【短編ファンタジー】灰の国のパンデシネ【完結】

どんぐり

【短編ファンタジー】灰の国のパンデシネ【完結】



# 『灰の国のパンデシネ』




 夜明け前、冷えた空気の中に、やわらかい香りが立ちのぼった。

 焼き立てのパンの匂い――それは、かつて戦火と血煙が満ちていたこの城には、あまりにも不釣り合いな香りだった。


 城の厨房は半壊し、天井には穴が空いて空が覗く。炉だけが無傷で残されたのは、奇跡というより、皮肉でしかない。

 パンデシネは、その皮肉の中に立っていた。淡い灰が舞う光の筋の中、黙々と捏ねた生地を丁寧に丸め、炉へと滑り込ませる。


 焼ける音が「パチッ」と弾けるたび、胸のどこかが少しずつほぐれていく。

 ここはもう、国でも、王宮でもない。

 ただの“焼き場”だ。

 そして彼は、王宮の魔王でも、闇の王でもない。

 半ば壊れかけた心を、パンの香りで必死に繋ぎとめている、ひとりの男だった。


「……さて。今日の出来はどうだ?」


 パンデシネはほのかに微笑んだ。

 味はいつもひどい。だが、焼き立ての香りだけは――


「戦争の匂いを忘れさせるからな」


 誰に聞かせるでもなく呟いて、パンを取り出した。

 その瞬間、城の外から重い靴音が響いた。


 ドン――ドン――。


 規則正しく、ためらいのない足取り。

 敵軍の兵士の行進ではない。一人だけの足音。

 この国を滅ぼした2万の敵軍が今も周囲を取り囲んでいる中、護衛もつけずたった独りで乗り込んでくる無謀極まりない愚か者は、パンデシネの知るかぎり1人しかいない。

 パンデシネは振り返ることもなく、焼きたてのパンを木の皿に置いた。


「……来たか。遅かったな、リアン」


 扉が軋みを上げて開く。


 冷たい朝の光を背に受け、鎧をまとった男が立っていた。

 長身のパンデシネと同じくらいの身の高さに、子供っぽさを残したままで成人したかのような精悍な顔立ち。

 思い出に残る――あの顔が、こっちを睨んでいる。


 かつて王立高等学校の自主映画サークルで、馬鹿みたいに喧嘩しながら脚本を書いた旧友。

 今は勇者軍を束ね、この城を包囲する“侵攻側の将”。


 勇者リアン。パンデシネと同じ歳、久しぶりの再会に――今まで会いたかったが、やはりもう会いたくなかったような……パンデシネの中に複雑な心境を絡ませてくる、かなり迷惑な存在である。


 そんな彼は、ひどく疲れた顔で言った。


「……まだ焼いてたのかよ。魔王」

「おう。いつでも焼いてやるさ……こういう時こそな」

「お前、ちっとも状況を察していないな……いや、相変わらずのんきということか」


 パンデシネは、リアンの話を聞いているのか。敵軍の将に背を向けたまま、前屈みにかまどを覗き込む。


「今日のは上出来だ。勇者はまだ戦うつもりだ、じゃなくて――」

 パンデシネは軽く笑って、いつもの調子で言った。

「勇者はまだ“焼く”つもりだ、か?」


「焼かねぇよ! なんで俺までパン職人にされるんだ!」


 リアンが怒鳴るが、その声はどこか弱い。


 城や周りの城下町に火の屋を放つ命令を下したのは、自分なのだ。

 こいつの国を焼いたのは、事実上リアンである。

 そこに罪の意識がないといえば嘘になる。


 むしろ、こいつと一緒にパンでも焼いていたほうが――心の平穏は保たれていただろう。


 リアンが現実逃避に浸っていると、

 ふいにパンデシネが、皿のパンを指で押しながら言った。


「……お前こそ疲れてる。二万の兵を使って包囲したんだろう? よく頑張ったじゃないか」

「そう思うなら、俺をゆっくり休ませてくれよ」

「なら早くオレを殺せと言いたいところだが――少々パンに未練があってな。少しくらい待ってくれよ」

「昔のよしみでか?」

「ああ、昔のよしみでだ」

「せっかく最後の決戦が始まると期待していたんだが……とんだ肩透かしだな」

「ああ、昔の脚本のようにな……」

「言うな、それを――」


 リアンは古傷に触られたかのように、険しい表情となって語気を強める。

 そんな旧友の動揺ぶりを横目に見て笑うパンデシネは、再びかまどの中に目を向けて独り言のように話しだす。


「勇敢な俺の民は、最後まで戦うと誓ってくれたが、そんなことは望んでない……」

「……だから、逃がしたのか?」


 我に返ったリアンが問う。


 ここに来る数時間前――たくさんの翼が生えた魔物どもが城から飛び立って、暗黒の空へと消えていったのだ。


「ああ、オレはパンを焼きたかったからな。もう好きにさせてくれと言い放ってやった……部下のやつら、口々に文句を言いながら飛び去って行ったよ」

「相変わらずバカだな。自分を守る味方を決戦前に逃すとは――」

「いや、ブレてないと言ってもらおうか。あの映画でも必要だったのは、部下の命を守る王の姿だからな――」

「何を今さら言ってやがる――あの脚本は酷かったぜ。戦争のない戦争映画など、肩透かしもいいところだろ」

「いや、わかってないのはお前のほうだ。あの脚本には、ちゃんと反戦を謳うメッセージ性があったんだ!」

「いらねえよ! ドンパチを見たい連中に、説教臭いのを見せてどうすんだ? だからお前は、平和ボケのお花畑だと言われるんだよ!」

「どう言われようが構わない――作家とは、周りの声に惑わされて自分の主張を曲げては、もはや作家とは言えぬ! それに、あのとき言っただろ? 観客の大勢がたとえ白けたとしても、必ず心に刺さる客はいるって!」

「そんなの、千人に1人いるかどうかだぜ!」

「数の問題じゃない! 1人でもいれば、その映画には価値が出るんだ!」

「お前がそうやって強情だから、あの映画は中止になったんだろうが! 俺の監督作を減らしやがって! あのとき必死こいて考えた演出プランをどうしてくれるって言うんだ!」

