雨に溶ける名前

南條 綾

雨に溶ける名前

 雨の音が、屋根を叩いている。私は傘も差さずに大学の裏門を出て、坂道を下っていた。

靴はずぶ濡れで、冷たい水が指の間を這う。

今日はなぜか家に帰りたくなかった。

そのとき、後ろから声がした。


「綾」


 振り返ると、そこにいたのは霧島先輩だった。

文学部の院生で、私が一年のときにだけ開講されたゼミの講師。

もう卒業して二年以上経つのに、なぜかまだ大学周辺にいる。噂では作家としてデビュー寸前らしい。


私は彼女が好きだった。授業中に原稿用紙をぱらぱらめくる指先も、黒板にチョークを走らせる背中のラインも、授業が終わると誰とも話さずに帰ってしまう横顔も、全部、ずっと胸に刺さっていた。


「こんな雨の中、傘も差さないでどうしたの?」


 先輩は自分の傘を私の方に傾けて、自分の方が濡れながら歩いてきた。

相変わらずの癖だ。昔も、ゼミの帰りに私が忘れ物を取りに戻って遅くなると、こうして待っていてくれた。


「……別に」


 私はぶっきらぼうに答えた。だって、もう会いたくなかったから。会ったら、また胸が痛くなるから。

先輩は黙って私の隣を歩き続けた。

坂道を下りきって、川沿いの道に入る。街灯が少ない場所で、雨音だけが大きくなる。


「最近、来なくなったね」

先輩がぽつりと言った。


「ゼミはもう終わってるし」


「そうじゃなくて。私の部屋」

私は足を止めた。二年前、卒業論文の相談という名目で先輩の部屋に通っていた。

狭い六畳間で、原稿と本が山積み。

夜遅くまで話して、気づいたら朝になっていたこともあった。


 でも、ある日突然、私は行かなくなった。

理由は簡単だった。

先輩の原稿を読んでいて、気づいてしまったから。主人公が、私に似すぎていたから。

名前も、口癖も、好きな本の並べ方も。

でも最後に、その主人公は死ぬ。

作者の分身みたいな女が、静かに死んでいく。

私は怖くなった。先輩が私を「素材」として見てるだけなんじゃないかって。

好きだなんて思ってたのは、私だけの勘違いなんじゃないかって。


 それで逃げた。連絡先も消して、先輩の近くにもできるだけ近づかないようにした。


「……あれは、どういう意味だったんですか」

私は震える声で聞いみた。

先輩は何のことか分からないと言いたげに、少しだけ首をかしげた。


「小説の主人公。私にそっくりだった。あれ、私のことですよね?」

先輩は傘を少し上げて、私の顔を見た。雨が彼女の睫毛に溜まって、ぽたりと落ちる。


「そうだよ」

先輩はあっさり認めた。


「だから? 私を殺すんですか?」

小説であり、現実じゃないのはわかってる。

お話の中で必要だったからかもしれない。

胸の奥がぐちゃぐちゃになって、気づいたら、理不尽な言葉をぶつけていた。


「違う」

先輩は傘を畳んだ。雨が二人ともを叩く。


「綾が来なくなって、書けなくなった」


「……え?」


「主人公が死ぬはずだったのに、死ねなくなった。だって、綾がいない世界なんて、想像できないから」

先輩の声が、雨に混じって震えている。


「ごめん。勝手に綾をモデルにして、勝手に殺そうとしてた。でも、実際にいなくなったら……こんなに痛いんだって、初めてわかった」


私は言葉を失った。


「だから、もう書かない。あの小説は破棄した」

先輩が一歩近づく。


「綾、私……あなたがいないと、生きていけないみたいだ」

雨が頬を伝うのか、涙なのか、もうわからない。

私はゆっくりと手を伸ばして、先輩の濡れた頬に触れた。冷たかった。でも、確かに生きてる。


「……バカ」

声が裏返った。


「私だって、先輩がいないとダメなのに」

先輩の目が大きく見開かれた。


「逃げてごめんなさい。でも、もう逃げない」

私は先輩の胸に飛び込んだ。濡れたコート越しに、彼女の体温が伝わってくる。


「好きです。ずっと、ずっと」

先輩の腕が、私を強く抱きしめた。雨はまだ降り続いていたけれど、世界が急に温かくなった。

これが、私たちの、本当の始まりだった。

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雨に溶ける名前 南條 綾 @Aya_Nanjo

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