10秒見せられたTVで落ち込む \私の創作の初期衝動

底道つかさ

10秒見せられたTVで落ち込む \私の創作の初期衝動

 ちょっと前にネットでニュースになったが、ボスニア紛争時、大富豪どもが「人間狩りツアー」に参加し、安全なビルの上から銃を撃ちまくって「殺人エンターテイメント」を楽しんでいたらしい。

 世界の裏側なんて遠い話じゃなく、ごく身近な話だこれは。

 私も「的」にされたからな。

 ゆえに私の創作は生じた。


 いきなり何の話だって思うだろ。

 すまん。

 エッセイってのは「何の話か」最初に書いとかないと、分かりにくいもんでね。


 これから話を始める。


 今さっき、風呂に入った。

 以前は毎日入らないと気持ちが悪いくらい、休憩できる好きな時間だった。

 しかし、実は入浴というのは結構体力を使うのである。

 体を悪くして以降、リラックスはしたいが、風呂上がりにだるくなるようになり、清潔を保つ頻度でしか入れなくなってしまった。


 だが、頑張って10分入浴した後は、だるい感じと共にわずかに体が癒される解放感がえられる。

 それを父親に台無しにされた。


 父は、喘息持ちの私や母がうっかり近づけないほどアレルゲンをため込んだ服でだらしなく転び、テレビを付けていた。

「病気に影響するから私がいる時はテレビを消してくれ」

 精神内科医の指導である。

 頭を下げて何度も頼み込んでいるのだが、まあ、口で「ああ」と言っても聞いてくれるはずがない。


 仕方ないので、風呂上がりのほっこり感が残っているうちに、手早く支度を整えて居間から出ていこうとする。


「がああああああああああ!!!」

「おごあああああああああ!!!」


 うっかりTV画面を見てしまうような異様な男の獣声が響いた。

 映っていたのは「○○○○の子」というアニメーション映画。

 DV父親が、ヒロインの女の子の顔を殴りまくってるシーンだった。


 怒鳴り声。

 柔らかい肉が潰れる音。

 悲鳴。

 飛び散る血。

 犯され、千切られ、傷つき、血染めになっていく、女の子の白い顔。


 ただ、この作品を知っている方(私は見ていない)は知っているのだろう。

 女の子はこの直後に覚醒した。

 好きな少年を殴った父親の前に立って睨みつけ、何度も顔を殴られるも、二度と声を上げることも視線をそらすこともなく、ただじっと暴力から視線をそらさない。

 その強い瞳に怯えた父親は崩れ落ちて逃げていく。


 私の父がチャンネルを変える。

 時間にして10秒かそこそこ。

 湯が癒してくれた心はすっかり冷めきり、食いしばりや関節痛、そして、しびれて動かなくなった右手の重さで目が覚めた。


 脳の血管が収縮し激烈な頭痛がする。血が回らない体の中で心臓だけがゴンゴンと不規則に暴れ、溺れた時の息苦しさが呼吸を絞る。

 精神は、今の文章力では表現できないほど狂っていた。

 無理やり例えるなら、ガソリンを浴びせられ火をかけられた人間が悶絶する姿のイメージ。


 こういう風になるから、テレビを見るなと指導されているのである。


 私は正直言って、この監督の、おそらく譲れない信念であろう「児童虐待テーマ」が嫌だった。


 まあ、この映画の公開時くらいから、こういう描写やテーマの作品が現在に至るまで非常に大流行し(「ナントカの原罪」とか、いくらでも思いつくでしょう?)、一人のオタクとして時流を否定する機などさらさらないのではあるが。

 嫌なもんは嫌なのである。


 それは病気の問題ではない。

 ぶっちゃけ、わざわざアニメなど見んでも、自分の記憶を思い返せば「そういうシーン」はいくらでも体験することが出来る。

 飽き飽きなのだ。


 そしてこれが重要だが、別に虐待だのいじめだの、その行為自体がどうこうというのではない(ただ嫌なだけで)。

 こういうのは人間の本能だ。獲物にされたら、いちいち好きだの嫌いだの言ってないでどうにかする方が先だ。どうにもならなければ死ぬほど悔しい思いをしながら死ぬだけだ。

 そこに特別な感傷や悟りは無い。

 ただ、事実と経験があるだけである。


 そしてここだ。

 嫌いなのは、強い意志で立ち向かえば、力が無くても暴力の方が自らの醜さに耐えらず滅ぶ。

 この大嘘である。


 いや、フィクションだから嘘なのは当然だ。

 だから、別にアニメや漫画やゲームでそういうのがいくら流行っても全然かまわない。

 見逃せないのはそこじゃないんだわ。


 つまり、もうずっと前から学校教育なんかでも、この「嘘」をさも事実であるかのように喧伝し、何の効果もない「いじめ、カッコワルイ」とかいうポスターを張って、人助けをした気になっている「言いようもない奴ら」である。


