縁 (一)

 体がゆらゆらと揺れ、海に浮かんでいるような感覚。

 瞼を上げると、どこまでも……濃く、深く、果てしなく暗闇が続く。何も見えない、何も聞こえない……深海のような、長いような、短いような、静寂。


(何も、ない)


 静寂な世界の中に、視界にポツポツと螢火ほたるびのような点が浮かび、咄嗟に瞼を閉じた。

 再び瞼を開ける。……が、点は消えるどころか、増えていった。点が集まり始め、白金しろがねの光が視界を覆っていく。


 ただの白の、視界だけが続く。


 やがて霧が晴れるように、白から少しずつ色が彩り始め、視界が鮮明になる。

 穏やかな静けさが満ちる夜闇。水の音と、鹿威ししおどしの音が微かに響いていた。空中に仄暗い螢火ほたるびが漂っていた。光の粒が舞っているように見えた。仄暗い螢火ほたるびと、夜闇の上空に浮かぶ三日月が辺りを薄っすらと照らしている。


 自分は、その空間に立っていた。

 古い映像を見ているかのような……、それなのに、現実味がある不思議な感覚。これは、夢だろうか?それとも、何だろうか。


(誰かが、いる……)


 庭だろうか、その空間にがいた。

 地面に片膝をついた男。『彼』と向き合っている、何処か見覚えある五、六歳の小さな男の子と女の子。


(―――僕自身……、)


 そして、もう一人は自分の片割れ。


 幼い自分達と向き合っている『彼』の顔を見ようとした。しかし、どうしても口元から上の顔が見えなかった。黒いもやようなものが『彼』の顔を塗り潰していたせいで、判らない。

 『彼』とは誰なのだろうか?何故、『彼』と言っているのかは分からない。


 しかし、唯一わかることは――ある感情だけ。

 その『彼』が、ひどく懐かしく思えて……ならなかった。


 何度記憶を遡っても、何度考えても、『彼』のことを思い出せない。名前も、顔も、知らない。思い出せない。

 懐かしいという感情があっても、だ。


「ぼくは■■の■■になるよ!」


「あのね、わたしは■■の■■■■になるよ!」


 自分が、片割れが、何を言ったのか分からない。ノイズが入って聞こえない。


(何を、言っていたっけ……)


 その言葉に、『彼』は息を呑んだように見えた。


「……、……なら、俺も『』しよう……――」


 低く、泣きたくなるほど懐かしい声、とそう思えてならない。

 何故、そう思えてならないのか。自分自身でも分からない。思い出せないのに、分からない筈なのに、心が叫んでいるようだ。

 叫んで、叫んで、叫びたい、と思えるぐらいに。


 頬にが伝う。


 喜び? 悲しみ? 怒り?この頬に伝う何か――涙は、どの感情からきているのかは分からない。


 無意識のうちに、手が『彼』の方へ伸びる。

 何故なのかは分からず仕舞いに、だ。


 そこに『彼』がいる、という事実に変わりはない。況しては、夢だとしても。

 

「                  」


 『彼』の口角は上がり、優しい笑みを溢して、自分達に。しかし、『彼』の最後の言葉が聞こえなかった。ノイズが入って、聞こえなかった。

 『彼』は自分達へと右手を差し出し、小指を立つ。自分達も右手を差し出し、『彼』の小指に小さな小指を絡めた。


 大きな小指と小さな小指二つ――ゆびきりを、結んだ。


 ――ゆびきりげんまん、うそついたらはりせんぼん……、のーます、


 ゆびきった、と三人の声が重なり、呪文を唱える。


「――――『』だ」


 低音の声が耳ではなく、直接、脳に響いたかのように聞こえた。

 その同時に――――映像が、写真が、炎に燃えるかのように少しずつ黒くなる。

 それと同時に体が、地面へと沈んだ。海に沈むように、底なし沼に沈むように、沈み始めた。


(行かないで、消えないで)


 『彼』へ手を伸ばしたが、届かない。声を張り上げたが、届かない。

 藻掻こうが、体は沈む一方だった。


(――消えるな!!)


 どんどん体が沈んでいく。完全に体が沈むと、そこで意識が途切れた。






 五月十日――初夏の空は青く、蒼く、高い。眩しいほど鮮やかな真っ白い雲が流れている。さらに、そよそよと穏やかな風が吹く。それが、余計に眠気をいざなう。

 部屋の窓を開けていたのか、風がそよそよと吹き込んで黒髪を気持ちよく揺らす。

 ピピピ、と無機質な電子音が朝の到来を知らせるべく部屋内に鳴り響く。その音で、ゆるりと意識が覚醒する。

 ベッドの頭部分に置かれたそれを探しているであろう、白い腕が何度か右往左往と彷徨さまよい、ついにその手は目覚まし時計の頭を叩くに至る。


 閉じていた瞼が、ゆっくりと開いた。最初は視界が霞んで見えるが、徐々に鮮明に見えるようになった。

 カーテンの隙間から注ぐ朝日の細光が、憎たらしいほどに眩しい。


 まず嗅覚についたのは、バターの良い匂い。続いて視界に入ったのは、腰に手を当てている呆れ顔の少年の姿。


(――嗚呼、夢だったのか)


