第2話:ナッシュ均衡と悪魔のコンサルティング
理科準備室にて
放課後の理科準備室は、怪しげな薬品の匂いと焦げたコーヒーの香りが混ざり合い、魔女の厨房のような有様だった。
部屋の中央には乱雑に書類やビーカーが積まれた実験台があり、白衣を着た長い黒髪の女子生徒
――九条理沙が、パソコンの画面の青白い光に照らされながら、不敵な笑みを浮かべている。
窓の外は完全に日が落ち、群青色の夜空が広がっていた。
重たい引き戸をガラガラと開けると、そこは完全に異世界だった。
「た、助けてぇぇぇ……! 理沙ぁぁ……!」
私は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で、その魔窟の主へ飛びついた。
彼女はパイプ椅子に優雅に腰掛け、マグカップ(中身は不明だがドス黒い液体)を傾けていたが、私の突撃を予期していたかのように、椅子をくるりと回転させて回避した。
「……汚いな。鼻水を拭いてから入室したまえ、佐藤美咲」
「だってぇ……! 私、もう死ぬの! 殺されるの! 人生が詰んだの!」
私は床に膝をつき、理沙の白衣の裾を掴んで泣きついた。
九条理沙。
学年1位の頭脳を持つ天才にして、感情というOSがインストールされていないサイボーグ。
彼女なら、このカオスな状況を打開するアルゴリズムを知っているはずだ。
理沙は面倒くさそうに溜息をつき、長い黒髪を指で弄んだ。
「剛田猛次、氷室慧吾、間宮陽人……だね?」
「へ? なんで名前知ってるの?」
「今の君の悲惨な顔と、校内SNSのトレンドワード、そしてエネルギー流動(噂話)を照合すれば、推論は容易だ。……ふむ。武力、知力、そして歴史(幼馴染)。バランスの取れたパーティ編成じゃないか。魔王でも倒しに行くのかい?」
「私が倒される側なんだよぉ!」
私はしゃくりあげながら、今日起きた3つの事件を説明した。
ゴールにされたこと。
実験対象にされたこと。
宣戦布告されたこと。
理沙は無表情で聞いていたが、時折「ほう」「なるほど」「サンプルとして優秀だ」と不穏な単語を呟き、手元のノートにサラサラと何かを書き込んでいた。
全てを話し終えると、私は祈るように彼女を見上げた。
「ねえ、どうすればいい? 誰を断れば私は生き残れる?」
理沙はメガネの奥の瞳を怪しく光らせ、パン、と手を叩いた。
「結論から言おう。『誰も断るな』」
「……はい?」
私の思考がフリーズした。
今、この悪魔はなんて言った?
黒板前の講義
理科準備室の黒板前。
理沙がチョークを走らせ、勢いよく図を描き殴っている。
チョークの粉が舞い、カッカッカッという硬質な音が響く。
美咲はパイプ椅子に座らされ、ポカンと口を開けてその様子を見つめている。
黒板には『魏』『呉』『蜀』という漢字が大きく書かれていた。
「いいかい、美咲。今の君の状況は、まさに『三国志』だ」
理沙は指示棒(どこから出した?)で黒板を叩いた。
「圧倒的な武力を誇る剛田は『魏』。知略に長けた氷室は『呉』。そして、大義名分(幼馴染の絆)を持つ陽人は『蜀』だ。彼らは今、中原――つまり『佐藤美咲』という領土を巡って睨み合っている」
「わ、私、領土なの……?」
「仮に君が剛田(魏)を選んだとしよう。すると何が起きる? 氷室(呉)と陽人(蜀)は即座に同盟を結び、君たちを攻撃するだろう。剛田の武力がいかに強大でも、天才の策略と幼馴染の執念による挟撃を受ければひとたまりもない。君の領土は焦土と化す」
「ひぃっ……」
「逆もまた然りだ。誰か一人に独占権を与えれば、均衡(バランス)は崩れ、戦争が起きる。敗戦国の君に待っているのは『死』だ」
「じゃ、じゃあ全員振る! 鎖国する!」
「愚かだね。そうなれば三国が連合軍となり、『なぜ俺たちを選ばない』という理不尽な大義のもと、君を攻め滅ぼすだろう。やはり『死』だ」
「どっちにしろ死ぬじゃん!?」
「そこでだ」
理沙はニヤリと笑い、三つの国の真ん中に『不可侵条約』と書いた。
「全員の『好意』を保留し、**『全員と同時に付き合う(仮契約)』**という状態を作る。これを『三国鼎立』による平和維持システムと呼ぶ」
「は、犯罪だよそれ! 二股ですらない、三股だよ!?」
私は思わず立ち上がって抗議した。
「私だって倫理観はあるよ! そんな不誠実なことできない! 私はただの女子高生で、悪女になりたいわけじゃないの!」