「だからパンを焼いた――」

「はあ?」

「全ての罪を、ここで終わりにするために……」


 目を閉じて、静かに語るパンデシネ。


「きっとリアンなら、1人でここに来ると思ってた……」

「当たり前だ。お前を殺すのに、二万もの兵もいらねぇよ。……ひとりで十分だ」


 剣の柄に手をかけながらリアンは、ゆっくり歩み出た。

 パンデシネとの距離は、かつて自主制作の映画脚本を二人で打ち合わせしながら書いていた机の距離よりも近い。


「覚悟はできてるんだろ? お前の国は終わった。お前の父親が撒いた種だ……『滅びることでしか償えない』――そう言ったのは、お前だったよな?」


 パンデシネは静かに頷く。


「……ああ。あの脚本に、そんなセリフを書き込んだ覚えがある……王に喋らせたかったセリフだ。懐かしい……すこし、懐かしがる時間が欲しいな」

「はあ?」

「なぁに、今さらジタバタはしない……だが、最後にパンくらい食わせてくれてもいいだろう?」


「俺は……食わねぇよ。お前が作ったパンなんて――」


 リアンは言いかけて、ふと鼻をひくつかせた。


「……なんだこの匂い」

「焼き立てだ。味は最悪だが、香りだけは悪くない」


「……お前、ほんっと……詩人ぶりだけは変わらねぇな……」


 リアンが苦笑した、その時。


 ――ぴたっ、ぴたんっ。


 廊下から小さな裸足の歩む音が聞こえた。

 子供の足音だった。


 パンデシネとリアンが同時に振り返る。

 崩れた壁のすき間から差し込む光の中、小さな影が近づいてきた。


 顔を覗かせたのは――少女だった。灰をかぶり、服はぼろぼろ。

 しかし、その目だけは光を失っていない。


「……パンの……匂いが……」


 か細い声が響く。

 リアンが一瞬だけ剣を抜く手を止めた。

 パンデシネはゆっくりとリアンの前から歩みだし、テーブルの上にある焼きたてのパンをのせた皿を掴んで、少女の前へと向かう。


「あっ……」


 少女の視線は、皿の上のパンに注がれている。

 お腹が空いているのだろう――初対面の大人たちへの警戒心も薄れてしまっているほどだ。


「ようこそ。焼き立てだ。熱いから気をつけてな」


 少女の前で腰を下ろしたパンデシネは、薄く微笑みながらパンを差し出す。

 魔王らしくない行動だ。

 しかし、こういうところに騙されてはいけない。


 ――毒が入っているかもしれないぞ!


 と、少女に注意を促したかったリアンの思いよりも先に、少女はパンを手に取り、頬張ってしまっていた。


 ――くそっ!


 リアンは心の中で拗ねる。

 少女はパンを食べながらパンデシネに笑顔までも返しているのだから、リアンとしては悔しくて仕方ない。


 ――こいつは、その優しさから女の子の心をつかむのがうまくて、昔どれほどリアンの心をかき乱してくれたことか!


 そういう無駄なことまで思い出させてしまう嫌な奴なのだ。


 ――いや、いや! やめろ!

 こいつの良いところまで思い出すのは、やめろ!


 そもそも――こいつは魔王なのだ!

 いくら懐かしい姿を見たからと言って、ここ最近の事実をごまかしてはならない。


 こいつは父の誘惑に乗って悪魔と契約し、魔の力を手に入れて国を躍進させた卑怯者だ。

 周囲の国と仲良くしようともせず、自国の国益だけを優先させた。

 その傲慢なやり方に、周囲の国々は苦しめられてきたからこそ――このたびの討伐の旅に、2万もの軍勢を参戦させてきたのだ。それだけ嫌われた魔王は戦で父を失い、自国に籠城した。


 今や……死を待つだけの、孤独な魔王だ。


 どれだけやつれ、病んだ姿でいるのか。

 哀れんでやるつもりで乗り込んできたら――なんと、のんきにパンを焼いていやがった。


 こいつは自分の死をもう覚悟したから仲間の魔物も逃がしてパンを焼いているのだと開き直ったように言うが、それまでの罪は覚悟ごときで消えるわけがない。


 ――そう。消えるわけがない。


「どうだ? おいしいか……?」


 微笑みながら、少女に訊ねているパンデシネ。

 その背中に、リアンの剣先がピタリと向けられる。


「………っ!」


 パンデシネの表情が凍りつく。

 時が止まったのだ。

 少女の前に膝をついた魔王と、背後に剣を構える勇者。

 この国で最後の緊張の線が、そこに張りつめた。



       ◆ ◆ ◆



 少女の小さな手が、温かいパンをぎゅっと抱え込む。

 まだ食べ慣れていないのか、少しずつ、慎重に噛みしめている。


 パンデシネの背中に剣を向けたまま、リアンは歯を食いしばった。


 ――斬れるはずがない。


 そう思っている己に苛立つ。

 激しく苛立つ!

 いつだってそうだ。俺は肝心なところで度胸がなくなり、最初の目標を諦めてしまう弱さがある。

 それもそのはず。


 少女の前で膝をつき、無防備に背中を向けるこいつの姿は、どう見ても卑劣な怪物のそれではなかった。

 どこからどう見ても――人間の、それも昔と変わらない“あいつ”の背中だった。

 それが判断を迷わす。


 斬ってしまうのは簡単だ。

 魔物だと思えばいい――しかも、こいつは魔王だ。

 斬れば、周辺国からの褒美は計り知れない。

 おそらく一生、英雄として敬われ――遊んで暮らせるほどの富を得るだろう。

 なのに。

 その誘惑を、汚い欲として忌み嫌う自分がいる……。


 当然だ。

 迷いまで簡単に斬れるものではない。迷いはそいつの中で生き続け、何十年も重石のように両肩に乗っかったままとなるのだ。


「……斬ってみろよ、リアン」


 背中の向こうから、低い声がした。

 強がりでも挑発でもない。ただ、静かな諦念があった。


「斬るなら……斬れ。ただし――」


 パンデシネは言葉を区切り、少女のほうへ目線を向けた。


「その娘が、パンを食べ終わるまで待ってくれ」


「……ふざけてんのか?」


「ふざけてない」


 パンデシネは少し間を置いてから言った。


「オレのパンを、誰かが最後まで食べてくれるのなんて……はじめてなんだ」


 リアンの胸に、嫌な痛みが走る。


 ――やめろ、そんな顔をするな。


「おいしい……よ……」


 少女は食べながら小さく呟いた。

 その一言は、戦争で失われたすべての音よりも温かかった。


 リアンは剣先を震わせ、動けなかった。


 ――チッ……なんなんだよ、こいつらは!