 結論だけ、書く。


 暴力には暴力でしか立ち向かえない。


 勿論、字面通り単純な場合は少ない。

 加虐的な力というのは、今や無形であることの方がほぼ全部である。肉体的に傷害させるのは、全体の母数に比べれば極極わずかだ。


 そうすると、それに立ち向かう力というのも、まあ色々ある。

 だがしかし、逃げられず、ごまかせず、本気で相対するしかないとなった時、大抵状況は裁判か、直接の殺し合いになるしかない。


 これ以上、くどく言わなくてもどっかで似たような話は見ているだろう。

 要するに、人間を人間と感じずに(あるいは感じていてなお)、それでも残虐の限りを――

 理由は何だろうがこっちは知ったこっちゃないが――

 俺を / 君を / 誰かを害して笑顔になろうよという奴らに、「良い人」の論理を説いて、事態が解決されると、あなたは考えるか?


 ならない。

 いや、ならなかったと書いておこう。

 世の中、俺だけじゃないないからな。


 ともあれ、例えるならば、奴らはタバコを吸わないとイライラしてくる(らしい。俺は吸わんから知らん)かんじで、人を苦しめないと死にそうなほど苛立ったり退屈するようだ。

 でも、一服感覚で傷害できる相手は限られるから、自分の子供だとか、妻とか、肉体が不備の人を殴りに来るわけだ(有形無形でな)。


 そういう人間が罰則がない口先だけの性善論で止まると思いますか?

 結論はここには書かない。

 ググれば分かるからな。(ググるってまだ死語じゃないよね?)


 だから、暴力に立ち向かうしかなくなったとき、必要なのは「力」だ。

 他の何でもない。


 ただ前提として、そういう立ち向かう力がないものを狙って危害を加えてくるから、私が高々と叫ぶこの言葉も、また空っぽの虚構なのであったりする。


 腕が痛い。話をまとめよう。

 言って伝わらないことが、書いて伝わるとは思っていない。

 だからこれは独り言同然なのだが、せっかく発表する場があるのだ。


 暴力には「力」でしか立ち向かえない。

 しかし、前提として被害者は「力」を持てない。

 だから、一方的な虐殺(虐待やいじめは法的に殺人である)は無くならない。


 ただし、例えば私ならこの場で、カクヨムというWEB小説投稿サイトで「力」を振るえる。

 言った通り、「力」とは、今や無形であることの方が普通だ。


 腹に据えかねる「敵」を、「力」でぶっ潰す。

 そういう文章を書く。

 発表する。


 どんだけ弱かろうが、戦うことも出来ずに殺されるよりずっとましさね。


「それは言葉の刃による暴力だ! 君を傷付ける人と同じになっちゃいけない!」

 黙れ。

 言ったぞ。

「暴力には暴力でしか立ち向かえない」

 然り。

 言葉は武器。

 言葉は力なり。

 周囲のことも考えずに振るう力はまさしく「暴力」。


 だからこそ、戦える。


 いずれ動かせなくなるまで。

 私は、脳が痺れるたびに、納得できない感情に引きずり回されながら「力」を振るい続けることでしょう。


 おや、あなたは全く違うと。

 素晴らしい。

 世の中から、そういう「普通の人」がいなくなっちまったら、いよいよ「ダメ」ですからね。


 普通じゃないことは俺に任せて、先に行きな。



 追記:

 ところで、あの映画のタイトル、「バケモノ」っていうのは違いますね。

 あるいは反意的なミームも込めてそんな言葉にしたのかもしれないですけど。

 内容の意味に即してつまらなく実直に表現すると、「ニンゲンの子」ですね、あれは。



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