 夢を見たからか、眠たい目をしている黒髪の少女。まだ目の奥から、あの夢の光景が消えない。夢の、男の姿が消えない。

 彼女はそのことを脳裏に過ぎりながら、ぼんやりと少年を見る。


「また遅刻になるぞ――雪月」


 いまだにぼんやりしている彼女に、男にしては少し高めの声で言う。


 窓が開いているため、短いツンツンと尖った黒髪が風で緩く揺れる。顔は悪くない方。日本人に多いアーモンド目に、黒曜石のような黒い瞳をしている。

 今は真っ黒な学ランの上にエプロンを着用して、ある人物を起こしにきている最中。

 その少年、彼の名は――三雲 陽緋、十七歳。三日前に十七歳になったばかりの高校二年生。


「んー……、おはよー……ハルちゃん」


 夢と現の狭間のようで、いまだに覚醒しきらない頭でたどたどしく目の前の彼――陽緋の名を少年のような、そして少し高いのんびりとし声で呼ぶ。

 よく少年の声に間違えられるが、少女である。


 目を擦りながら起き上がる。だらりと下がった首が、ユラリと上がる。サイド長めのショートにした、濡羽色の艶のある黒髪がサラリと左右に別れる。中性的な顔立ちに何処か儚げに見える。丸くて大きな目とスッキリとシャープな目頭を併せもった丸アーモンド目に、陽緋と同じ黒い瞳。

 いまだに着崩れた着流しのままで、髪が所々、ぴょんぴょんとはねている状態。

 その少女、彼女の名は――三雲 雪月、十七歳。陽と同じく三日前に十七歳になったばかりの高校二年生。


 この二人――全く似てないが、正真正銘の血が繋がった二卵性双生児。簡単に言うと、双子。


「ということで、おやすみー……」


「寝るなー!」


 一旦、起き上がった雪月だが、まだ寝足りないよう。再び芋虫のように掛布団に包まって寝ようとする。しかし、それを阻止される。


 雪月から掛布団を引っ張り剥がそうとする陽緋。陽緋から掛布団を奪われないように阻止し、頑なに掛布団から出ない雪月。

 第……そこら辺は数えきれないので、省略。……今、二人の攻防戦が始まろうとしている。


 そんな状態で五分経過。


「寝たらダメだっつの!」


「僕は眠いんだよ!」 


 いまだに、まだこの温もりを浸かっていたい雪月対、遅刻を阻止したいので掛布団を引き剝がしたい陽緋の、攻防戦は続いている。

 そんな攻防戦も雪月の一言で終わりを告げる。


「だって、なんか変な夢見て……」


 雪月は顔だけ掛布団から出して、口を尖らせながら文句を陽緋に言う。


「変な夢って……もしかして、着物? 着流しの男……?」


「そうそう……うん……?」


 夢という単語を言われて、陽緋はそれに何か心当たりがある様子。雪月は夢の内容を言い当てられて、首を傾げた。

 攻防戦のままの状態で、顔を見合わせる双子。


「不思議なこともあるもんだな。二人一緒に同じ夢見るなんて」


「もしかして、何かの暗示だったりしてー」


「不吉なこと言うなよ! てりゃ!」


「ほわぁ⁉」


 ケラケラと笑う雪月が気を緩めた隙に、一気に掛布団を引っ張り剥がした陽緋。その勢いに負けて、掛布団を剥がされた雪月。

 壁側にくっつけていた低めのベッドの上を、雪月は勢いよくグルグルと高速回転して、転がっていく。転がっていった先は、もちろん壁。轟音のような見事な音を立てて、壁に激突。その時、平屋が揺れた気がした。ついでに鼻もぶつけたみたいだ。


