『寂しい人』第七章

鈴木 優

第1話


     『寂しい人』第七章

               

              鈴木 優


 その日、公園のベンチに座ったふたりは、しばらく言葉を交わさずにいた。

 けれど、その沈黙は決して重くはなかった。

 

 風の音、鳥のさえずり、遠くで子どもが笑う声――それらが、ふたりの間をやさしく満たしていた。


 彼は、そっとノートの表紙を撫でた時、彼女の手の温もりが、まだそこに残っているような感じがした


『......あなたがいてくれて、よかった』


 彼女がぽつりと呟いた。

 彼は驚いて彼女の方を見たが、彼女は視線を落としたまま、続けた。


『母が倒れてから、ずっと、何かを抱えて生きてきた気がして。

 でも、あなたと話すと、少しだけ....,.自分を許せる気がするんです』


 彼は、ゆっくりと頷いた。


『人は、誰かの言葉で救われることがある。

 でも、あなたの言葉は、きっとそれ以上のものを持っていると思うんです』


 彼女は、はにかんだような笑顔を見せて、そう言ってくれた。


『そんなふうに言ってもらえると、なんだか照れますね』


 彼は、ノートを抱えたまま、ふと空を見上げた。

 桜の花はすっかり散り、枝には若葉が芽吹き、季節は、確かに前へ進んでいる。


『,.....ねえ』


 彼女が、少しだけ声を潜めて言った。


『もし、来年もここで桜を見られたら......そのとき、もう少しだけ、あなたのことを教えてくれますか』


 彼は、少し驚いたように目を見開いたが、すぐに柔らかく笑った。


『もちろん。来年じゃなくても、いつでも』


 彼女は、そっと頷いた。


『じゃあ......少しずつ、ですね』


 ふたりはまた歩き出した。

 公園の出口に向かう道すがら、彼女がふと立ち止まると、ポケットから小さな折り紙を取り出した。


『これ、母が折ったんです。病室で、時間があるときに』


 それは、桜の花を模した淡いピンクの折り紙だった。

 少し不格好だが、でもどこか温かい。


『よかったら、これどうぞ』


 彼はそれを受け取り、掌にそっとのせた。


『......大切にします』


 彼女は、ほっとしたように微笑んだ。


 その笑顔は、どこか春の終わりを惜しむようで、けれど確かに、次の季節を見つめていた。


 ふたりは、駅までの道をゆっくり歩いた。

 

 交差点の信号が青に変わるまでのあいだ、彼はふと、彼女の手を見た。

 細くて、白くて、けれど芯のある手。


 信号が点滅を始めたとき、彼はそっとその手を取った。


 彼女は驚いたように彼を見たが、すぐに、何も言わずにその手を握り返した。


 春の終わり、ふたりの歩幅は、もう完全に重なっていた。

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『寂しい人』第七章 鈴木 優 @Katsumi1209

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