 怒りでも憎しみでもない。

 胸に湧いてくるのは、どうしようもない情けなさだった。


「ほら、もっと食べていいぞ。ゆっくりな」


 パンデシネは優しく声をかける。

 少女はこくりと頷き、残りを食べ始めた。


 その微笑ましい光景を、リアンは剣を握ったまま見つめるしかなかった。


 やがて、少女はパンを半分だけ残し、立ち上がった。


 そして――


「……あげる。おいしいよ」


 少女は、残りのパンをリアンの前に差し出した。


 リアンの身が、まるで立っていられなくなったかのように――ぐらりと揺れた。


 ――やめろ。そんな目で見るな。


 立っていられなくなったリアンは腰をおろし、少女の目線に合わせた。


「お腹いっぱいなら、明日のぶんに取っておきな。ほら……危ないから、早く行け」


 リアンは目をそらしながら言った。

 声がかすれていて、自分でも驚いた。


「うん……」


 少女は頷き、パンを抱えて駆けだす。

 まるで野原へ駆け出していくかのように、さっきまでの空腹を忘れて、少女は新たな希望の土地を見つけようと旅立つ。


 その背中が光の中に消えるまで、二人は黙って見送った。

 未来の輝きを失った静寂の寂しさが訪れる。

 少女はここに、もう未来はないと――あっさり走り去ったのだ。


 だからこそ――


「……この国を再建させないとな」


 パンデシネが静かに呟いた。


「お前が壊しておいて、よく言うぜ」


 リアンは剣を握りなおし、吐き捨てるように言った。

 するとパンデシネは、いつになくまじめな顔となって――眩しそうに勇者を見つめて言う。


「オレを倒すなら、お前がこの国を再建させてくれ」


 そのまじめすぎる訴えに、リアンは吹き出す。


「ごめんだね。オレは子供が嫌いだ――もし、あの子のために働くなら、お前の役目だろ?」


 パンデシネは驚いて――やがて怪訝な表情に変わって問う。


「……オレを……生かしていいのか?」


 リアンは何も言わなかった。

 ただ、剣を鞘に戻し、城の大きな食堂から出口に向かって歩きだす。


「おい……パン食っていけよ!」


 パンデシネは、その背に叫ぶ。


「そんなまずそうなの食えるか!」


 勇者は振り返りもせずに立ち去っていく。


「ケッ。意地っ張りめ――」


 これが、奴と交わす『最後の言葉』になるのか――。

 パンデシネが寂しそうにそう思ったときだ。


「……次に来たときには、もう少しましなパンを焼けよ!」


 リアンは振り返らずに言い放ち、外の光の中へと消えていった。


「…………」


 彼は今、何と言ったのか――。

 言葉を反芻しようとする。だが、よく聞こえなかった。聞き間違いのような気がしてくる。


 今から彼を追いかけて確かめたい気もするが――あいつのことだから、二度はないだろう。

 それに不用意に出て行ったら、外で待ち構えている軍勢が勘違いしてリアンを守ろうと、大量の弓矢を自分に向けて放ってくる可能性が高い。それでは、あっけない最期になってしまう……。


