第5話:冬の始まりと、閉ざされた心 ~絶望の果て、運命の街へ~


**~絶望の果て、運命の街へ~**


 季節が変わるのは、いつも唐突だ。まるで神様がリモコンのチャンネルを間違えて変えてしまったみたいに、昨日までの優しかった秋は、一夜にして姿を消した。


 北の山脈から吹き下ろす風は、「冷たい」という生易しい感覚を通り越し、見えない刃物となって肌を削ぎ落としに来る。鉛色の空は、洗うのを忘れて放置された雑巾のように重く低く垂れ込め、太陽という名の照明器具を完全に遮断していた。

 地面には、不器用な巨人が砂糖壺をひっくり返したような白い霜がびっしりと降りている。


 ザリ、ザリ、ザリ。


 霜柱を踏み砕く音が、鼓膜に直接響くような静寂の中、メイは歩いていた。

 かつては輝くような銀髪だったかもしれない髪は、泥と脂で固まってネズミ色になり、ボロボロのローブは風が吹くたびに頼りなくはためく。その姿は、生きている人間というよりは、墓場から抜け出して帰る場所を忘れてしまった幽霊のようだった。


 メイの心の中にある「司令室」は、現在、完全な停電状態にあった。

 以前ならば、「わあ、霜柱だ! キラキラしてる!」と報告を上げてくる『感動担当』も、「寒いから温かいスープが飲みたい!」と騒ぐ『欲求担当』も、今は全員が職場放棄してストライキ中だ。

 残っているのは、ただ機械的に「右足を前に出せ」「次は左足だ」という単純命令を繰り返す『自動操縦プログラム』だけ。


 期待なんて、もうしない。

 希望なんていうのは、馬の目の前にぶら下げられた人参と同じだ。どれだけ走っても手に入らないし、走れば走るほど疲れるだけ。それなら、最初から走らなければいい。

 メイは、分厚い布で顔をぐるぐる巻きにしていた。視界は悪いし、息苦しい。けれど、この布が一枚あるだけで、世界と自分の間に「壁」を作れる気がした。


「アホー、アホー」


 そんなメイの頭上で、気の抜けた鳴き声がした。

 見上げると、一羽のカラスがついてきていた。

 ただのカラスではない。普通のカラスなら漆黒の翼を広げて空の王者のように振る舞うものだが、このカラスはどこかデザインが間違っていた。

 目が離れすぎていて、常にどこを見ているのか分からない。くちばしは少し曲がっていて、半開きになった口からはピンク色の舌がだらしなく見えている。飛ぶ姿も、向かい風に煽られるたびに「おっとっと」とバランスを崩し、空中で見えない階段から転げ落ちるようなアクロバットを披露していた。


「……ついてこないで」


 メイが掠れた声で呟く。喉が渇いて張り付いているせいで、老婆のような声が出た。

 カラスは「アホー(了解)」と答えたかと思うと、急降下してメイの肩に留まろうとした。しかし距離感を見誤り、メイの頭の上を滑走路にしてズルズルと滑り落ち、フードの中に顔から突っ込んだ。


「……邪魔」


 メイは無表情のまま、フードの中でバタバタと暴れる黒い塊を掴んで放り投げた。

 カラスは地面にベシャリと落ちたが、すぐに起き上がり、何事もなかったかのように「アホー(元気?)」と首を傾げた。そして足元にあったキラキラ光るゴミ――誰かが捨てた王冠のキャップ――をくちばしで拾い上げ、メイの足元にポトリと落とした。

 プレゼントのつもりらしい。


 メイはそれを無視して歩き出す。

 カラスは諦めない。今度は枯れたミミズの死骸を持ってきた。無視。

 次は、妙な形をした小石。無視。

 このカラスには、世界に対する恐怖心という機能が欠落しているらしい。あるいは、メイが放つ「負のオーラ」を感知できないほど鈍感なのか。

 皮肉なことに、これまで出会ったどの人間よりも、この間抜けな鳥だけが、メイの「紫の瞳」を隠している布の下を見ようとせず、ただそこにいることを許していた。


 その時だった。

 枯れ木に擬態していたモンスター――「ウッド・スパイダー」が、音もなく襲いかかってきた。

 牛ほどの大きさがある巨大な蜘蛛だ。飢えた赤い複眼がギラリと光り、鋼鉄をも噛み砕く鋭い牙が、メイの細い首を狙って迫る。

 カラスが「アホッ!?(やべっ)」と叫んで空へ逃げた。


 普通の少女なら、悲鳴を上げて腰を抜かす場面だ。

 しかし、メイの心拍数は一つも上がらなかった。

 『恐怖担当』のスタッフもまた、とっくの昔に退職していたからだ。

 メイは立ち止まりもせず、ただ邪魔な枝を払うような仕草で、右手を軽く横に振った。


 ――ドォォン!!