「ほう。では聞くが、君は彼らが血で血を洗う戦争を始めてもいいと言うんだね? 剛田が校舎を破壊し、氷室が精神を病み、陽人が泣き崩れる。君の『誠実さ』とやらのために、彼らを破滅させるのが君の正義かい?」
「うっ……そ、それは……」
「君が犠牲(悪女)になれば、彼らは争わない。お互いに牽制し合いながら、平和な日常が保たれる。……どうだ? 君の好きな『事なかれ主義』の究極系じゃないか?」
理沙の言葉は、悪魔の囁きだった。
倫理的には完全にアウトだ。
でも、「誰も傷つかない(特に私が)」という甘美な響きが、恐怖で麻痺した私の脳に染み込んでくる。
「……本当に? 本当にそれで、みんな無事でいられるの?」
「私の計算を疑うのかい?」
理沙は不機嫌そうに眉を寄せた。
「証明してあげよう。今から購買に行けば、確率的に『焼きそばパン』が一つだけ残っているはずだ」
夜の購買部前
夜の校舎、自動販売機と購買部(シャッターが降りる直前)がある薄暗い廊下。
自販機の人工的な光が床を青白く照らしている。
静まり返った校舎に、冷蔵庫の駆動音だけがブーンと響き、壁に掛けられた時計の針が時を刻む音がやけに大きく聞こえる。
「……焼きそばパン?」
「そうだ。私は過去5年分の購買POSデータをハッキングし、全校生徒の空腹サイクル、今日の気温、体育の授業内容、果ては教師の機嫌までを変数として入力している」
理沙は自信満々に語りながら、購買のパンケースへと歩み寄る。
「数千人の生徒が織りなす『食欲』というカオスですら、私の計算式(アルゴリズム)の前では完全に予測可能な事象に過ぎない。ましてや、たった3人の男の行動予測など、赤子の手をひねるより容易いことだよ」
すごい。
この人、ただの変人じゃなかった。
本物の天才変人だった。
私はゴクリと唾を飲み込み、理沙の背中越しにパンケースを覗き込んだ。
「……さあ、見たまえ。そこに鎮座するのは、計算通り『焼きそばパン』だ」
しかし。
そこにあったのは、焼きそばパンではなかった。
毒々しい赤色のパッケージ。
ドクロのマーク。
『激辛デスソース・カレーパン(売れ残り)』が、一つだけポツンと置かれていた。
「…………」
理沙の動きが止まった。
天才の計算。
絶対の予言。
それが、目の前の「激辛カレーパン」によって否定されている。
(えっ、ちょっと待って。この人の計算、もしかして……)
不安が足元から這い上がってくる。
私は恐る恐る、石像のように硬直している理沙の顔を覗き込んだ。
「あの……理沙さん? 焼きそばパンは……?」
理沙は数秒の沈黙の後、人差し指でクイっとメガネの位置を直した。
その表情は、先ほどと変わらず自信満々だ。
いや、こめかみに冷や汗が一筋だけ流れている気がするが、見なかったことにしよう。
「……ふむ。微細な誤差が生じたようだね」
「ご、誤差?」
「どうやら、私の計算式に『青春の汗による湿度変化』が及ぼす発酵への影響係数が抜けていたようだ……。あるいは、ラグビー部員がじゃんけん大会で突発的な買い占めを行ったか……。まあ、想定の範囲内だ」
「絶対想定外だったよね!? カレーパンしか残ってないじゃん! しかも激辛だよ!?」
理沙は私の抗議を無視し、そのカレーパンを掴んで私の手に押し付けた。
「いいかい、美咲。重要なのは『残ったパンを手に入れる(=生存する)』という結果だ。中身が焼きそばだろうが激辛だろうが、君は『空腹』という死を回避できた。そうだろ?」
「……まあ、食べるものは手に入ったけど……」
「明日、3人を呼び出したまえ。私が作成した『三国鼎立協定書』を渡す。君はただ、それにサインさせるだけでいい」
理沙は踵を返し、白衣を翻して闇の中へ歩き出した。
その背中は「ついて来い」と語っているようでもあり、「もう後戻りはできないぞ(計算ミスったらごめんね)」と宣告しているようでもあった。
私は一人、廊下に残された。
手の中には激辛カレーパン。
明日には、3人の猛獣との「契約」が待っている。
「……辛(から)そう」
呟いた言葉は、パンの味のことなのか、これからの私の未来のことなのか。
自分でもわからなかったけれど、私は観念してその封を開けた。
一口かじると、舌が痺れるような痛みが走り、涙が滲んだ。
これが、私の「生存戦略」の味だった。
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