 ――いや、せっかくリアンからもらった命を無駄にはしたくない。


 自分には、あの少女が安心して戻って来られる国に再建するという大仕事が残っているのだから。


 笑ってしまう。

 さっきまで死んでもいいと思っていたはずなのに。

 思いがけず『生きる目標』が出来てしまったのだ。それによって、不思議と生きたいという欲望が湧き上がってきていた。


 身勝手な自分の変化に、笑わずにはいられなかった。

 そんなときである


「………ん?」


 厨房に一人残されたパンデシネは、ふとテーブルを見る。


 皿の上には、勇者に差し出したパンが――

 ほんの少しだけ、ちぎられていた。


「……あ、あいつ……」


 パンデシネは手に取り、ちぎられた部分をそっと撫でた。


「お前がくれた命……やり直してみせるぜ」


 つぶやきながら、パンを口に運ぶ。

 噛みしめると、しっとりとした甘みが感じられてくる。


「みろ……うめえじゃねえか……」


 パンデシネは微笑んだ。

 あの少女が褒めてくれたのは嘘ではなかったのだ。きっとまたパンを焼けば、彼女は戻ってきてくれるだろう。それを待ちながらパンを焼いてみるのも悪くない。


 再建をやりながらパンを焼き続ける――。

 これから忙しくなるぞ。


 生きる目標が固まったとたん――


 ふいに思い出が胸に押し寄せた。


 ――リアンの父親が戦の中で殺され、戻ってきた国も焼かれ、自分の母も焼け死んで、闇に堕ちたあの日。

 全てが狂った“本当の始まり”が……。


 パンデシネは、そっと目を閉じた。

 やり直すのは簡単ではない。

 なぜなら、もう魔の力には頼らないつもりでいるのだから。


 灰の国の王宮に、静かな風だけが吹き抜けた。



       ◆ ◆ ◆



 ――あの日、夕焼けは黒かった。


 パンデシネは、皿に残ったパンをそっと置くと、ふらりと立ち上がった。


 ……どうしたのだろう。

 急に不安の色が濃くなってくる。

 胸の奥に広がってきたのは、温かさでも希望でもない。

 もっと重く、鈍い――長い時間をかけて積もり続けた痛みだった。


 思い出が胸を焼き始める。

 焼きたての香りでは消えない、戦争の匂いが甦る。


 風が吹く。

 崩れた城壁の隙間から、灰がふわりと舞い上がった。

 その瞬間――今までの希望が何かに奪われたかのように、パンデシネの意識は過去へと飛んだ。



       ◆ ◆ ◆



 ……それは、王宮広場の鐘が夕刻を告げた直後だった。


 当時のパンデシネはまだ若く、

 父――“破壊王”セレオスの背中だけを追い続ける王子だった。


「父上、本当に……連合軍は退いたのですか?」


 王宮の高いバルコニー。

 国境の遠い地平線を見つめながら、大人ぶろうとするパンデシネは自分は役に立つ存在だと言いたげに問いかけた。


 しかし隣の父は、珍しく返事をしなかった。

 険しい横顔が、沈む黒い夕日に照らされている。


 不吉な沈黙だった。


「……パンデシネ。お前は、戦をどう思う?」


「戦、ですか?」


「国と国が争い、力と力をぶつけ合い、勝ち負けが生まれる。それを、お前はどう見ている?」


 パンデシネは少し悩み、まじめに答えた。


「……好きではありません。出来るなら、民に血を流させたくない。たとえ勝っても、得るものは……痛みばかりです」


「――そうか」


 父はゆっくりと目を閉じた。

 その表情は、いつもの強者のそれではなかった。


「ならば、覚えておけ」


 セレオスは、低く、重く言った。


「戦を嫌う者ほど……いずれ戦に呑まれる。避けたくとも、向こうが来るのだ。逃げ場など……本当はない」


「父上……?」


 自分は叱られたのか。

 パンデシネは父の哲学に『帝王としての迫力』を感じ取り、無意識のうちに萎縮してしまっていた。


「来るぞ。今日は“黒い日没”だ――たまにあるだろう。太陽が沈みきる寸前に、空が濁る日が」

「は、はい……」


 若い王子はすでに萎縮し、返事するのが精一杯である。


 だが、視線を改めて空に向けてみると――

 今まさに、その濁りが空を満たし始めていた。

 美しい橙が、腐食した鉄のような黒混じりの赤に変わっていく。


「戦が……始まるのですか?」


 若き王子パンデシネはおそるおそる父に訊ねた。

 戦の経験が豊富な破壊王は、その獣のような目つきに変わったとき――

 直感が、人より優れている一面を見せる。


「いや――戦は、もうあちらが始めている」


 次の瞬間、地平線の向こうが、燃えた。


「――っ!」


 連合軍の軍旗が、火の中でひるがえっていた。――と、兵からの報せが入り、破壊王は出陣だと飛び出していく。

 若き王子も続いたが――そこからの出来事は速すぎて、慌ただしさの中に呑まれていくばかり。


 気がつくと、国境の要塞が炎に包まれ、逃げ惑う兵士たちの影が点々と見える現場に立っていた。


「怯むな! 儂に続け!」


 父は剣を抜いた。

 同時に、自軍を鼓舞するように兵が銅鑼を鳴らす。

 その音は、戦の始まりだけに思えないほど、若いパンデシネの心には重く響いた。


「パンデシネよ――城へ走れ! 母を、民を守れ――国を締め直すのだ!」


 馬に跨がり、突進する前に破壊王は息子に告げる。


「でも父上は――」


「儂は前線に出る。“破壊王”の名があるうちは、まだ希望がある!」


 父の背中は、巨大だった。

 戦場に立つ黒い巨神のようだった。


 だが――その姿が、パンデシネが見た最後だった。


 若い王子は父に告げられた命令を遂行すべく、故郷の城に馬を駆り続ける。

 並走する護衛の馬と共に、馬蹄の響きだけが続く世界が、パンデシネを孤独へと落としていく……。


 自分は何と戦っているのか。

 平和を願い、王子という立場でありながら――今まで全くの無力で、戦争を止めることもできない。

 母を守れ、民を守れ――。


 できないよ、父さん……。

 そんな力ないよ……。


 パンデシネの自信は、もはや砕け散ったも同然だった。



       ◆ ◆ ◆



 王城に戻ると――すでに敵軍の別動隊に攻め込まれている最中であった。


「おいっ、王子だ! 王子がいるぞっ!」


 敵軍の兵が、パンデシネの存在に気づき――声を荒げる。


「王子! 城の中へお逃げください!」


 護衛の兵も必死に叫ぶ。

 何度となく剣が打ち合う。

 その騒ぎに、王国の中にいた兵たちも気づき、王子を助けようと城門から一斉に出てくる。

 やがて敵味方が入り乱れての騒乱となった。

 そんな中で、兵たちの必死の導きで、パンデシネ王子は城門をくぐって王国の中に入る。

 城壁で囲まれた町の中にも敵が侵入してきており、油断できない。


「早く、お城へ――っ!」


 敵と剣を交える兵が急かせる。


 言われなくても――。


 若き王子は馬を飛ばし、敵兵と味方が打ち合う中をくぐり抜けて城の中へと駆け込んだ。

 まずは母の無事を確かめねば。

 馬から降りたパンデシネ王子は広間を突き抜け、階段を駆け上がる。


 母は不安そうにしていて、侍女たちに付き添われて逃げる支度をしているところだった。


「――母上っ!」

「あぁ! パンデシネ!」


 無事を喜び合う母と子であったが、神はその安堵の時すら許さなかった。

 雷鳴のような轟きが城壁を揺らす。

 まるで神の怒りに触れたかのようだ。

 その刹那――


 命がけで戻ってきたばかりの伝令使が、汗と血の匂いと共に駆け込んできた。


「王子っ! 王がっ………セレオス陛下が……!」


 今度こそ、雷が落ちたような衝撃を浴びた気がする。

 パンデシネ王子は息を呑んだ。

 言葉は途中から聞こえなかった。ただ理解してしまった。


 目の前の世界が割れる音がした。


 自国の王、父であり英雄である男が――

 連合軍の猛攻で討たれたのだ。


 その報せを聞いた母は、呆然としたまま侍女や護衛の兵たちに連れられ、別館へと避難していく。

 しばらくして――またもや雷鳴。

 崩れ落ちる瓦礫に、母たちが呑まれたと兵が伝えてきたときには、さすがに発狂しそうになった。

 皆で崩れた瓦礫を取り除こうと向かったが――すぐに火の手が回り、誰も近づけない状態になってしまう。

 母は侍女たちと共に、あっけなく焼け死んだ。


 家族が一瞬で消えた。


 もうパンデシネの頭に、時間の概念などなかった。

 出来事が矢継ぎ早に過ぎ去っていく。


 焼け落ちる城。

 逃げ惑う民。

 押し寄せる敵軍の影。


 怒りでも悲しみでもない。

 それ以上の感情が、胸の奥で黒く煮えたぎる。


 ――守りたいものが、何ひとつ守れなかった。


 その絶望が、彼の心の奥底に“闇”を落とした。


 ……ふざけるな。

 若き王子は、怒りをにじませて呟く。

 自信を喪失し、父も母も、そして民も、国も、みるみる奪われ、剥がされていく自分……。


 なぜ自分だけが、生き残っているのか。

 早々に死んで良いはずではないか。

 なぜ今も、五体満足で身の震えを感じていられるのか。


 生きてしまっている自分に――誰が、何を見せたいのか。

 神の悪戯なのか。

 オレを弄んで、美酒にでも酔っているのか。


 ふざけるな……。


 泣いてばかりいるオレを見て笑うな。

 オレにも反撃をさせろ。


 ……力をくれよ。


 オレは、もう失いたくないんだよ。

 みじめな思いで死んでいくのなら、最後に反撃の狼煙を上げさせろ。

 やることをやらせてから殺せよ。


 だから………


「……力がいる」


 パンデシネは呟いた。


「国を、守るための……力が」


 そう声に出した直後である。

 やっと奪われていた時間が、自分の元に戻ってきた。

 自分はいま――王城の中にいて、悲惨な状況を伝えに来た伝令使たちの真ん中に立っている。

 他の衛兵たちも気落ちして跪き、むせび泣き、力ない自分たちの不甲斐なさを王子に詫び続けていた。


 ――泣くな。


 お前たちを責める気などない。

 むしろ謝りたいのは、オレのほうだ。

 何も反撃の命令を出さず、状況に呑まれて踊らされていただけのオレこそが――不甲斐なくて、詫びねばならない存在だ。

 いや、詫びても詫び切れない。


 オレに力がないせいで、お前たちを不幸にした。


 父も母も、民も守れずにいる……。

 役立たずなオレに、よくぞ今日まで仕えてくれた。


 今ここで――オレにできることは、自らの命でもって罪を償うことだ。


『滅びることでしか、償えない――』


 リアンと喧嘩しながら執筆した自主映画の脚本に、オレが無理やり書いたセリフ。

 それを最後の言葉にしよう――。

 と、パンデシネは呟く。


 その瞬間。

 王の間の一角にあるアーチ状の入り口――地下の礼拝堂へと続く階段の底のほうから、誰かが呼ぶ声がした。


『来い……パンデシネ。お前に力をやろうぞ』


 声は、父に似ていた。

 だが、どこか歪んでいた。


 幻聴なのか?