 今回の攻防戦の勝者は、陽緋の軍配が上がる。


「いた、い……ハルちゃん」


 鼻を擦りながら、起き上がった雪月。目尻には少し涙が滲んでいる。

 陽緋はいつもの如く流して、掛布団を畳んでベットに置く。障子の方へと向かうが、障子の手前で一旦止まり、顔を雪月の方へと振り向く。


「ほら、朝めし食べるぞ」


「……ほーい」


 眠そう且つ、やる気がない返事。どこまでもマイペースな雪月。

 ノロノロと起きて、ノロノロと動き出す。やっと起き上がった彼女を呆れ顔で確認してから、食卓へ繋がる周り廊下へと歩き出した陽緋。


 陽緋が行った後、雪月はやっと制服に着替えに取りかかった。


 典型的な紺色のセーラー服。鮮やかな赤いスカーフ。

 鏡の前でスカーフを結び、変ではないか確かめる。ついでに手でぴょんぴょんとはねた寝癖を整える。ある程度寝癖を直し、よし、と呟く。


 部屋から出て、朝食が待っている食卓へ繋がる回り廊下を歩いていった。




 着いた時には、陽緋は朝食をほとんど食べて、お茶を飲んで寛いでいた。雪月が来たのに気づいて立ち上がり、台所にある朝食を持ってくる。

 雪月はゆっくりとした動作で、陽緋が座っていた反対側にだらけて座る。座った途端、陽緋に朝食を強請る。


「ハルちゃーん、ごはんちょーだい」


「へいへい、どうぞ」


 持ってきた朝食を雪月の前に置いき、陽緋は元の座っていた所へ胡座を掻く。

 起きた時にも嗅覚へと漂ってきたバターの良い匂いが、今まさに直接、嗅覚を刺激する。


 プリンのようにぷるぷるとした、オムレツにその上に赤色のケチャップ。先程の良い匂いはこれだろう。続いて、プリっとしたウィンナーに、瑞々しいサラダ。さらに、手作りのふわっふわっとしたフレンチトースト。


 なんということでしょうか。豪華な朝食が出てきました。

 エフェクトが作用しているのか、光り輝いて見える。あまりにも美味しそうな匂いが漂う。

 その匂いが食欲を刺激し、盛大にお腹の音が鳴る。


 ここまでは普通に、朝食に見える。

 だがしかし、量が問題だった。量が半端なかった、。本当に量が多かった。山盛りなっているほどの量だった。


 それを見て、どうやって彼女の、あの小柄で細身の体に入るのかという疑問しか浮かばない。

 朝食を目に映した端、だらけた座り方から素早く規律正しい座り方に変わり、キラリと目を輝かせる。垂れた涎をずるりと啜り、手を合わせる。


「いっただきまーす!」


 その合図に、素早く箸を取る。それはテーブルに置いていた箸が消えたかと思わせるような早さで取っていた。

 瞬時に箸を取り、朝食に食べ始める。それも早食いのような動きで、だ。

 瞬間移動のように次々と消えていく朝食達は、雪月の口の中へと溜まっていく。

 その姿は頬を食べ物を溜め込むリスような、ハムスターのような、姿に見えた。さらにもぎゅもぎゅ、と擬音語が聞こえる。


「そんなに口に頬張って、喉つまりするなよ」


 陽緋はその光景に慣れている様で、お茶を飲みながら寛いでいた。

 陽緋の言葉に縦に頷きながらも、その食べる速度は変わらずにいる。別に汚い食べ方はしてないらしく、テーブルマナーは普通に良い。ただ、早すぎて見えないだけ。もの凄い速さであの半端ない量、山盛りになっていた朝食がなくなっていく。ものの十分もしないで食べ切る。その体にあの量を食べる切ったのだ。


「ぷはぁー……ごちそうさまでしたー」


「お粗末様でした。いつもながらのいい食いっぷりですこと」


 手を合わせてから正座を崩して脚を伸ばし、お腹をさする雪月。その横で半端ない量の朝食がのっていた皿を片付ける陽緋。


 今更ながら、いつもなら居る筈の祖父がいないことに気付いた。


「じいちゃんは店?」


「ああ。今日は用事があるから、いつもより早く出て、そのまま店に直行だ」


「そっかー」


 テーブルに肘を付き、頬杖を付きながら、何処か遠くをみるような返事を返した。


「ほれ、その間に鞄持ってきなさい。あ、寝るなよ」


「はぁーい、お母さん」


「お母さんではありません!」


 陽緋を揶揄ってから、バタバタと早足で部屋から鞄を取りに行く。陽は呆れの混じる溜め息を吐きながら、その間に後片付けを済ます。




 玄関の一角に飾ってある写真立て。男性と女性が仲良く、写っていた。

 男性の方は陽緋の面影があるというより、陽緋が男性の面影がある方が正しいかもしれない。

 女性の方は雪月と陽緋が双子というよりも、雪月と女性が双子と思えるほどに瓜二つ。合わせ鏡のように、雪月が女性の生き写しのよう。


「いってきます……父さん、母さん」


「いってきます……お父さん、お母さん」


 双子は瞼を閉じ、その写真に手を合わせた。

 その時間は、静寂に包まれる。


 双子は顔を上げ、玄関の戸に手を伸ばした。玄関の戸はガララと音を立てる。開かれた先は、逆光で見えない。その先に進む双子の姿は、どんどん見えなくなっていく。

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虚の双子と異端の不死者 雪代暁 @yukishirokyo

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