第6話
次の日、すなわち今日も塾。
竹本は塾についてから富岡が昨日、なんとかかんとかのかんとか、と言っていった事を思い出した。
調べようと思ったけど、1文字も思い出せない。でも、思い出さなくてもいいことのようにも思えた。
講義の問題解説の声は永遠と頭の中で残響と反響が入り混じり、昨日の記憶のサルベージを妨害する。荒れた海のようだ。
数学の問題、質問の意味すらわからない。方向性も筋道も全くわからない。突如として頭の中に湧く英語はget lost。解説は入った分から不明瞭になっていく。聞こえるけど理解できない文字列にたちまち不愉快にさせられて、ヘドロの湧き起こった心では全てがシャットアウトされて、断片さえも頭に入らない。竹本は完全に置いていかれたと開き直った。
今日も自習時間を少し削って家に帰ろう、そう決めた。
東栄ビルの自動ドアが開くと、生暖かい空気と街だけは昼のように明るい事になんだか少し嬉しくなった。今日もビルの前には月岡がいた。
今日もアングラっぽさのある黒い服に有線イヤホンだった。
前も話しかけたし今日は何も言わないのも不自然だ、一度話しかけたことで話しかけるハードルは極端に下がっていた。
今回もほんの一、二分、時間を潰そう。
「今日も私に話しかけてきて、何? 愚痴?」
「別にめちゃくちゃ、なことがあるわけじゃないけど……あ、一つだけいいかな?」
予定になかった会話はたどたどしくなってしまった。
「なに? なんでも言ってごらんよ」
「あの、自分より色々、優れてそうな人が居た時に、どんな気持ちになるのかなって」
「どんな気持ちになるかって、変な質問だね、まるで他人の感情みたい」
月岡は少し横を向いて、考える素振りをした。
「まあ、僕だったら、そーゆう人も居るよなぁって思うけど」
「そうじゃなくて、なんだろう、心の持ちようみたいな」
「劣等感ってこと?」
「ま、まぁそんな感じ」
「比べても仕方がないんじゃないかな、結局、仕方がない話じゃん、テレビで陸上の世界大会を見て、自分が選手より遅いことを悔やみながら生きてきた? それと一緒、足が速い人も居るし、遅いのも居る、それだけ」
「勉強の成績とかじゃそうも言えないじゃん」
「そうだね、もし竹本さんが勉強をできなくて、他の人がめちゃめちゃできて、それに劣等感を感じていたとして、その差で大学が決まって会社が決まって、年収が決まってて響く、と言うことを気にしてるなら、逆に言えばそこしか範囲はない話じゃないかな」
「それだけって、自由に使えるお金の額も全然違うじゃん」
「それは、固定概念に縛られているからこそ見る幻覚だよ、僕には遠回しに学歴社会を否定したいのに完全否定することは否定してるように見える」
「まぁ、そうかもね」
「今回の話は結構面白かったし、普段考えないベクトルの事だったから、割安で200円でもいいよ」
竹本は初めて月岡に会った日以来、忍ばせていた小銭で相談料を支払った。
「ちょっと愚痴れてよかった」
「LINEでも愚痴相談は受け付けてるからね」
竹本は最後は会釈で月岡から離れた。
はっきり感想を言うなら、あれは不登校の意見じゃないか、と思った。実社会に属さない社会不適合者の感想なのではないかと思った。
悪くは思いはするけれど、心の奥底には、月岡の言うことも間違ってないような、瀉血するような快感があった。
家への最寄駅を出る。歩みを進めるごとに深い住宅街に沈んでゆく。夜が深まると、自然と夜と昼を比べて、昼を意識させられる。
家と家の細い隙間に猫の瞳が光っている。昼にはなかなか見れない光景にちょっと見入った。
竹本は家に帰るのもあまり気乗りしなかった。帰り道にある公園のベンチに腰掛けてほんの数分、時間をかけようと思った。
静かなベンチに腰をかけると、頭の両側面が心拍に合わせて、打ち寄せる波みたいな頭痛がした。
公園は子供、昼間、賑やかといったものを連想するけど、シーンと静まり返った夜の公園はいつもと違う特別感から私の気分を高揚させた。
竹本はクラスの女子が私に耳打ちしたことを思い出した。
普通に噂が本当だったら、きっと待ち合わせだろうな、でも、街中で待つかはよくわからない。やってないやってるで言えばやってても違和感はないかも、でもなんか想像してたより、バカじゃないと言うか、考えがあるんだな思った。
想像は時間潰ししとしてコスパがいい。高越がVtuberを語る時に、自論を交えるのはきっと同じ理由だ。
スマホを取り出し、時刻を確認する。拾い画の白いくてゆるいキャラの画面が、ぐわっと目が痛くなるような光を放って、10時32分。いつも家に着く時間だった。
公園のベンチに落ち着いて、もっと腰掛け続けたい、そんな気がしたけど、きちんと時刻通りに玄関を開けた。
竹本は早く塾を抜けたとバレないように、いつも通り振る舞えるか自信がなかった。
心なしか玄関ドアの開閉はいつより何倍も丁寧に見えた。
「おかえり」
と言う母親の声に早く抜け出したことがバレているんじゃないかと、強張ったが、当然、何も言ってこない。
当たり前か、だって知らないもんな。