 周りを囲む兵たちは跪き、力なく泣き続けるままだ。

 誰も聞こえていないらしく、まるで反応がない。

 彼らの声でないのは明らかだ。

 それなのに――


『守りたいのだろう? 憎いのだろう? 滅びから逃れたいのなら……我と取引をしろ』


 姿なき声は、地下の底からパンデシネの鼓膜にだけ、しつこく語りかけてくる。

 まるで地の底に広がる漆黒の世界から黒い影が伸びて、自分の全身にまとわりついてきているかのようだ。


「…………」


 やがて若い王子は誘われるように、泣き崩れた兵の輪から抜け出て、アーチ状となった礼拝堂の入り口へと進む。


『そうだ、運命を受け入れよ――』


 父に似た声は、まだ響く。

 ひょっとして父は生きているのではないか。礼拝堂のどこかに隠れているのではないかと期待してしまう。


『ようこそ。救いの神のもとに――』


 ――救いの神だと?


『お前は救われたいのだろう? 力が欲しいのだろう? ならば、我と契約すればいいのだ』

「契約?」

『ああ、簡単なことよ。お前が、我の望むものを提供してくれさえすれば――我は、お前に力を貸す。それだけではない。我の仲間も、お前の部下として働くだろう………どうだ? 悪い話ではないだろ? ん?』


 パンデシネ王子はその誘いを――拒めなかった。



       ◆ ◆ ◆



 現実へ戻ると、厨房の天井の穴から日が差し込んでいた。

 もう朝の光だ。いつのまにか夜が明けている。


「……長く、生きすぎたな」


 パンデシネは自嘲気味に笑った。

 あの日から、ずっと胸に巣食っていた闇が、まだ残っている。


 だが――今は違う。


 少女の笑顔と、リアンのちぎったパン。

 その二つが、彼の胸の奥で新しい“灯”になって揺れていた。


「やり直せるなら……やり直すしかないよな……」


 厨房には、誰もいない。

 でも、パンデシネは呟いてみた。そうすることで、自分の決断が揺らいでいないことを確認したかったのだ。

 そして、灰の舞う光の中で――パンデシネはひとり、小さく笑った。


 再建の第一歩は、今日からだ。


 そう思った瞬間。


 ――ドンッ。


 城門のほうで、重い爆音が鳴り響いた。


 パンデシネは振り返った。

 嫌な予感が、背筋を走る。


「……まさか、リアンの軍が……?」


 違う。

 音の方向が、外ではない。


 城の“内側”だ。


 パンデシネは焼き場を飛び出し、崩れた回廊を駆け抜けた。


 ――何かが、この城に侵入した。


 その“気配”は、かつて自分に力を授けた影にも似ている。


「……まずいな……」


 再建どころではない。

 灰の国には、まだ“闇”が残っている。


 その気配が、いま――城の奥で蠢いていた。



       ◆ ◆ ◆



 崩れた回廊を抜け出ると、突如にして空気が変わった。


 冷たい。

 焼け落ちた城の中とは思えないほど、冷たい。


 パンデシネは足を止め、静かに息を吸った。


「……影の匂いだ」


 忘れようとしても、忘れられない。

 あの日――契約を交わし、初めて自分の体に“闇”が流れ込んできたときの、あの嫌な冷気。


 同じ気配が、この城の奥に充満している。


 パンデシネは無意識に拳を握った。

 まだ闇の力は残っている。

 しかし、以前のように自在に使えるわけではない。

 契約した“あの影”との距離が離れるほど、力は弱まり、もはや今は残滓のようなものでしかない。


 だが――


「……来る者が誰であれ、逃げるつもりはないんだよな……フフッ」


 自嘲気味に笑い、パンデシネは崩れかけた階段を降りていった。



       ◆ ◆ ◆



 城の地下にある、礼拝堂跡。


 かつて“あの声”が聞こえてきた場所だ。

 光の届かないその奥から、黒い靄がゆっくりと溢れ出していた。


 パンデシネは、どきりとして立ち止まる。


「……まさか。封じたはずだろ……?」


 契約の代償として、闇は国を覆った過去。

 それは、鮮血と人々の悲鳴を求める魔の住人に命じられるままに闇を操り、戦い、そして――

 最後はリアンに討ち倒され、もはやこれまでと先刻自らの意志で手放したはずの力。


 その残滓が、まだ地下に残っているなど……想像したくもなかった。


 だが。


 靄は、ゆっくりと“人の形”を作り始める。


「なっ……!」


 パンデシネは思わず後ずさった。


 黒い靄が集まり、骨格を作り、輪郭を生み――

 やがて闇の塊のような“影の兵士”が何体も立ち上がる。


「……やっぱり、お前たちか」


 闇の眷属。

 かつて、自身が国防のために魔の力で召喚し、戦場へ送り込んだ影たち。


 パンデシネは静かに目を閉じた。


「……すまない」


 影たちは言葉を持たない。

 そして、かつての主を認識できるほど知性も高くない。


 だから、容赦なく襲いかかってくる。


 四方から、影の腕が伸びる。


 同時に、パンデシネは足元の瓦礫を蹴り、影たちの間をすり抜けるようにして脇へ転がった。


「――お前たちとの決着は、まだであったか」


 パンデシネが咄嗟に拾い上げたのは、折れた柱の先――棒切れに毛の生えたような即席の武器だった。


「フッ……パンで殴ったほうが、マシかもしれないな……」


 冗談を呟きながらも身構えた瞬間――

 影たちの動きが、ぴたりと止まった。


「……?」


 まるで何かに怯えるように、影たちが身を縮める。


 その直後。


 礼拝堂の奥で、低い、地響きのような声が響いた。


『――パンデシネ。久しいな……』


 パンデシネの背筋が凍った。


 忘れるはずがない。

 あの日、絶望の中で契約を交わした“相手”――。


 黒き声の主――闇の“契約者”――。


『まだ終わっていないぞ。我との契約は……まだ果たされておらん』


「……っ!」


 パンデシネの喉が締まる。


 それは、父の声によく似ている。

 だが、歪んでいる。

 あの日、パンデシネ王子の魂が死を渇望していた状態で聞いた幻聴とは違う――もっと明確な意思を持った、闇そのものの声。


『お前は守れなかった。だから力を望んだ……だが、その力を捨て、今は……パンを焼いておるのか?』


 影たちが、再び動き出した。


 パンデシネは棒切れを握り直し、前へ踏み込む。


「……悪いが、もうお前と話すことは何もないよ」


 すると影たちが一斉に飛びかかってくる。


 パンデシネは、棒切れのたった一本で――応戦した。



       ◆ ◆ ◆



 ――そして。


 その頃、城の外では。


「パンデシネ……?」


 険しい表情となった勇者リアンが、ひとり馬を降り、剣を抜いていた。


 それを見て――城を囲む勇者軍の兵士たちが一斉にざわつく。


「勇者様! まさか、またお一人で?」

「あなた様は、我々の指揮官です! 二度目の無茶はおやめください!」


「うるさい、黙ってろ!」


 リアンは一喝したあと、門の破れ目へと馬を走らせる。

 馬はそのわずかな隙間を見事にくぐり抜け、半ば廃墟となった城下町に入った。


 胸騒ぎがしている。

 あの日からずっと、自分でも理由はわからなかったが――


 ――アイツが……何かヤバい目に遭ってる!


