山の荒神
玄道
猟神
序
昭和三十九年 十月
私は、北海道に一人で観光に来ていた。
ひとり旅は良い。日頃見る子供たちから離れて、自分だけを内省できる。
私は、名も知らぬ山にわけ入る。
山で会った老人は、狩人だった。
八年前、猟銃の免許は返したが、現役だと。
厳しい顔だが、柔らかな声の老猟師は、タイスケと名乗った。
一
タイスケは、猟犬すら飼っていない。
彼がシーズン中に滞在する小屋には、多様な罠と牛刀、大小のナイフが揃っていた。
私は、その光景を何と形容して良いのか、未だに見当も付かない。
「タイスケさん、一人で狩りって……失礼ですけど、そのお歳で」
彼は、くすりともせずに呟く。
「狩りなんて、こんなもんだ。俺は妻にも先立たれた。銃を返す前だ」
「そう、でしたか」
「あれ以来、獲物を食うのも……な。骨を持ち帰るだけだ」
タイスケは、口数の少ない、筋骨逞しい男だった。
彼の小屋には、鹿の大腿骨が並んでいた。残りの骨は砕いて撒くのだと、タイスケは話してくれた。
私は、愛した人との別れが、彼の死生観、猟に対する意識まで変えたのだと、柄に無い感傷を抱いた。
尊敬を込め、彼を密かにタイスケ翁と呼んだ。
二
出会いから、一ヶ月が過ぎた。
タイスケ翁は、今年に入ってから、二頭の獲物を仕留めたという。
二頭の鹿だと。
北の大地で、一人、銃も持たず獣と向き合う猟師を、私は神聖なもののように見始めた。
「一頭は、ありゃ雌だった。賢しい奴だった……隠れるのが上手かった」
「一頭は?」
「もう片方は雄だ……あれも、最期まで生きるのに必死だった。たまに哀れにもなるが、何故だろうな。止められんのだ」
タイスケ翁の頬に、小さな生傷が走っている。それが、闘いの激しさを物語っていた。
タイスケ翁の持参した食糧が、早くも時期の終わりを告げていた。
鹿の大腿骨は、数えると十本目になっていた。
三
その日も、私はタイスケ翁の小屋に向かう。
「タイスケさん、私です」
返事がない。
ドアノブは回る。
中から、暖炉の音がする。
「タイスケ……さん?」
手に、脂汗をかいてしまう。
孤独な翁の最期、私の決して見たくない、それが中にある気がした。
「タイスケさん!!」
果たして、中にいるのは骨を取った獲物を暖炉で焼く、タイスケ翁の姿だった。
「おう、あんたか」
大腿骨を無くし、暖炉で荼毘に伏されているのは、野生の獣ではなかった。
私は、膝から崩れ落ちる。
彼の言う"鹿"は……鹿では、ない。
「タイスケ……さ……ん、それ、は」
タイスケ翁は、いつもの口調で告げる。
「止められんのだ」
炎が逆光となり、彼の顔が見えない。
私の見ていたものは、私が信じていたものは、何だったのだろう。
「視界が悪くてな、ユキコを……あの時、熊か何かだと思ったんだ」
私は、何も言えない。
「獣とは違う手応えだった」
当たり前だ、それは……禁忌の感触だ。
「あの時、俺は知っちまったんだな」
止めろ……それ以上は。
燃焼する暖炉が、何やら神聖な、それでいて禍々しいものに映る。
それは、この山の神が住まう処に見えた。
「獣どころじゃねえ、俺の周りには、もっと手応えのある獲物が彷徨いてるって」
私は、小屋を飛び出し、走った。
山中を、服など構わずに走り抜けた。
翁は追ってこなかった。
そして、私は人里に出た。
ぼろぼろの私を遭難者と間違えた観光客が、警察に通報し、私は人の世界に帰還した。
調べには、『獣と遭遇して、荷を放って逃げ出した』と答えた。
山の荒ぶる神と、私は通じ合ってしまったのだろう。
タイスケ翁とは、それきりだ。
四
あれから、矢のように月日が過ぎた。
私は、東京で塾の講師を続けている。
栗や秋刀魚が店に並び始めると、タイスケ翁はどうしているかと今も思う。
北海道の山中で、人狩りに精を出す荒神の話は、誰にもしていない。
「では、今日はここまで。復習忘れないように」
教室に、小鹿が群れを為している。
そろそろ、この仕事を辞すべきだろう。
金物屋の前を通ると、胸がざわつき、足早にその場を去るようになった。これではいけない。
私は、独身を貫くつもりだ。
荒神に憑かれた私が、タイスケ翁にならない保証は、どこにもないからだ。
我が家に、"まだ"鹿の大腿骨はない。
<了>
山の荒神 玄道 @gen-do09
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