竹本はベットで横になった。
頭の中では今日帰ってきたテストの結果をどう渡そうか、何度かシミュレーションしたが、めんどくさくなりそうなのが気がかり、うたた寝状態から寝られなかった。
シミュレーションを重ねるたびに、精度が上がって、頭は冴えて寝れなくなっていく。
朝、
「はい」
と折り畳んで渡してから、紙を開いたママがヒステリックに、
「ねぇ」もしくは「はいっじゃないよ」
と足早に去ろうとする私の背中に向かって言うのがリアリティのある声とともにシミュレーションされた。
シミュレーション結果に、行き場のない怒りを覚える。このシミュレーションは最早、現実と遜色のない苦痛だ。無意識に歯を食いしばっていた。
悪いのは自分だし、シミュレーションしてるのも自分だから、ムカつたところで自己責任だけど、あまりのリアリティ沸々とムカつく。
じんわりと滲み出るように涙が二滴溢れ、頬を横につたった。
竹本は涙が乾いてカピカピした感覚を疎ましく思い始めた頃、ママが眠るために寝室に移動した音が聞こえた。
ママがいつも化粧する辺りに置いておこうと思った。しんと静まり返った家の中をひっそり移動するのは、高校生にもなって情けなくて、恥ずかしかった。
紙を置く時、あまりに平行だと、違和感があるというか、かしこまり過ぎている気がして、わざとちょっとずらして置いた。
竹本はいの間にか眠り、いつも通り6時少し前にセットさせられたアラームを見ずに止めて、リビングに向かった。
母親はドアの音に振り向き、コーヒーカップを化粧に使う机に置いた。コト。不気味に大きな音に聞こえた。コーヒーカップの横にあるのは塾のテストの結果。
竹本は小さい頃から母親の顔色を窺って来たからわかる。
怒っている。いつもより少し生活音が大きいから。
「ねぇ、塾のテスト。こんなんで大丈夫だと思っているの?」オーブンが私のパンを焼くジーという音が言葉の合間の静寂を引き立てる。「こんなんじゃMARCHに入れないわよ」
今日の話し方は独り言みたいだった。
シミュレーションよりも、キツくなくて肩透かしを食らった。
「うん、わかってる」
棒読みだった。意識はオーブンのパンにしかなかった。
「私がどれだけ我慢して来たと思っているの? 塾もただじゃないからね」
チン。パンが焼けたらしい。
竹本は、私がどれだけママの顔色窺って、どれだけ苦労して、我慢して来たか知ってる?
なんて勢いで言ってしまえば、これまで人生で積み重ねて来た努力が水の泡に成りかねない呪文がよぎった。
竹本は全てをグッと堪えて、あえてどこか確信を外したように飄々とパンをオーブンから取り出した。
どこか諦めたように母親は猫背でスマホに視線を落とした。
竹本はママは小さかったけ、こんな嫌な感じがしたっけ、こんな歳取っていたっけ、と思った。
おばさん特有の脂肪が乗って、肉肉しいくて気持ち悪く感じた。
自分の中の沸き起こりそうなヘドロは殆ど沈み込んでしまって、代わりになんだかいやな物を見た時みたいな、汚いものを見たような、換気していない部屋の空気みたいな、見えないし掴めない気持ちになった。
今日の食パンはいつもより焦げて苦かった。なんだろう、本当に何だろう。言葉にできない、形に掴めないこの感覚。ヘドロもいやなものも、換気をしていない部屋も自分の心を如実に現す鏡には思えなかった。
もっと無機質で、もっと時流のように抗いがたい絶対的な虚無。
パンは苦くて、舌に絡まって鈍くなる。
竹本は食後に無性に執筆がしたくなって、スマホの中の執筆ソフトを起動した。
今日は日本の田舎に移住して主人公が理想の生活を目指す話を書こうと思う。
恋愛の方はプロットをそんなに考えずに書き出して、話に詰まっているからしばらく先送り。
ーー毎朝、鳥の声で目が覚めるが鳥の声と一概に言っても、毎日違う種類も数も距離も違う。例えば、今日は窓辺で百舌鳥が軽快に鳴いているらしい。
リビングの7.1.2chのスピーカーで流す曲をCD棚を眺めながら選定する。ベートヴェンの深みは今日の軽い朝には似つかわしくない。ゴルトベルクは好きだが金属的な響きは柔らかな今日には合わない。今日はもっと白くて、軽くて、それでいて形のある曲でなければならない。朝に月の光を聴くのはなんだか矛盾を孕んでいる気がするし。
朝から散々悩んだ挙句、私はバッハの無伴奏チェロ組曲第一番に決めた。窓を開けて、レースの緩やかで眠たげな揺れは春の気だるいいつまでも眠っていたい歓喜に溢れている。ーー
田舎移住の話は情報をいちいち集めて書かなくてはいけないから時間がかかる点がネックだ。
竹本は今朝の母親の態度が妙に気になって執筆が思うように進まなかった。
趣味で始めたはずなのに、書かなくてはいけないという責任感がやはり負担に思える。また没。碌に完成させたこと無いのにまた没にするのは、もったいない気がしてならないけど、もったいないという気持ちだけ書いていたらそれこそ碌な話にならない気もする。
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