 妙にその確信めいた焦りが、己を無謀にも突き動かす。

 確認しておきたい――胸騒ぎの正体を!

 リアンは心の中で叫び、馬を降りて、再び城内へと足を向ける。



       ◆ ◆ ◆



 棒切れは頼りない武器だった。

 だが――パンデシネには、かつて城を守ろうとした“誓い”だけは残っている。


「……ハァッ!」


 影が振りかざした腕を、棒切れで横に逸らし、足払いをかける。

 影は音もなく崩れ、黒い煙となって床へ散った。


 だがすぐに、別の影が背後から迫る。


「――っ!」


 振り向きざま、パンデシネは棒切れを投げつけた。

 武器を投げるのは愚策だ――そう思いながらも、背に腹は代えられない。


 棒切れは不格好な弧を描き、影の頭にぶつかった。


 影がひしゃげ、霧散する。


 だが――その先には、もっと濃く、もっと深い影が立っていた。


『……弱くなったな、パンデシネ』


 低く、濁った声。


 黒い靄を纏いながら、影はゆっくりと形を整えていく。

 人のようだが、違う。

 父に似た輪郭を持ち、しかしどこにも人間らしい温度がない。


『かつては我が軍勢を指揮し、多くを屠ったお前が……』


「侮辱はやめてもらおうか?」


 パンデシネは素手のまま構えた。


「お前とは……もう終わったんだ」


『終わっていない。お前はまだ、契約を果たしていない――』


 影の主は、黒い手を持ち上げる。

 その指先から、闇の糸のようなものが何本も伸び――蛇のごとく蠢きながら、礼拝堂の床の裂け目に染み込んでいった。


『お前の“後悔”は我の糧だ。そして今も後悔し続けている――国を守れなかったことを。父も母も、民も……』


「……やめろ」


『お前は弱い。弱さを抱えたまま、パンを焼いてごまかしている。それが滑稽でならぬ』


 パンデシネの胸が軋む。

 否定できない言葉ばかりだった。


『弱き者よ。

 再び力を手にしろ。

 再び国を築け。

 我はそのための“闇”を、お前に――』


「侮辱するなと言ってるだろ!」


 パンデシネは素手で殴りかかった。

 拳は影を貫いて、虚空を掴むばかり。


 しかし、逆に影の腕のほうは、パンデシネの胸を――勢いよく貫こうとした。



       ◆ ◆ ◆



「……ッ!」


 痛みは来なかった。


 影の腕がパンデシネに触れる寸前――

 突然、天井の崩れた穴から、鋭い銀光の一閃が降ってきたのだ。


 ガキンッ!