 メイの指先から放たれた衝撃波は、蜘蛛の胴体を風船のように破裂させ、その背後にあった大木を三本まとめてへし折った。

 粉々になった蜘蛛の残骸が、バラバラと雨のように降り注ぐ。

 圧倒的な暴力。災害レベルの魔法。

 けれど、それを放った本人は、飛び散った体液がローブにかかったのを見て、「あーあ、また汚れちゃった」とでも言うように、小さくため息をついただけだった。


 強さとは、何かを守るための力だと思っていた。

 でも、守るものが何もない今のメイにとって、この強さはただの「呪い」でしかない。

 自分を傷つけようとする世界を、反射的に壊してしまう防衛本能。

 カラスが木の上から降りてきて、粉々になった蜘蛛の脚を一本くわえ、メイに見せびらかすように「アッホー(勝ったな)」と鳴いた。

 メイはカラスを見ずに、また歩き出す。


 冬の風が、濡れたローブを冷やし、体温を奪っていく。

 痛い。寒い。

 でも、この痛みだけが、自分がまだ生きていることを教えてくれる唯一の信号だった。


***


 何日歩いたかわからない。

 景色が荒野から、少しずつ人工的なものへと変わってきた。

 遠くの丘の上に、巨大な城壁に囲まれた街が見える。

 日が暮れかけていた。街の中からは、温かそうな灯りが漏れ出し、夜空をオレンジ色に染めている。風に乗って、微かに賑やかな音楽や、肉を焼く匂いが漂ってくるような気がした。


 あれが、噂に聞く王都だ。

 そして、「英雄」がいる街。

 道中、すれ違う旅人たちが話していた。

 空を飛び、一撃で魔神を葬り去り、どんな願いも叶えてくれる最強の英雄がいる、と。


「……ふん」


 メイの口から、乾いた笑いが漏れた。

 英雄? 救世主?

 そんなものがいたとして、それが私と何の関係があるの?

 どうせその英雄も、「正義」という名の剣を振りかざして、私のような異物を排除するに決まっている。

 光が強ければ強いほど、影は濃くなる。あの煌びやかな街の光は、私を照らすためのものではなく、私の影をより一層黒く焼き付けるためのスポットライトだ。


 街には入りたくなかった。

 でも、手持ちの食料は尽き、体は限界を超えていた。どこかの路地裏で、誰にも見つからないように泥水でも啜らなければ、冬を越せない。

 「生きたい」という執着すら捨てたつもりだったが、体というハードウェアは、まだ生存を諦めていないらしい。厄介なことだ。


 街へと続く街道は、綺麗に舗装されていた。

 その道端に、三つの人影があった。

 焚き火を囲んで酒を飲んでいる男たち。冒険者を気取っているが、その装備は手入れされておらず、目つきはハイエナのように卑しい。


 メイは関わり合いにならないよう、道の反対側の草むらを歩こうとした。

 だが、運命の脚本家は、いつだって意地が悪い。


「おいおい、ちょっと待てよ」


 粘りつくような声。

 真ん中にいた小太りの男が立ち上がり、メイの前に立ちふさがった。

 脂ぎった顔には、「もっと欲しい、もっと満たされたい」という終わりのない欲望(貪)が張り付いている。

「汚ねぇガキだな。でもよ、そのローブの下に、なんかいいもん隠してんじゃねぇのか? 金とか、食いもんとかよ」


 メイは足を止め、深くうつむいたまま首を横に振った。

 関わらないで。空気だと思って。


「無視すんじゃねぇよ!」


 次に吠えたのは、痩せこけた背の高い男だ。彼の目には、常に何かにイライラしているような、八つ当たりの対象を探す怒り(瞋)が燃えていた。

「俺たちは今、機嫌が悪いんだ。英雄サマの活躍のおかげで、俺たちみたいな弱小冒険者は仕事がねぇんだよ! 全部あいつが持っていきやがる!」

 逆恨みだ。でも、怒りに狂った人間に理屈は通じない。彼はメイの肩を乱暴に突き飛ばした。


 ドサッ。

 メイは抵抗することなく、枯草の上に倒れ込んだ。

 痛みはある。でも、心は「ああ、またか」と、事務的に処理をするだけだ。これが世界のデフォルト設定(仕様)。驚くことじゃない。


「おい、顔を見せろよ」


 最後に口を開いたのは、焦点の定まらない目をした大柄な男だ。彼は状況を理解していない。ただ、「自分たちは正しい、こいつは怪しい」という根拠のない思い込み(痴)だけで動いている。

