていうか……なんか……」

「惨めすぎますわ……」

「震え方が、生まれたてのチワワみたい……」


彼女たちの抱いていた「傲慢な悪女」のイメージと、目の前で小銭を差し出して泣いている「情けない私」の姿。

そのギャップが、彼女たちの攻撃力を削いでいく。


緊急警報発令


理沙がスマホを操作している。

画面には「実験動物観察グループ(メンバー:剛田、氷室、間宮)」というふざけた名前のグループチャットが表示されている。

理沙は楽しそうにメッセージを送信する。


そのころ、理科準備室では、九条理沙が優雅に紅茶を飲みながら、スマホをタップしていた。


『送信先:実験動物観察グループ』

『件名:緊急通達』

『本文:貴君らの領土(美咲)が、第1視聴覚室にて外部勢力により侵攻を受けている。……急げ』


送信ボタンを押すと同時に、校内の三箇所で、三人の男たちのスマホが震えた。


誤解のベクトル変化


視聴覚室のドアがバン!と勢いよく開く。

剛田、氷室、陽人の三人が雪崩れ込んでくる。

三人は鬼のような形相をしている。

女子たちは驚き、美咲は救世主の登場に涙目になるが、直後の会話で空気が一変する。


「おいコラァ!!」


ド派手な音と共に、視聴覚室のドアが開いた。

三人の男たちが、息を切らして飛び込んできた。


「剛田くん!?」

「氷室さま!」

「陽人くん!」


ファンクラブの幹部たちがどよめく。


剛田くんは、部屋の中央で震える私を見つけると、顔を真っ赤にして叫んだ。


「お前ら! 俺の美咲に何してやがる!!」


その瞬間。

左右から鋭いツッコミが飛んだ。


「訂正しろ。所有権は確定していない」(氷室)

「お前のじゃねぇよ! 寝言は寝て言え!」(陽人)


「あぁん!? 先に見つけたのは俺だぞ!」

「発見と所有は別問題だ」

「ていうか、美咲は俺が管理してるんだから、実質俺のもんだろ!」


三人は私の前で、私そっちのけで言い争いを始めた。

私を助けに来たはずが、いつもの領土争いに発展している。


「……あ、あの、みなさん……?」


私が声をかけると、三人は同時に私に向き直った。


「美咲! 怪我はねぇか! 何かされたら俺が燃やしてやる!」(剛田)

「心拍数が異常だ。精神的負荷(ストレス)の慰謝料を請求する準備はあるか?」(氷室)

「お前、何回言ったらわかるんだよ! 俺の目の届かないところに行くなって言っただろ!」(陽人)


重い。 熱量が、圧が、愛(?)が、重すぎる。


その光景を見ていた、葛城さん、西園寺さん、橘さんの表情が、徐々に変化していく。


「……ねえ、見た? 剛田くん、血管浮き出てたよ……」

「氷室さまも、あんな早口で……」

「あれを毎日受けてるの? ……無理、私なら3秒で泣く」

「佐藤さん、震えてたよね。……あれは『女王』じゃないわ。『人質』よ」


誤解が解けた音がした。

「悪女」から「可哀想な飼育員(サンドバッグ)」へ。

彼女たちの認識が、ガラガラと音を立てて書き換わっていく。


生きているのに「仏様」


美咲の机の上に、大量の「のど飴」「胃薬」「栄養ドリンク」がタワーのように積まれている。中央には、空き瓶に挿された白い野花が一輪。完全に「祭壇」のような配置。遠くから女子たちが手を合わせている。


翌朝。

重い足取りで教室に入った私は、自分の机を見て固まった。


そこには、山のような供物が積まれていた。

スポーツマン御用達の高級プロテインバー。

頭が良くなりそうなDHAサプリ。

そして、ちょっと高い胃薬。


それらが綺麗に積み上げられ、その中央には、なぜか空き瓶に挿された「白い花」が一輪、飾られている。


「……え? なにこれ?」

「祭壇……?」


私がキョロキョロしていると、廊下の陰から、葛城さんたち三人がこちらを見ていた。

彼女たちは私と目が合うと、静かに目を閉じ、両手を合わせて「合掌」した。


(……ナムナム)


幻聴じゃない。

拝んでいる。

完全に拝んでいる。

その顔は、故人を偲ぶような、あるいは身代わり地蔵に感謝するような、慈愛と悲しみに満ちていた。


「ちょ、ちょっと待って! 私まだ死んでないよ!?」


私が叫ぼうとしたその時。


「おい美咲! 誰だこの菓子を置いたのは! 毒見してやる!」


剛田くんがプロテインバーを奪おうとする。


「成分分析が必要だ。未知の化合物が含まれている可能性がある」


氷室くんがサプリを回収しようとする。


「お前、俺以外の奴から食べ物をもらうなって言っただろ!」


陽人が胃薬を見て嫉妬している。


三人の騒音に包まれながら、私はそっと胃薬の封を切った。

クラスの女子たちの同情が、「尊い犠牲(生贄)」への崇拝に変わってしまったことを、私はまだ受け止めきれずにいた。

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