 金属の音が響き、影の腕が弾かれる。

 影が慌てたように怯む。

 ひとりの人影が飛び降りる。

 ほぼ同時の出来事だった。


 剣を構えたまま着地した、その姿に――パンデシネの目が見開かれる。


「……リアン!」


 勇者リアンは、ふんっ、と鼻を鳴らして剣を構えたまま叫んだ。


「嘘をつくのはやめてもらおうか!」

「嘘だと?」

「まったく! 目を離すと、すぐこれだ! 何が“パンを焼いて平和に暮らす”だ、この嘘つきめ! どの口が言ってるんだよ!」


『ゆ、勇者だと……?』


 影の主の声が揺らぐ。

 再び分身を作り出し、仲間の影を増やしていく。

 リアンは剣を肩に担ぎ、今度は影の群れを睨みつけた。


「おい、魔王――」

「………」

「おい? 聞いてんのか、魔王!」


 再度の呼びかけに、パンデシネはたまりかねて答える。


「その呼び方はやめろ! もうオレは、魔王の座を捨てているんだぞ!」

「――なら、何でこんな黒いのがたくさん出てきてんだよ? お前は、まだ魔王のままってことだろうが!」

「なんだと? お前は、そんなくだらないことを言うために戻ってきたのか!」

「バカヤロウ! お前こそ、助けてもらったくせに――命の恩人に感謝のひとつもないのかよ?」

「――いいか、教えておいてやる。感謝とは、それに値する立派な人間に対して示す行為だ!」

「よかろう。だったら示せよ――」


 と、リアンが誇らしげに胸を張る。


「おい、どこに立派な人間がいるって言うんだ?」


 パンデシネは、いきなり辺りをキョロキョロと見回す。


「どこにもいないぞ? いや、立派なのは人間ではなく――この黒い影のほうだ!」

「何だと!」

「見ろよ――この黒い影は、未だに俺を仲間だと思って、しつこくつきまとっているではないか!」

「それ、誉めてんのかよ?」

「敵として、あっぱれだと言っているんだ!」

「ほほう……敵か? あれが敵なのか?」


 リアンが、しつこくパンデシネに確認する。


「……ああ、そうだ。間違いなく敵だ」


 パンデシネは不適に笑って、頷き返す。

 それを見届けたリアンは、持ってきた短刀を懐から取り出した。


「そうか……敵なら、倒すしかないよな?」


 と、リアンは取り出した短刀をパンデシネに投げる。

 パシッと受け取ったパンデシネは、にやりと笑む。


「ああ。倒すしかないな――」


 二人は頷き合う。


「よし! なら、遠慮なく行くぜ!」


 リアンは、黒い影に向き直った。

 首魁の影を守ろうとするかのように、影の分身が前に出てくる。


「邪魔だ、どけぇぇぇ!」


 その影が、この先には行かせないと腕を広げる。


「うるっせぇ!」


 リアンが突進し、足元の瓦礫が弾け飛ぶ。


「でりゃあああああああああっ!」


 リアンの剣が、闇の靄を裂いた。



       ◆ ◆ ◆



 リアンの剣が影の胸を貫いた瞬間――黒い靄が爆ぜ、礼拝堂内に冷気が渦巻いた。


『ぐ……ぁ……ゆ、勇者………貴様……っ!』


 その影は形を保とうと、必死に靄を寄せ集める。

 だが、リアンの剣は“光”を帯びていた。


「……チッ、まだ固いな」


 リアンが構えた剣の刃が、薄く光を放っている。


「その剣……まだ持っていたのか」


 パンデシネが驚いたように言う。


「当たり前だろ。お前を倒すための専用武器だからな!」

「……わざわざ専用にするな!」

「うるせぇ! だいたいな、お前のせいで何度斬り捨てても死なねぇ雑魚に、どれだけ苦労したと思ってんだよ!」

「……“雑魚”と呼ばれたのは初めてだ」


 パンデシネがしれっと言うと、リアンはすかさず返す。


「じゃあ、“しぶとい雑魚”に訂正してやるよ!」

「わざと訂正しなくていい!」


 罵り合いながらも、リアンとパンデシネの距離は影の群れに対して自然と背中合わせになった。


『……勇者と魔王が……協力、だと……?』


 首魁らしき影の主の声が震えた。

 怒りではない。

 予想外の光景に、明らかに動揺している。


「協力じゃねぇよ。こいつを殴るのは俺の役目だ!」

「そしてオレは、愚か者を止めるために殴り返す役目だ!」


「――結局、協力してんじゃねぇか!」


 リアンが叫ぶと、パンデシネはむしろ誇らしげに笑った。


「フッ……これが“腐れ縁”というものだろう?」

「違うわ!!」


 完全に噛み合っていない。

 しかし――呼吸だけは、昔と変わらない。


 リアンは剣を構え直し、パンデシネは短刀を逆手に持ち替える。


 影の群れは後ずさった。

 勇者と魔王が背中合わせで歩み寄ってくるのを、恐れている。


『お前たちは……敵同士のはずだ……!』


「ああ、敵だったさ」


 パンデシネが静かに言う。


「だがな……敵同士というのは――」


 リアンが続けた。


「一番よく知ってんだよ!」

「――相手の弱さと強さをな!」


 パンデシネが最後を締める。

 リアンはちょっと嫌そうな顔で、パンデシネを睨む。


「俺のセリフを取るなよ」

「脚本担当だからな。いいセリフはいただくに決まってる」

「おいおい、学生気分の抜けないヤツだ」

「お前こそ――いい加減、大人になれっ!」


 そうやって喧嘩しながらもリアンとパンデシネは、周囲の影の群れを確実にひとつずつ倒していく。

 いくら影の主が、分身を放っても無駄だったのだ。


「そろそろ、お前の番だな?」


 リアンが、最後に残った首魁らしき影の主に身構える。


『我を斬れば、後悔するぞ――この国は、二度と復興しない』


「決めつけないでもらえるか?」


 ムッとしたパンデシネのあとに、リアンが続いて言った。


「ああ、そうだよ――こいつなら、やり遂げる。なんせ魔物に魂を売ってまで国を守ろうとした奴だからな!」

「最後は余計だ」

「事実だろ。脚本のセリフに使ってもいいぞ?」

「そんな、どこかのバカが喜びそうなセリフ――使うわけないだろ?」

「バカとは何だよ! バカとは!」

「事実だろ。演出プランに使っていいぞ?」

「ふざけるな!」


 リアンは怒りをぶつけるかのように、黒い影の主に向かって駆けだす。


「うりゃあああああああっ!」


 間一髪! 影の主がよけた。


『……い、いいのか? この国の復興を諦めるのか?』


「諦めてなんかいない!」

「そうだ、諦めるな! いいか、パンデシネだけじゃない――俺も手を貸せば、不可能などない!」

「お、お前………そんなに、パンが好きになったのか?」

「バカヤロウ! あの女の子の顔が、頭から離れないだけだ!」


『ひぃっ! な、なぜだ………なぜ、お前たちは《魔の力》を恐れない――』


 黒い影の主は震えだす。

 その叫びは、もはや魔でも影でもない。

 ただ怯えた子供のような、薄い哀れみすら漂わせた。


 ――そして。


 リアンが踏み込み、剣を構えた。

 パンデシネが反対側から駆け、短刀で影の腕を払う。


『ぎイッ……!』


 影の身体が崩れかけ――


「二度と、ここに来るんじゃねえッ!」


 リアンの剣が振り下ろされた。


 その瞬間、影の主は最後の抵抗とばかりに靄を濃くし、姿を巨大化させた。

 肉体を持たぬ影が“圧”だけで礼拝堂の壁を軋ませる。


『我は……お前を……絶望の王に………この国から破滅を………広める……ために………グッ、グアアアアアァァッ!』


「ほざくなっ!」


 リアンの怒号とともに、剣が影の胸を断ち割る。


 同時にパンデシネも短刀を突き立てた。


「終わりだッ!!」


『――――ア、ァ……』


 影の主は、まるで煙が消えるように、ゆっくりと形を失っていった。


 黒い靄は霧散し、礼拝堂から闇が引き潮のように消えていく。

 リアンとパンデシネ……。

 いや、勇者と魔王が協力して魔を追い払うという、二人にとって歴史にあまり残したくない戦いが……こうして終わったのだ。


 しばしの静寂が続く――。



       ◆ ◆ ◆



「……ふぅ」


 リアンは剣を下ろし、荒い息を吐いた。


「……また、お前に助けられたな」


 パンデシネが肩で息をしながら言う。


「別に、助けてねぇよ。俺が勝手に来ただけだ――」

「強がるな……素直に、感謝してもいいんだぞ?」

「感謝? お前がか? いいか、教えといてやる。感謝ってのはな――」

「親愛なる友に捧げるものだ――」


 パンデシネが、さらりと答えた。

 リアンは出鼻を挫かれたように、あっけにとられたまま言葉が続かない。


「それよりも、リアン――さっき、オレは気になる言葉を聞いたが?」

「気のせいだろ?」

「どこかの暇人が、国の復興を手伝うとか何とかって――」