「顔を隠すってことは、やましいことがある証拠だ。俺たちが確認してやる。それが正義だろ?」


 男の手が伸びてくる。

 メイは体を丸めて、必死にフードを押さえた。

 殴られるのはいい。蹴られるのも我慢できる。

 でも、顔だけは。瞳だけは。

 それを見られたら、また「化け物」と呼ばれる。石を投げられる。

 「ここにいてはいけない」と、存在そのものを否定される。それだけは、もう耐えられそうになかった。


「やめ……て……」


 消え入りそうな声で懇願する。

 しかし、その弱々しい抵抗は、彼らの加虐心を刺激するスパイスにしかならなかった。


「生意気言ってんじゃねぇ!」


 怒りの男がメイの腕を蹴り上げる。

 衝撃で、フードを押さえていた手が外れた。

 貪欲な男が、その隙を見逃さず、汚れた手でメイの顔を覆っていた布を掴み――思い切り引き剥がした。


 バサッ。


 時間が止まったようだった。

 雲の切れ間から、意地悪なほど美しい月光が差し込んだ。

 その光を受けて、メイの左目が妖しく、鮮烈に輝いた。


 それは、深い夜の底を切り取ったような、あるいは毒の花の蜜のような、鮮やかな紫のアメジスト。

 人間のものではない、異界の色。


「……ひッ!?」


 男たちの動きが止まる。

 数秒の沈黙。彼らの脳内で、「汚いガキ」というタグが剥がされ、「恐怖の対象」という新しいタグが貼り付けられる音聞こえた気がした。


「む、紫の瞳だ……!」

「伝承の……『災いを呼ぶ魔女』だ!」

「呪われるぞ! 目を合わせるな!」


 さっきまでの威勢はどこへやら。男たちは弾かれたように後ずさった。

 その顔に浮かんでいるのは、純粋な恐怖と、生理的な嫌悪。

 まるで汚物を見るような、あるいは致死性のウイルスを見るような目。


 ああ、やっぱり。

 メイは呼吸を忘れたまま、その視線を全身で浴びた。

 心臓の奥の、一番柔らかい場所を、冷たい針で刺されたような感覚。

 分かっていたはずなのに。期待なんてしていなかったはずなのに。

 それでも、「もしかしたら今回は大丈夫かもしれない」という微かな甘えが、心の片隅に残っていたのだと、突きつけられた痛みで気づかされる。


「く、来るな! 化け物!」


 男の一人が、足元の石を拾って投げつけた。

 石はメイの額に当たり、鈍い音を立てて転がった。

 赤い血がツツリと流れ落ち、紫の瞳にかかる。

 メイは痛がることもなく、ただ静かに、投げつけられた言葉と石を受け入れた。

 反撃する気力もなかった。魔法で彼らを消し炭にすることは簡単だ。でも、そうすれば、彼らの言う通り、私は本当に「災いの魔女」になってしまう。


「うわぁぁぁ! 逃げろぉぉ!」


 男たちは悲鳴を上げながら、転がるようにして街の方へと逃げ去っていった。

 後には、静寂だけが残された。


 メイは震える手で、地面に落ちた布を拾い上げた。

 泥だらけになった布。

 それを丁寧に払い、再び顔に巻き付ける。きつく、きつく。二度と光が入り込まないように。二度と誰にも見られないように。


「……痛い」


 額の傷ではない。

 胸の奥が、軋むように痛かった。

 涙は出なかった。涙という水分すら、もう枯れ果ててしまったのかもしれない。


「カァ……」


 近くの枝に止まっていたカラスが、心配そうに一声鳴いた。

 メイはカラスを見ずに、独り言のように呟く。


「大丈夫。これが、普通だから」


 そう。殴られるのも、罵られるのも、逃げられるのも。

 これが私の日常。私の世界。

 期待しなければ、裏切られない。

 誰とも関わらなければ、傷つかない。

 私は一人でいい。一人がいい。


 メイは立ち上がり、足を引きずりながら歩き出した。

 向かう先は、あの輝く街の門。

 希望を求めてではない。ただ、そこを通らなければ、次の場所へ行けないから。


 遠くに見える街の灯りが、涙で滲んでいるように見えた。

 けれどメイは、「これは寒さのせいだ」と自分に言い聞かせた。

 心なんて、もう凍ってしまえばいい。

 そうすれば、痛みも感じなくなるはずだから。


 凍てつく冬の風が、メイの背中を冷たく押し続けていた。

 その風の向こう、光溢れる街の中で、能天気な英雄が「今日は宴だ!」と笑っていることなど、知る由もなく。


 メイは幽霊のように静かに、運命の街の門へと足を運んだ。


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