「チッ。ああ、そうだよ! 暇になっちゃうんだよ。お前が魔王を辞めたせいで――」

「なるほど。それでオレに雇って欲しいと?」

「何で俺が――お前の下で働かなきゃなんないんだよ?」

「だって。勇者の仕事はこれで終わりだろ? 連合国も解散。お前もクビだろ?」

「クビって言うなよ」

「じゃあ、失業者か」

「もっと嫌な言い方だぜ。暇人でいいんだよ、暇人で!」

「雇ってやってもいいぞ? ただ働きで――」

「はあ? おい、足元見んなよ! これでも俺は、連合国からたくさんの褒賞金で大金持ちになるんだからな!」

「ほう……それを全額、この国の復興の資金に寄付してくれると?」

「なっ――」

「ありがたいな、素晴らしい――感謝する!」


 パンデシネがふざけて拍手すると――もう一人、拍手する者がいた。


「……えっ?」


 2人が驚いて――礼拝堂の入り口を見る。

 階段の途中で立って拍手していたのは、あの少女だった。


「なんと――戻ってきてくれたのか!」


 パンデシネは嬉しそうに、少女に歩み寄る。

 リアンも続いてきて、


「何だ、てっきり他の国に行ったかと思ったぜ」

「ほかの……国?」


 少女は、きょとんとして答える。


「この近くに……なにも、ないよ……」

「うっ、あ、うん……いや、外に大群がいただろ? 誰かに、他の国に連れて行ってもらったかなって思ってな……」


 子供と話すのが苦手そうなリアンだった。


「キミ、名前は……?」


 腰を下ろしたパンデシネが、微笑んで訊ねた。

 少女は少し、はにかむように伝える。


「ミナ……」

「ミナか……いい名前だ。戻ってきてくれたんだね?」


 少女ミナは、パンデシナに頷く。

 それを見てパンデシネは、リアンのほうを見上げて言う。


「リアン……報酬は、彼女の笑顔だ」

「はあ?」

「ミナの将来を――見守れる権利とも言うけどな」

「へっ。全く詩人だね――」


 リアンもミナに歩み寄って、彼女の頭を撫でる。


「お前の未来……俺たちに任せろ」

「こら、オレが言うべきセリフを取るな!」

「フハハハ! 演出家だからな! いいセリフは採用だ――」


 2人の大人が笑う姿に、ミナも笑って見守っているかのようだった――。





       ◆ ◆ ◆





 そこから長い長い時が流れた………。





 ――ここは、夕暮れの王都。


 瓦礫の山だった街並みは、いまは骨組みと新しい石材が立ち並び、ところどころで足場が組まれている。

 復興の途中ではあるが――それでも、風景には確かな“未来”の気配があった。


 その中心――王城跡地の石畳となった大階段に、ひとりの少女が腰かけている。


 十二歳になったミナだ。


 膝には焼け残った古い帳面。

 周囲には、彼女が整理していた古文書の籠がいくつも置かれている。

 風で髪が揺れても、ミナは気にせず読み続けている。まるで、本の向こうに“昔の国”を見ているようだった。


 そこへ――


「おーい、ミナ!」


 陽の沈む方向から声が飛んだ。


 ミナが顔を上げると、石畳の坂を登ってくる、背の高いおじさんがいる。

 剣を腰に差してはいるが、その顔は以前より幾分やわらかい。


 リアン。

 二十九歳になり、今は復興都市で剣術道場を開き、弟子を何人も抱える師範代だ。


「ほれ、お前の好きなやつ――」


 リアンは、ぶっきらぼうに紙袋に包まれた温かい丸パンを差し出した。

 ミナは、ぱっと表情を明るくする。


「ありがとう、リアン!」


 受け取ってひと口かじると、香ばしい匂いが夕風に散った。


「――おい、勝手に持って行くなよ~」


 のんびりした声が、少し遅れて階段下から聞こえた。

 粉まみれの白いエプロンを締め、手には大きな木べら。

 その顔つきは昔より幾分穏やかだが、どこか貫禄がついていた。


 パンデシネ。

 三十歳。

 もう魔王であったことを知る者は、この街にいない。

 新たにこの街へ移り住んできた人々は、誰もがパンデシネのことを街角のパン工房の店主としか認識していないのだ。


「パンデシネ! 今日のパン、すごくおいしい!」


 ミナは、感謝の気持ちで誉め讃える。


「そりゃあ、作ってるのがオレだからな」


 パンデシネは得意げに笑って、石段に腰を下ろす。

 リアンも隣に座り、三人は自然に肩を並べる形になった。


 高台から暮れていく街を見下ろすミナが、ぽつりと言う。


「……もうすぐだね。王立図書館の再建」

「ああ。お前の頑張りのおかげだな」


 リアンが彼女の頭を撫でると、ミナは照れくさそうに視線をそらした。


「でも……まだ、この国の王さまって決まってないよ?」


「ん? ああ、そうだっけ……」


 とぼけたようにパンデシネは、頭をかく。


「いつもね、新しい執務大臣が――『そろそろ、この国の新しい王を決めていただきたいんですが?』って、わたしに怖い顔して言うんだよ? 二人も同じように言われてるんでしょ?」

「お、おいミナ。それはだな……」


 リアンは喉を鳴らし、パンデシネのほうを見る。

 誰もが、この二人のどちらかが国の責任者になるべきだと思っている――みんな、新しく移り住んできた者ばかりなので、この国の歴史なんてよく知らないのだ。


「決めればいいだろ、さっさと。お前がやれよ、リアン」


 パンデシネは、投げやりのように言う。


「はぁ!? なんで俺なんだよ!」

「勇者だったからな」

「だった――って、過去形で言うな! あのな、そもそもこの国を治めていたのは、王家であるお前の一族だ」

「そんな過去の話は知らんね――むしろ、勇者こそ新しい国民のために立ち上がってこそだ」

「それも知らんね。俺だって、ずいぶん昔の話だ――どこかのパン屋に、過去形にされるくらいだからな!」


 またも二人が噛み合わないやり取りを始めたところで、ミナがくすっと笑った。


「フフッ。やれやれ……しょうがないね」

「ミナ……そう言うなよ。オレたち、今の生活に満足しちゃってるから、行政の責任とか負いたくないんだよな」

「んだ。同じく俺も、剣を教えてるだけで毎日が充実してるぜ」


 二人がそう言って、自己弁護を始めた直後である。


「フフッ……じゃあね……わたし、女王さまになってあげてもいいよ?」


「えっ!?」

「ほう?」


 二人の声が揃う。


 ミナは、夕日の光を受けながら言った。


「そのかわり――条件があるよ」


 彼女はずっと考えていたのか――

 この国を背負って立つ覚悟を決めたかのように、すくっと立ち上がり――呆然とする二人に向き直った。


「いい? リアンは剣術大臣で、パンデシネはパン工場大臣。それと……宮廷映画監督と、宮廷脚本家を兼ねること!」


 その辞令の発表に――二人は呆気に取られすぎたせいで、反応が一拍遅れた。


「はあ!? な、なんでだよ!?」

「パン屋のオレに、今さらペンを握れと?」

「新しい国には、娯楽が必要だからよ」

「娯楽……」

「そう。街の中心に劇場を建てるの!」

「劇場……」

「そのためにね、脚本家と演出家が必要でしょ?」

「確かに……」

「う、うん……まあ……あ、いや、それでいいのか?」


 戸惑う二人に、幼い女王は言った。


「フフッ……どうせケンカするなら、ちゃんと役職つけてケンカしなさい」


 ミナが、小さな女王様として初の指示を出す。

 でも、その目はどこか楽しそうだ。


 リアンもパンデシネも、そのまま言葉を失い――

 次の瞬間、二人は顔を見合わせて苦笑いした。


 どうやらミナ女王は、結構なやり手になりそうだ……。



 そして夕暮れの風が、三人の間を抜けていく。


 復興半ばの街。

 まだ傷跡の残る城跡。

 しかし穏やかで平和に包まれた中で、肩を並べる三人の背中。


 ――まるで、遠い知り合いから届いた“近況報告の絵はがき”のような光景にすら見えてしまう。


 最後の陽光が、再建途中の城に優しく落ちていく。

 そこに生きる人々の未来を、そっと照らすように。


「これから、いっぱい忙しくなるね……」


 ミナが、小さく呟いた。

 少女を見守ってきた二人の大人が、やさしく応じる。


「ああ……」

「そうだな……」


 三人の声が、夕空に溶けていった。


 灰の国の――新しい日々が、今静かに始まる。




                          (おわり)










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【短編ファンタジー】灰の国のパンデシネ【完結】 どんぐり @dongurism

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